少しは“地理っぽい”ページを作ってみようと思って,
私の行動範囲,つまり私にとっての「世界」がどう広がってきたか,
まとめてみました。
ただし,鉄道やバスといった交通機関を使って,
となると範囲が広がりすぎるし,
旅行のように突発的な(1回っきりの)行動も対象になるので
(それはそれで面白いから別にページを作ろうかな),
ここでは主に自転車を使っての「日常的な行動範囲」ということに
しましょう。
本当はこういう話題には地図が不可欠なのですが,
既製の地図を使った場合の著作権の問題,
自分で作成する場合の手間,
掲載する地図ファイルの大きさとダウンロードにかかる時間のロス,
などの問題があるので,今の所は“掲載なし”ということに。
もしお手許にあれば千葉県の習志野市周辺の地図などを
ご覧になってください。
*1964年(満0歳)〜1967年7月(3歳): 千葉県市川市須和田 に居住
生まれたの(1963年12月 7日)は新潟県長岡市。
しばらく 新潟県刈羽郡小国町楢沢にある母の実家にいたはずだが,
もちろん記憶にあるはずがないし,自分では移動できるはずもない。
そこで,記憶があるのはこの市川の家(木賃アパート)から。
といっても,アパートの路地の一番奥にあった井戸のポンプと,
近くの忠霊塔,そしてその隣りの市立二中ぐらい。
(数年前にその辺りへ行ってみた。
問題の井戸があったかどうか忘れてしまったが,
その路地奥がアパートのすぐそばだったことに驚いた。
もっとずっと奥だと思ったのに。
幼い頃の記憶とはそんなものだ。)
1人で遠くまで出歩けるわけがないので,
親に連れられて買い物に行くのに利用した
京成バスの国分角バス停,
まだ待避設備もなく単なる相対式ホームであった
京成電鉄市川真間駅と
その踏み切り脇にあった西武百貨店(後に西友ストアーになった),
なんていう断片的な記憶もあるのだけど。
*1967年7月(3歳)〜1978年12月(中学3年):
千葉県習志野市袖ヶ浦2丁目に居住
たぶん,わたしにとって「故郷」と言えるのはここだろう。
習志野市袖ヶ浦地区は津田沼・鷺沼地区の地先に
造成された埋め立て地で,
2丁目と3丁目が住宅公団の賃貸集合住宅(2丁目7街区だけは分譲),
1丁目と4〜6丁目が一戸建ての宅地分譲地区となっている。
小学校入学(1970年4月)まで:
日常の買い物は3丁目6街区の商業地区
(袖ヶ浦ショッピングセンター)。
だから,このショッピングセンターまでの経路を中心に
2丁目5街区の近隣公園と
5丁目1・2街区の運動公園の間が主な移動範囲。
この経路の中には運動公園南側の鷺沼船溜りと
近隣公園南側の津田沼船溜りの間,
京葉道路南側の海岸沿いの歩道というのもあったが,
1971年に埋め立て工事が始まってこの通路は通れなくなった。
1967年4月に幼稚園に入園。
国鉄津田沼駅南側の市立一中の敷地に隣接してあった
市立幼稚園へはバスで通園
(現在は一中の敷地ともどもサンペデックという
商業施設になっている。そのため幼稚園は閉園,中学校は移転)。
当時の津田沼駅は南口がまだ整備されてなく,
袖ヶ浦団地からのバスは駅まで乗り入れていなかったので,
終点の津田沼駅入口バス停
(南口乗り入れ後,津田沼二丁目と改称)から幼稚園まで,
国鉄官舎の敷地の中を通って歩いていった。
この頃,少しまとまった買い物は津田沼駅北口にあった
サンポー・ショッピングセンターへ行っていた
(私はずいぶん遅くまでデパートだと思っていた。1980年頃に閉店)。
もう少しまとまったものは,船橋駅南口の西武百貨店,
さらに千葉駅前の千葉そごうという順位であった。
