いわんや、ホームレス転落の危機

 ホ妻には様々な欠点がございます。もちろん、ワタクシにもございます。この世に欠点のない人間などいないというのは全く真理でございまして、配偶者の欠点にいちいち腹を立てていては夫婦などという商売は到底やっていけぬのでございます。しかしその欠点から派生した現象が配偶者に対して著しく迷惑・危害を及ぼすものであったり致しますと、やはり被害者としては笑って許すというわけにはいかぬのもまた人間の悲しいサガでございましょう。

 ホ妻の場合、代表的なものとしてはまず「忘れっぽい」という根本的な問題がございまして、この問題から派生してよく起きるトラブルが「自宅のカギを持たずに家を出る」という事態でございます。ワタクシども夫婦は共稼ぎでございまして、しかも「置きカギ」などというシステムはとっていないため、片方がカギを忘れると、もう片方が帰ってくるまで家に入れないという悲惨な状況が発生することになります。しかるに、トホ妻はこの「カギ忘れ事件」を大体1年につき1.5回くらいの頻度で発生させるのでございます。ちなみに、ワタクシは結婚以来一度もございません。

 おむね、帰宅時刻は妻の方がワタクシよりも早いため、カギを忘れたトホ妻はワタクシの会社に救援要請電話をしてくることが多うございます。従って仕事が詰まっていない場合、続きは自宅のMacでも出来るというような場合はワタクシは早々に帰宅するわけでございます。ただ、仕事の都合上どうしても遅くなるといった日にカギを忘れたり致しますとコトが面倒になってまいりまして、そういう場合トホ妻はワタクシの勤務先の近所までカギをもらいに来るしかないのでございます。

 またまワタクシが仕事上の山場を迎えていたある夜、狙ったようにトホ妻はまたカギを忘れたのでございます。その夜のワタクシは早めの帰宅など不可能でございましたから、例によってトホ妻を勤め先の近所まで呼び寄せ、カギを渡し、ついでに二人で夕食などを済ませたのでございました。ここまでなら、まぁ「困ったヤツだ」ですむ話でございます。

 題はその後でございます。ワタクシが仕事に一段落をつけ、帰宅しましたのはもう夜の12時近くであったと記憶しておりますが、とにかく疲れ果てて帰ったワタクシは「そうか、カギは渡したんだったよな」と思いながらまずドアノブを回してみました。カギは閉まっております。次に呼び鈴を鳴らしてドアを開けてもらおうとしたのですが、何度鳴らしても内側からの反応がないのでございます。

 はや何が起こったのか疑う余地はございません。トホ妻は自分のカギを忘れたうえ、今度はワタクシが「カギなし亭主」であることも忘れ果てて眠ってしまったのでございます。信じ難いこの忘却の二重構造。しかも寝室は2階、ヨジ登って呼び起こすこともままならないワタクシが思わず天を仰いで神に、そしてトホ妻に対して呪いの言葉を吐いてしまったとしても無理からぬ話と申せましょう。

 び鈴を連打しても反応しないとなればその時のトホ妻はよほどの昏睡・熟睡・爆睡状態にあると考えぬわけにはまいりません。しかし何しろ時刻は深夜でございます。隣近所の手前もございますれば、ドアを蹴飛ばして「おーい!!」などと不作法な大声を出すわけにはいかないのがワタクシの置かれた立場のツラいところでございまして、「今夜はホームレス」という言葉が徐々に現実味を帯びてワタクシの頭の中を駆け巡ったのでございました。

 かしまだ打つ手はございます。次に電話のベルで妻を起こそうと考えたワタクシは前の薬屋の公衆電話まで戻り、怒りを込めて自宅電話番号をダイヤルしつつ、寝ボケ声でトホ妻が出たらビシッとこう言おう、ああ言おうなどと考えながら呼び出し音を聞いていたのでございます。しかし恐るべきはトホ妻の睡眠パワー、彼女はよほどの惰眠・泥眠・豪眠状態なのか、電話のベルですら起きる気配がないのでございます。悄然として受話器を置いたワタクシは再び自宅ドアに戻り、呼び鈴を鳴らすという作業を再開したのでございますが、これも先程と同様、我が家の暗い室内にピンポンという音だけが悲しくこだまし続けるだけでございました。

 間にすれば1時間くらいでしょうか、公衆電話と自宅ドアの間を何度も往復いたいましたが、トホ妻は起きず、途方に暮れたワタクシはいよいよ次の作戦、路上の石を2階の窓に投げつけ、その音で妻を覚醒させることに着手し始めたのでございます。しかし呼び鈴にも電話のベルにも反応しない泥眠状態の妻が、石が窓に当たる音程度で起きるわけがございましょうか。しかも窓ガラスを割ってしまっては、という怖さからつい小さな石を選んでそっと投げてしまうワタクシでございまして、これも人間の悲しいサガと申せましょうか。

 してついにワタクシはキレました。ドアを激しくノックし始めたのでございます。深夜に玄関ドアのノックの音というのは隣近所までかなり響きわたるもので、近所迷惑以外の何物でもございませんが、もうそんなことも言っておれません。この「ノック乱打+呼び鈴ピンポン連打」という大騒音はさすがに泥眠状態であったトホ妻をも目覚めさせ、ようやく寝ボケ顔の彼女によって玄関ドアは開かれるに至ったのでございます。ああ…しかしこの騒音で一体何人のご近所の方を起こしてしまったことか。この場を借りてお詫び申し上げます。

 の事件の後、さすがのトホ妻も反省してカギ忘れは治った…と言いたいところでございますが、依然として1.5回/年くらいのペースでカギは忘れ続けております。しかしそれ以上に驚くべきことはこのように夫をホームレス転落寸前にまで追い込んだ自分の所業をすら、彼女はどうやら忘れてしまっているということでございます。まさに忘却の三重構造、恐るべきトホ妻の忘却パワーと申すほかございません。この分ではいずれ真冬の日にトホ妻がまたカギを忘れ、翌朝自宅前で憤怒の形相に凍り付いたワタクシの凍死体が発見されるという日も遠くなさそうでございます。

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