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北斎の娘
お栄が河原で写生をしていると男が一人近づいてきた。振り向きこそしなかったが、視野の端で男が絵を覗きこんでいることがわかる。外で絵を描いているとき、後ろから覗きこまれるのはよくあることだ。老若男女を問わず覗き込んでくるが、声をかけてくるのはいつも若い男だった。
「あの…。」
「何だい?」
声をかけられてもお栄は振り向きもしない。
「北斎先生の娘さんですよね。」
「ああ。」
もう娘さんと呼ばれるような年ではないがね、とお栄は思った。
「この前はどうも。」
「……は?」
見知らぬ顔だ。この男は何のことを言っているのだろう。お栄のことを北斎の娘と知っているから、版元連中の使いの者かと思ったが、どうやら違うらしい。
「あの、この前の火事のとき、」
「もしかして、」
そういえば、この前、火事場見物していたときに絵を描いていた奴がいたっけ。善次郎の奴がからかって絵を取り上げたりするもんだから、ついその場で怒って絵を取り返してやったんだっけ。あの画風はたしか…、
「歌川派の、」
「国芳です。覚えててくださったんですね。」
実のところ、お栄は国芳の顔はほとんど覚えていなかった。火事場とはいえ、暗くて人の顔なんぞ覚えられる状況じゃなかった。にも関わらず、絵は覚えていた。
「お栄さんの画号は何と申されるんですか?」
「ずいぶんと俺のことを知っているみたいだね。」
「兄弟子から聞きました。『北斎の娘は嫁にも行かずに絵の手伝いばかりしている。』って。」
国芳は少し得意そうに言った。
「『嫁にも行かず』か。」
お栄は意地悪く、ククっと笑った。国芳は、あ、と小さく言って気まずそうに首の後ろをかいた。
「嫁には行ったよ。でもすぐに追い出された。」
「え?」
「俺ァ、嘘がつけない性分でね。後で親父ドノに言われたのさ。『相手は自分では一流の絵師だと思ってるんだ。ホントのことは言うもんじゃねえ。』ってね。」
お栄はニヤニヤと笑って言ってみせたが、急に寂しそうな悔しそうな顔をしてこう言った。
「でも、あんなのはもうごめんだね。」
あんなの、ではなくても、もう縁談話は持ち上がらないだろうとお栄は思った。それなのに国芳は的の外れたことを言う。
「じゃあ、絵が上手くないとお栄さんとは所帯を持てないんでしょうか。」
「さあ。」
お栄はまたニヤニヤと笑った。
「葛飾北斎、か。」
お栄は急に立ち上がった。
「これが俺の画号みたいなもんさ。親父の代筆しかしたことがないからね。」
「代筆しか…?」
「そう。名なんざねえわ。」
お栄が代筆しか、と簡単に言ってのけるのが国芳には不思議でならなかった。お栄はもう北斎の代筆を任されているのだ。それなのにお栄は自分の画号を持っていないという。
「お栄さんはそれでいいんですか?」
「どうせ名が残るなら、三流絵師のおかみさんより、北斎の娘の方がマシさ。それに、」
お栄は少し上を向いた。
「絵は残るだろ。」
国芳は何だか自分が恥ずかしくなって、お栄から目をそらした。
「見てごらんよ。」
お栄は自分の描いた絵と向こうの景色の同じ場所を交互に指で指し示した。
「あそこに大きな木があるだろう。」
そこには巨大な木が巨大な影を落としていた。
「大きな木のそばに生えた木は、その木の影で生きるしかねえのサ。」
「大きな木が倒れたとき、そばの木は大きくなるんでしょうか。」
「さあね。陽射しが強すぎて枯れるかもしれない。」
お栄は国芳をまっすぐ見た。その目は、あんたはどうなんだい、と言っているようだった。
国芳は考えた。自分にとっての巨木は誰なのだろうか、と。
お栄はいつの間にか筆を矢立てに入れ、帰り支度をしていたが、国芳はそんなことにも気づかずに、土手に立って、お栄の言っていた巨木の方に目を向けていた。
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