もちろん,津田沼駅へはバス,船橋や千葉へは
国鉄総武線か京成電車を利用した。
1970年4月・小学校入学:
小学校があるのは5丁目11街区。
運動公園以東に行くのはこれが初めてであった。
通学路の途中,5丁目7街区にも小さな商店街
(袖ヶ浦ニューショッピングセンター)があるのを「発見」。
この頃,自転車の補助輪がとれ,学区内の一戸建て地区にも友達ができて,
遊びに行くことが増え,行動範囲が飛躍的に拡大した。
京葉道路をくぐって6丁目にも足を踏み入れる。
造成中の幕張地先埋立地(現・美浜区幕張西1・2丁目)にも
入り込んで初めて千葉市へ。
1971年(小学2年):
国道14号線を越えて津田沼・鷺沼地区へ。
反対に近隣公園・ショッピングセンター以西の
1丁目や2丁目6・7街区,3丁目6・7街区
には学区が違ったせいもあってほとんど足を踏み入れたことがなかった。
たぶん,この頃に初めて1丁目へ行ったはずだ。
1丁目と隣りの谷津地区との間にも船溜り(谷津船溜り)
があること,その南東隅の道を進むと京葉道路をくぐって
南側の三角形の空き地(1丁目29街区。現在は建物が建っている)
に行けることを「発見」。
夏,何かの理由で習志野の国立病院から船橋駅までバスに乗り,
その後船橋ヘルスセンター(現・ららぽーと)へ
「ムーミン・ショー」を見に行った。
この時,津田沼駅と船橋市街が道(東金街道・成田街道)で
つながっていることに気づき,自転車で通ってみようと思い立った。
津田沼駅−(成田街道)−船橋市街−(国道14号)−自宅
というルート。
船橋では大神宮下の交差点で曲がったのか,
本町交差点まで行ったのか憶えていない。
銀行の電光時計がずいぶん遅い時刻を指していた記憶があるので
本町交差点だろうか。
初めての「大冒険」であった。
いつ頃自宅に到着したか,遅く帰って親に怒られたか,記憶がない。
1972年(小学3年):
3年生になると,自転車で行動する範囲もだいぶ広がった。
とはいえ,国鉄総武線のラインは1つの限界だったように思う。
西の方では船橋市との境界線が限界か。
反対に東側,千葉市幕張地区では少しずつ足を伸ばして行った。
秋頃だったと思う。
友達の誰かが「幕張に紙芝居屋が来る」という
情報を聞きつけて,「みんなで行こう」ということになった。
7〜8人ほど,京葉道路の幕張インターの脇を通り,
区画整理されたばかりでまだ畑が一面に広がっていた
現在の幕張本郷1・2丁目を横切って,
30〜40分ぐらい歩いて着いたのが子安神社(幕張町1丁目)。
神社の前がちょっとした児童遊園になっていて,
そこに紙芝居屋のおじさんがやって来ていたのであった。
そこでソースせんべいに梅ジャムとみかんジャム
そして水飴に紙芝居という
私たちの世代としてはここらあたりでは珍しい経験をしたのであった。
3年生だった1年間,親の仕事の都合で葛飾区堀切に
仕事場を借り,時々そこに泊まる,という生活をした。
京成・堀切菖蒲園駅から旧堀切橋へ伸びる商店街の中,
元はクリーニング屋だったらしい店舗の1階・土間が仕事場,
そこで靴職人のお爺さんがいつも靴を作っていた。
小さな釘をたくさん口にくわえて金づちで革を打ち付けるのが面白かった。
2階に台所と6畳くらいの部屋があって,そこで寝泊まりしたわけ。
夏休みの終わりごろ妹が大怪我をして入院し,
母親が付き添いで泊まり込んでしまったので,
しばらくの間,毎日電車に乗って堀切まで通った時期もあった。
歩くしかないので遠くへはあまり行くことはできず,
仕事場の前の通りと堀切橋の大通りと綾瀬川とで囲まれた地区を中心に,
