'97年度開始 実質一浪目?!。
現代社会にて発見 干支一回りすりゃ教科書も変わるよね。
化学にて発見 変わったのは社会だけかと思いきや。
初夏の頃 ぐらっと来たとき。
模試:ゼスチャーな人々 ふと気付くと、言葉はなかった。
模試:お弁当事情 今時の受験生のお弁当を見て。
模試:自分の経過 徐々に上がってはきました。
'98センター試験:会場 今度は女の園でした。
'98センター試験:中身 去年よりいくらか難化。にしても失敗。
'98二次試験:前期 結果は運ではなく自分が招いたものです。
浪 人 記 '97年度
半年で目鼻が付いたのだから後はしっかり肉付けすればいいんだ!実質一浪気分で出発。家人に予備校に入れば?といわれてびっくり辞退する。そんな何十万もかけたらもったいない〜! それに、それだと薄給とはいえ添削の仕事もできなくなるし。今度は一年あるんだし、半年の基礎は あるんだし、家で効率的にやりますと。
倫理より現社の方が出願校の選択肢が広いし,そう難しくないだろう、との助言で現社に乗り換え。 倫理分野は固めてるので苦手な政経部分さえ強化しとけばいいはずだし。
現代社会の内容がかなり追加されていることは予想済み。ベルリンの壁が壊れている頃、大学の部室で きっと教科書にいっぱい載るんだろうねーなどと、お菓子を食べながら話していたのを覚えている。 ソ連の解体やら湾岸戦争なんて,つい,ああこのせいで卒業旅行も行けなかったし等と、いちいち その頃の生活までセットになって思い出されて歴史と共に生きてきた年寄り気分。パレスチナ暫定自治だのPKOだのアゼルバイジャンだの、え〜これも?こんなのも載っちゃうの? つい昨日今日,小宮(悦子)さんが読んでたやつでしょ?おおっこの米問題は、娘が生まれた翌年だった じゃないかい。両親が私の社会の教科書を覗いては、わあ〜こんなのがもう載ってる!と盛り上がっていた のを、また思い出す。
10年以上経てば社会の教科書が変わるのは予想済みだったが、化学で新発見が加わっていたのには びっくり。炭素の同素体。黒炭、ダイヤモンド、後ひとつ??総称フラーレン。1985年に発見され,Cが60個とか80個とか球面状に連なっている物質。 何でもエイズだの超伝導だのにもお役立ちのトレンディなものらしい。
このころ複合的に体調を崩したことや外的な諸事情で初めて再受験の気持ちがぐらついた。 今にして思うと大変鬱な状態だった。すっかりこんがらがったところで、やめると言い出したところ 常日頃、強硬な物言いは決してしない家人はきっぱりと言い放った。・それぐらいの事情がやめる理由に値するとは思えない。敵前逃亡の言い訳にしか思えない。
・たとえ先で何か不都合が生じたら、その時考えて工夫すれば何とでもなる。
・自分は出来る限り協力する。あれだけやりたがってたのは何だったのか?
私は困った。でも嬉しかった。程なく一応色々と整理されてきて戦線に復活した。
去年に引き続き、模試の時は今時の受験生の観察も面白かった。まず第一の印象はみんな 「知らない人」とは口をきかない。模試なのだからいきなり自己紹介したり世間話を始めたりするとは 思っていないが、「言葉を交わす」ということを極力減らしているようだ。奥から通路に出るので、いすを引いてもらう、落とした鉛筆を拾って渡す、それを受け取る、あれ、 このカバンはあなたの?と尋ねる、といったときに、あまり声を出さない。
とんとんと肩を叩く、ちょこっと首で会釈、黙って差し出す、手をどうも、というように振る、 無言でいすを引く。これあなたの?と手話のように手振りで聞く。いえいえ、と無言で手を振る。 声を出しても「あっ」+会釈、とか「どもっ」とか長くて「すいません」ぐらい。
「これ落ちましたよー」「あ、ありがとう」「ちょっと通してもらえますか〜?」「あ、どうぞー」 「このカバンあなたのですか?」「え?あ〜、違います」 といった軽くまとまったやり取りとかセンテンスは思ったよりずっと少ない。 口きくのが嫌いなのかというと、徹底的に無言の行をしているような人でも、友達が来ると 「スイッチが入ったように」しゃべりまくってにぎやかになったりするということも多かった。 これは10年前と比べてと言うより、いくらか歳を取って見えるようになった事という気もする。
例外的で印象に残った人は二人いて,一人は試験監督の女の人(多分かなり年下)。受験票の出身校を 見て覚えてたようで、最後に答案を提出して教卓の前を通ったとき「○○校の方ですよねー。私の大学の 友達で同じ高校の子いるんですよ!あ、同じ!と思って。頑張って下さいねー」とやたら素朴な笑顔で 言ってくれたおねえさん。
