歌麿といえば美人画、美人画といえば歌麿といったかんじの人。幼名は市太郎。俗称は勇助(又は勇記)。江戸に過去帳が残ってないことから出身地に川越、上方など諸説ある。生年は明治頃の文献により、1753年が定説となっているが、最近発見された資料により、もう4、5歳若いという説もある。
幼少のころ、狩野派の末流の町絵師、鳥山石渓に弟子入りする。22歳の頃から、版本の挿絵を手がける。始めの頃は当たり障りのない絵を描いていたが、寛政年間に入ってからは独自の画風を開拓、一躍人気絵師となる。当時の記録に「ならぶことなし、名人」とあることからもその人気の高さがうかがいしれる。あまりに人気が出たためか、晩年、見せしめのため幕府から手鎖50日の刑に処せられ、2年後に病没する。
当時の絵師達は皆歌麿の影響を受けていたが、当の歌麿はといえば、プライドが高く、真似されるのは嫌だったようで、「人まねきらい、しきうつしなし」(人真似は嫌いで、今まで人の絵を写して描いたことがない)とか、「美人画の実意を書いて 世のこの葉どもに与うることしかり」(木の葉絵師どもに本当の美人画というものを示すべく描いた)などと自分の絵の中に書き込んだりしていた。
弟子がわずかにいるだけで、歌麿の家族についてはわからないことの方が多い。幼くして鳥山石渓の弟子入りしているので、石渓の実子、または養子という説もある。同時代の滝沢馬琴は「歌麿には妻もなく、子もない」と書き残しているが、二代歌麿が歌麿の後妻と結婚していると別の記録にあるので、現在は結婚していたという説が有力。
寛政2(1790)年頃、歌麿に関係ある女性が亡くなっている記録があるので、それが歌麿の妻だと考えられている(母か妹という説もある)。その頃の作品が一時的に少ないことから、その女性の死が歌麿にとってかなりショックだったことがわかる。歌麿は家族にはあまり恵まれていなかったようだ。晩年に手がけた絵に母子を描いたものが多いのはそのせいかもしれない。