たまに堀切小学校の近くのプラモデル屋まで行ったくらい。
ただ,何回か堀切橋を歩いて渡って,
道路下にある足立区側の公園まで行って
東武鉄道の急行電車の聞きなれない警笛をおかしく思ったりもした。
1973年(小学4年):
自転車での遠乗りの範囲は着実に広がる。
西ではいよいよ市境を越えて船橋市南端の公団若松団地まで
(当時はまだ“船橋〜幕張地区”地先[海老川〜花見川間]の埋め立てが
始まったばかりであることに注意しよう)。
この一角には船橋ヘルスセンターと船橋競馬場があり,
若松団地はそのさらに海側にある
(ヘルスセンターは閉園後,1986年に大規模ショッピングセンター
ららぽーととなる。競馬場は現在も健在)。
船橋競馬場と若松団地との間には,あまり交通量の多くないにもかかわらず
やたらと幅の広い道路と,それに平行する空き地とがあった。
まさか,これが貨物線(旅客転用されてJR京葉線)と
湾岸道路のために取ってあったとは思わなかった。
まして,東関道がここを通過するなんて。
当時は無粋な防音壁などもなく,競馬場のまわり,
厩舎との間を馬が行き来しているのを眺めたりもした。
だから,なぜか馬糞のにおいが記憶に残っている。
それはそれ。なぜ若松団地へ行っていたかというと,
この団地の建物のうち,北西側のヘルスセンター・ゴルフ場に
面した1棟だけ6〜7階建てになっていて,
エレベーターがあったからである。
自分の住んでいる袖ヶ浦団地はすべて5階建てで
エレベーターがなかったのでとても珍しく,
つまりは,それに乗りに行っていたのである。
ところでこのゴルフ場,10年ほど前に人工スキー場に
なってしまった。
あまりにも無機的で,“美しい”などというお世辞を思い浮かべることさえ
あり得ない最低の建造物に視界をさえぎられて生活しなければならない
住民に心から同情する。
一方,東側。
こちらは幕張地区で着実に行動範囲をひろげた。
この年の夏,この幕張地区の地先だけ
まだ埋め立てが始まっておらず,まだ汐干狩りが可能だった。
たぶん,これが最後のシーズンである。
実は幕張新都心があるのが,ここなのだ。
そんな海岸を東南に沿って走り,このとき
はじめて花見川を越え,
検見川地区,そして入居が始まったばかりの埋立地
真砂(まさご)地区(この字,
相当あとまで読み方がわからなかった)に足を踏み入れた。
“海老川〜花見川ライン”を越えたのである。
1974年(小学5年):
行動範囲は,習志野市内の藤崎・大久保・屋敷地区で着実に拡大。
でも,西の海老川,東の検見川という限界には大きな変化はなし。
この年の秋から,親に丸め込まれて(まあ,そんなところだ)
日曜テストなるものに通い出した。
会場は主に四谷の上智大学。
親はもちろん“中学受験”を意識して通わせたのだろうが,
本人はそのあたりには全く関心がなかった。
通って見ようと思った理由はただ1つ。
第1回め,はじめて行った上智大学の校舎の窓から見えた不思議な風景。
地下鉄丸の内線が四谷では地上に顔を出し,
中央線を乗り越える。
その後,再び迎賓館の手前で地下にもぐる。
ところが,その入り口からほんの少し目を左に動かすと,
ほとんど同じ高さ(深さ)から見えるのは首都高を走る車ではないか。
さては,トンネルに入ってすぐ,地下鉄と首都高の踏み切りが
あるのではないだろうか。
それを確かめるために,ぜひ丸の内線に乗りたいと思った。
それだけである。
答えはもちろん,踏み切りなどなく,地下鉄がすぐ地下深くもぐって,
首都高の下に入り込んでいただけだ。
そんなわけで,親の期待など全く関係なく,
