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*1978年12月(中学3年)〜1981年3月(高校2年): 千葉県習志野市谷津7丁目 に居住
中学3年の12月に10年ほど住んだ袖ヶ浦団地から,
同じ市内の谷津7丁目に転居した。
国鉄津田沼駅南口から徒歩5分
(ちなみに津田沼駅の北口側は,船橋市である),
北側にあった自分の部屋の窓からは総武線が見え,
また津田沼電車区への引込み線が正面に見えるという
鉄道少年には格好のロケーションであった。
さて,同じ市内ということもあって(習志野市は狭いのだ),
自転車での行動範囲は特に千葉市方面に関してはあまり大きな変化は
なかった。が...
1979年4月,市川市内の高校(最寄駅は国鉄本八幡および
京成八幡,いや鬼越の方が近いのかな)に入学した。
これを機会に,それまでの千葉シフトから,東京へ大きく行動範囲を
変える(実際,高校へ入学してから千葉へ向かうことが激減した)。
千葉へ行かなくなった理由が,もう1つある。
1978年の夏,船橋駅北口に東武百貨店が開店した。
そしてそれに対抗するように,南口の西武百貨店も大改装を行った。
その結果,東武には旭屋書店,
西武にはブックセンターという大規模書店が開店した。
すでに津田沼でも北口に出店した
パルコに大きな本屋が入っていた
(南口にできたサンペデックの本屋はショボかったが)ので,
わざわざ千葉の多田屋まで行く必要がなくなったからである。
鉄道模型も,パルコと東武でとりあえず間に合ったし,
そうでなければ東京まで買出しに出かけた。
高校では(あまりにもわかりやすい展開で)鉄道研究会に入った。
で,電気関係に関心の強い友達と仲良くなり
(自分には電気は結局わからなかったが),
秋葉原へ買出しに行くことも増えた。
そんなわけで,東京への関心が強まり,自転車で行ってみよう という気になったのである。 船橋から湾岸道路の一般国道(国道357号線)を ひたすら西へ向かい,浦安(までしか開通していなかった)から 今井橋,小松川橋を経て京葉道路 (江戸川以西は一般道である)で両国橋を渡り秋葉原へ。 これが千葉時代に自転車で行った最西端である。 当時はマイコンが一気にメジャーになった時期である。 ラジオ会館のマイコンショップをよくのぞいたものだ。 もっとも,マイコンを買うお金などなかったし,買うつもりもなかったが。 (ちなみに,当時はやったおたく系のものには一通り ニアミスをしている。 我が家にはなぜか,(今は老舗の)アニメ雑誌の創刊号があったりするのだ)。 さて,この浦安−秋葉原ラインを軸に,主に江戸川区南部と 江東区内に自転車での行動範囲を広げた。
内陸方面で新たに自転車での行動圏に入ったのは
船橋市北東部と八千代市である。
かねてから気になっていたのが,津田沼駅北口から出ている
新京成バスの古和釜十字路(船橋市)という終点であった。
どんなところなのか...。
高校1年の冬,思い立って自転車で行ってみた。
まず習志野(習志野市ではなく船橋市)の自衛隊へ出て,
そこからバスの経路に沿って古和釜(こわがま)へ,
そしてそのままの勢いで千葉ニュータウン内に開通した
北総開発鉄道の小室駅まで行ってしまった。
以後,このラインの東側を埋める形で,東洋バスの営業エリア
(八千代市と,合併以前の旧・千葉郡幕張町[現・千葉市花見川区西部および習志野市東部]をエリアとする中小バス会社)にほぼ等しい範囲を
走り回った。てなわけで,千葉時代に自転車で行った北東端は
八千代市東部(新川[千葉市内では花見川である]以東)の
国道16号ラインとなる。
*1981年3月(高校2年)〜1983年3月(大学入学直前):
千葉県市川市市川1丁目に居住
高校2年の3学期末に修学旅行で長崎・熊本方面へ
向かった。このときはじめて京都以西の新幹線(京都までは
中学校の修学旅行で乗車済み)に乗車し,
九州に足を踏み入れた。
実はこの間に我が家はまたもや転居した。
