★智恵子抄

 村光太郎の詩集「智恵子抄」の中に収録された「樹下の二人」。「あれが安達太良山…」の出だしで有名なこの詩をワタクシは大人になるまで全く存じませんでした。が、今ではワタクシはこの詩を部分的に暗唱できるくらい覚えております。なぜかと申しますと、それはある日この美しい詩の存在を教えられ、同時に詩という文学形態の本質をも一瞬のうちにサトってしまうような衝撃的な事件があったからでございまして、以下にその衝撃的事件のテンマツを書き記したいと存じます。

対談場所:福島県を走る観光バスの中

バスガイド「え、もうしばらく致しますと皆様の左側に猪苗代湖が見えて参ります。この猪苗代湖は、東北地方最大の湖として知られ、水深は…(以下、車窓風景の説明続く)」

いわんや「……(つまんねぇバスガイドだなぁと思いながらボーッと外を眺めている)」

バスガイド「え、このあたり、秋になりますとそれは見事な一面の紅葉となりまして、多くの観光客が…(以下、車窓風景の説明続く)」

いわんや「……(ボーッ)…」

バスガイド「え、もうしばらく致しますと、皆様の右手に…」

いわんや「……(ボーッ)…」

バスガイド「…あれが安達太良山…あの光るのが阿武隈川…」

いわんや「…?!(バスガイドの口調が突然美しく、格調高くなったので衝撃をうける)」

バスガイド「ここはあなたの生まれたふるさと…あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵…」

いわんや「…!!…(あまりに美しい日本語に激しく感動し、バスカイドを尊敬し始める)…」

バスガイド「…それでは足をのびのびと投げだして、このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた空気を吸おう…」

いわんや「…!!!!!…(感動の絶頂。このバスカイドは天才即興詩人だと思い始める)…」

バスガイド「え、『智恵子抄』で有名な高村智恵子の生家は、ここ、福島県二本松市の…」

いわんや「(バスガイドの口調が突然また元に戻ったので混乱しながら)…なぁ、今バスガイドがしゃべったのって、あれ、すでにある詩か何かの一部だったの?」

トホ妻 「さっきの?アレは『智恵子抄』ン中に入ってる有名な詩でしょ」

いわんや「…そっ…そうだったのか…(失望を隠せず)…いや、オレ、あのバスガイドが車窓風景を即興詩か何かにして喋ってるんだと思っちまったよ」

トホ妻 「ぷははは…!そんなワケないじゃない!」

いわんや「だってさ、それまでず〜っと“あちらに猪苗代湖が見えます”とかなんとか言っててだよ?突然“あれが安達太良山…”って言われれば誰だってガイドの続きだと思うだろうがよ」

トホ妻 「ひゃははは…!なるほどね。しかし思わんよ、普通は…」

いわんや「そもそも『智恵子抄』読んでねぇしなぁ…いやぁ〜実はオレ、何て美しい日本語を喋るバスガイドだろうと思ってさぁ…感動しちまったぜ…あのバスガイドは天才かと思ったよ…」

トホ妻 「ひょほほほ…!高村光太郎の有名な詩を即興で喋ったと思ってもらえりゃ、そらぁ、ガイドさんも身に余る光栄だよね(笑)」

いわんや「(まだ感動が醒めない)そうか…『智恵子抄』だったのか…でもオレはサトった。あのバスガイドのおかげで詩とは何なのかという本質をオレは今悟ったぞ!」

トホ妻 「何なのよ?詩の本質って…」

いわんや「…それはだねキミ、“音読した時にその国の言葉で美しく響く”ってことだ」

トホ妻 「…ほほう〜…」

いわんや「そう思わないか?『あれが・あだたらやま・あのひかるのが・あぶくまがわ』…って『あ』の音で始まる言葉が繰り返されることによって生まれるこの美しい日本語のリズム…おおッ!…詩の本質をオレは一瞬のうちに悟った!すごい!」

トホ妻 「うー…まぁ確かにその考え方もアナガチ間違いではないと思うよ。思うけどさ、詩の本質を悟ったキッカケが高村光太郎の詩をバスガイドのしゃべくりだと勘違いしたっつーのもねぇ…」

いわんや「…キッカケはどうだっていい。問題は悟りの内容だ!」

トホ妻 「じゃ、東京帰ったらさっそく『智恵子抄』買ってどんどん悟りまくるんだね」

いわんや「いや、文学的衝動に目覚めた今となっては、もはや東京に帰るまで我慢できん。福島駅の本屋で『智恵子抄』買って、帰りの新幹線ン中で美しい日本語に浸るぞ」

トホ妻 「…(タメ息)…どうせ新幹線ン中じゃグウグウ寝るくせに…」

 7〜8年前にトホ妻と福島県の温泉に行った時の話でございます。ワタクシこの時、バスガイドさんがアドリブの即興詩で車窓風景を語り始めたとマジで思い込んだのでございまして、全くお恥ずかしい話でございます。しかし、詩の本質とは「声に出して読んだ時、美しく聞こえることにある」というこの時サトッたサトリは、その後もワタクシの中では揺るぎないものになっておりまして、いわんやの文学観にも少なからぬ影響を与えた高村光太郎とあの時のバスガイドさんには感謝しなければなりますまい。

注)安達太良山は原文では「安多多羅山-あたたらやま-」と表記されておりますです、はい。

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