電車に乗るためだけに毎週日曜テストに通うようになった。
一応,それなりの勉強はしたけれど。
基本的な経路は,津田沼から総武快速,
東京駅で中央快速に乗り換えて四ツ谷へ,というルートであるが,
ときに地下鉄東西線や都営1号線(当時)+京成線,
その他さまざまなルートをためしてみた。
こうして,東京の地下鉄網の基本構造はほぼ理解した。
とはいっても,実際に乗ったのは城東地区の各区間のみなのだが。
1975年(小学6年):
この年,自転車での行動範囲に大きな変化はなし。
めぼしい話題は2つ。
1つめ。
例の日曜テストは,学校の長期休業ごとに合宿を行っていた。
夏の合宿は何と十和田湖。
他のコースがバスでの移動だったのに,
このコースだけは上野駅から盛岡まで
東北線の特急「やまびこ」を利用した。
上越線には何度も乗っているけど,
はじめて乗る東北線にたいへん興奮した。
時刻表の路線図で東北線と仙石線が不思議な絡み方をしている
松島付近,何でそうなっているかも理解できた。
まだ,国土地理院の地形図など知らない時代,“地図で確認する”など考えることができなったのである。
2つめ。
実際は年が明けてからの3学期。
友達にさそわれてはじめて目の前の埋め立て地に足を踏み入れた。
1971年度の着工以来,翌年には“陸地”になっていたのに,
それっきり何も建設されず(石油ショックのせいだろうか),
広大な草原と化していた。
以後,この広さに魅力を感じて,繰り返し埋め立て地を“探検”することになる。
1976〜78年(中学1〜3年):
中学校は電車で千葉市まで通うこととなった。
はじめのうちは京成千葉線でみどり台まで,
途中から国鉄総武線で西千葉まで
(これでは学校名を明かしているようなものである)。
当時,京成線では旧型の青電がまだ健在だった。
特に千葉線は支線扱いだったので(県都へ行くのに!),
青電の充当も多かったようである。
津田沼・幕張間の国鉄との並走区間,
ノッチ最大限の釣りかけモーターの唸りは胸踊るものがあった。
時に,さらに釣りかけの音を求めて新京成に遠征したことも。
もっとも遠くは高根公団まで。
新京成さん,ごめんなさい。キセルでした。
学校の所在地の関係で,行動範囲は大きく千葉へシフトした。
“ちょっと大きめの本屋”,“ちょっと大きな図書館”,
津田沼にはないものを求めて千葉へ通うようになる。
基本的にはもちろん電車を利用した。
当時の総武線の津田沼以東はまだ複線。
稲毛駅には,アルコール工場や専売公社の
たばこ倉庫があって,津田沼ではとっくになくなってしまった
貨物扱いがここではまだ行われていた。
時たまそれに出会うとずっとながめていたものである。
このころ,成田闘争の真っ最中。
そのせいか,総武線はしょっちゅう「爆弾」で立ち往生した。
自転車での行動範囲も拡大した。
1年秋の千葉大の大学祭をはじめとして,
いよいよ千葉市の都心へも進出。
前線は,京成千葉駅(現・千葉中央駅)となる
(そして,これが千葉時代の自転車で行った最南端となった)。
学校の性格上,友達の家も分散していたので,それも自転車での行動範囲拡大に貢献した。
西の端は市川市八幡,北の端は八千代市八千代台
および千葉市花見川団地,東の端は印旛郡四街道町(当時)栗山。
こんな感じである。
2年の秋,鉄道模型をはじめた。
電気関係の部品を仕入れるために,秋葉原へ通うようになった。
また,メーカーのショールームが高田馬場にあったので,
ここへも行くようになる。
こうして,徐々に一人で東京へ買い物に行き始めるようになった。
3年の冬,同じ習志野市の谷津7丁目へ転居。
地理のページへ戻る