つまり,修学旅行の出発時と帰宅時では帰る家が違っていたのである。
新しい家は,国鉄市川駅北口から徒歩10分弱。
あたりでは有名な真間山弘法寺参道の商店街から路地を少し入った
一戸建ての借家。
実は私が一戸建てに住んだのはこれまででこの2年間だけである。
家がより東京に近くなったこともあって,千葉はおろか,
船橋へ行くことさえほとんどなくなった
(もっとも,船橋ヘルスセンター跡地にららぽーとが
開店したときには,すぐに自転車で行ったが)。
自転車での行動圏もそれまでよりずっと北にシフトする。
つまり,千葉県側では松戸市南部,鎌ヶ谷市あたりが行動圏に入り,
新京成・常盤平駅と北総開発鉄道・白井駅が限界となった。
市内・北国分(きたこくぶん)の有名作家・井上氏のお宅のあたりまでは
歩いて行ったりもした。
もちろん市川市は,となりの浦安市(このころ市になった)
も含めてほぼ全域が行動圏に入っていた。
ちなみに,高校3年の1年間のみ自転車通学をした。
東京都側では,葛飾区・墨田区・台東区といったあたりが行動圏入りした。
葛飾区では水元公園が限界。
ここから川を渡って,埼玉県にもほんの少し足を踏み入れた。
1回目の大学入試は残念ながら失敗した。
そんなわけで1年間,水道橋にある某老舗予備校に通うことになる。
毎日東京へ行くわけだから,放課後まっすぐに家へ帰ってくるはずがない。
まずは千代田区内を歩き回った。
また,それまで1度も乗ったことのなかった東急線の多摩川以北
(つまり都内)をはじめ,23区内の鉄道線は次々と乗ってみた。
東京の地下鉄に完乗したのもこの頃である。
なんだかその気になれないときには,水道橋で降りずに予備校をサボり,
中央線を八王子まで行って,
橋本から相模線に乗ってみたりもした。
当時の相模線はもちろん非電化,タブレット閉塞で,
両端の橋本と茅ヶ崎以外は全交換駅の信号が腕木式であった。
東京のすぐ近くにこんな路線があるとは,感激ものであった
(まさか今,その橋本に毎日通勤することになるとは夢想だにしなかった)。
もう1つ。当時,常磐線の上野口にはまだ何往復かの客車列車が
乗り入れていた。もちろん,旧型客車である。
中でも昼過ぎに上野を発車する仙台行は,
予備校が終わってから乗車するのにまたとない好都合な列車であった。
しかも土浦で降りると,ちょうどすれ違いでやってくる
上野行上り客車列車に乗車できる。
上下の客車列車のデッキに扉を開けて立ち(本当は危険だからやめた方がよい)
客車列車を堪能した上,土浦では関鉄・筑波線のディーゼルカーを
眺めるなどというオタッキーな半日を過ごすこともしばしばあった。
ちなみにお昼は上野駅のチキン弁当である。
2回目の受験は無事成功。 この2次試験のとき,長野へ行くのではじめて信越線に乗り (もっとも,直江津以北には乗ったことがあるのだ), 碓氷越えを経験した。 このときだったか,あるいは合格後の入学手続きで松本へ行ったついでだったか, 直前に古本屋でゲットした鉄道ピクトリアルのバックナンバーに出ていた 善光寺白馬電鉄の廃線跡を探しに行ったりもした。 もっとも,このときにはどれが廃線跡だかよくわからず, 詳しい探索は長野に居住してからのことになるのであるが。 ま,このころからすでに廃線趣味があった,ってことである (実はそれ以前,小学校の頃にすでに津田沼の鉄道連隊演習線の 跡を探していたりする)。
そんなわけで,4月からは長野県に住むこととなり, その間に家族は東京都へ越してしまった。 こうして,私の千葉時代は終わりを告げるのである。
*まとめ:千葉時代の自転車での行動範囲
そこで,私が千葉に住んだ19年間に
自転車で足跡をしるした(…? 何か変!)範囲をまとめると,
次の地点を結ぶ範囲になる。
*大学入学後
さて,この以降は簡単に。
…とまぁ,こんなところで。就職後は,あまり面白くないので省略して,
このお話はここまで。
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