もう一人は、理科を1科目しか受けないので途中で退出する関係で、通路側に座っていた私に あらかじめ2科目受けるか聞いてきたお兄さん。後ろをすり抜けながら「ぼく一教科なんで。 じゃあ頑張って下さいねー」などとごく自然に言っていた。かなり珍しい。
ずっとこうしていると、海外に行ったときに,「道や公共の場で通りすがっただけの知らない人でも 温かく気軽に声を掛け合っているのが新鮮で素敵だと思った。」って事になるんだろうか。
模試は途中で昼食が入る。見回すと圧倒的多数はコンビニランチ。 10年前だってコンビニはあったけどここまで圧倒的多数ではなかったと思う。 さすがにこの年だと特に男の子は手作り弁当なんてこっぱずかしくていやなんだろうな。 女の子はいくらかお弁当が多い。お母さんが作ってくれるんなら持っていくって感じなのかな? 中には手作りの人もいるかも知れない。私は手作り。お母さんお手製!って私がお母さんなのだが。 栗ご飯にゴマ和えに豚肉のショウガ焼きとか渋いぞ。そして見渡す限り机の上ににょきにょきと立っているのは、ここ数年の自主規制緩和であっという間に 普及した小型ペットボトル。これは10年前と明らかに違う。ごく少数,水筒組も健在。
模試にもだいぶ慣れてきた。手応えも日々付いてきた。朝から夕方までの試験は疲れるが、 それはあまり感じなかった。むしろ休日を一日二人の子供を引き受けてくれてる家人を思うと この一日をありがとうーという気分だった。帰路では早く復習したくてうずうずした。 最後の模試はそれまでDかE判定ばっかりだった東京医科歯科大に初めてB判定が出た。
東京家政大学。この会場は女子のみだった。右も左もぎっしりと女女女・・。高校以来の雰囲気。 建物は新しくてきれいだった。控え室は丸い講堂。周りにはぐるりと半円を描いてロビーがある。 ロビーの壁には額に入った服飾なんとか科の卒業制作のコラージュがずらっとかけてあり、 これがとっても面白かった。それぞれあるテーマに関連する写真を主に方形に組み合わせた1m四方ぐらいのパネル。ナオミ キャンベルのコラージュはどれもすごくいい写真でかっこよかった。インド更紗の文様は好きなので 見飽きない。アンドロギヌス、という中性的な美形ばっかりのものは趣味入ってますなーという感じで 面白かった。海、や花、きれいだけどインパクトはそうでもなかった。飛行機、アンティーク、も 一枚一枚の写真が面白くてずっと見ていた。
他に階段の踊り場の飾り窓には同じく卒業制作のテディベアがぎっしりきれいに飾ってあったりして、 ああ、女子大だわー。って感じだった。
構内はエスカレーターの高校や幼稚園や他の学校がまとまっていて家庭的な感じだった。 土曜日は体操服で渡り廊下を渡っていく高校生も見かけた。幼稚園の小さな庭はかわいかった。 お昼になると幼稚園のお迎えのお母さん達も沢山いた。
最初の日の昼、守衛さんに「自販機はどこにありますか?」と聞いたら、守衛さんは私の顔を見て 「えーっと幼稚園の方(お迎えの父母)?」と言った。がーん。いや、確かに年齢的にはそっちの方ですが。 受験生には見えませんかあ・・。
どうも数学が大変まずそうだった。他にもいくつか問題が難化しているなと思われる科目もあった。 自己採点すると何と!8割ちょっとしかなかった。大ショック。この1年は・・・・。 多少平均が下がることは予想されたけどこれはどうも医学部を受けるには低すぎる点だった。河合塾のインターネットによる判定サービスが動き出すのを待って入れてみた。 データが多いせいか、混んでるせいかむちゃくちゃ時間がかかった。 志望大学の志望者の点数ヒストグラムと自分の位置が出てきた。 一番多い真ん中へんの棒より一つ低い棒の中にいた。
後期を受けられる点ではないので後期出願はやめた。二次試験でいっぱい挽回することだけを考える しかない。5分5分という気持ちで再び東京医科歯科大学を受けた。 問題は去年よりはかなり難しいように思えた。去年よりは書けなかったけど、難易度に対しての 出来映えは上がったのか下がったのかよく分からなかった。 どっちにしてもこれでもばっちり出来るぐらいじゃないとダメなはずだ・・でも、??発表にいくと番号は無かった。その時はがっかりよりも一年間のあんなにたくさんの家人の協力を ふいにしてしまった、どうしよう、どうしよう、どうしよう・・だった。 その日の家人曰く。だらだら続けるんじゃしょうがない。何が足りなかったか反省して進まないと。 他にやることが多くて大変だろうけど、それにしても後半絶対やると言う気迫は感じられなかった。 先のことをよく考えるように。そこで改めてよく考えて計画を練った。続きは98年度浪人記へ。