渓斎英泉(1790〜1848)
今後、有名になることはあっても教科書(または日本美術史)に載ることはないであろう絵師。なぜなら彼の代表作のほとんどが枕絵だから。

本名は池田義信。俗称、善次郎。江戸の星ヶ岡で下級武士の子として生まれ、幼少時に狩野白桂斎から絵を学ぶ。6歳のとき実母を、20歳のとき父と父の後妻を亡くし、腹違いの妹3人をひとりで養うハメになる。一時期、狂言作者の並木五瓶に弟子入りし、千代田才一と名乗るが、途中で挫折。

流浪の身となった後で菊川英山に弟子入りし、英山の父、菊川英二の家に居候する。ということになっているが、英山とは4つしか年が離れていないので、師匠というよりは同じ師に弟子入りする兄弟子という感じであろうかと思われる。

26歳頃から英泉の号を用いて挿絵などを描き始める。始めは英山の影響を受けた華麗な美人画を描いていたが、のちに退廃的で妖艶な美人画を多く手がけるようになる。英泉は役者絵は恥ずべきもの、と考えていたらしく、若い頃を除くとほとんど手がけていない。

風景画としては広重との合作「木曾街道六十九次」のシリーズが有名である。枕絵としての代表作「枕文庫」ではその文章も自ら手がけた。江戸時代の性の医学書といった感じの本で、当時の庶民の医学知識がうかがいしれる作品である。

晩年になると、幕府の取り締まりを恐れたのか、それとも自分の才能に限界を感じたのか、絵の仕事は全て弟子に任せ、自分は「一筆庵可候」の名で文章を手がける戯作者となった。英泉の書いた「无名翁随筆」は俗に「続浮世絵類考」と呼ばれ、現代では貴重な浮世絵資料のひとつとなっている。また、人情本作家の為永春水と仲が良く、彼の代筆者のひとりという説もある。