絵画資料室

伊能測量隊の測量風景

「地方測量之図」 葛飾北斎画


葛飾北斎(1760〜1849)が嘉永元年(1848) 和算家である盛岡藩士・梅村重得の依頼により描いた測量風景の図である。北斎89歳、最後の版画作品と言われている。 この図は検地のための測量風景を描いたものであるが、梵天や間棹、小方儀などを使って作業をしている光景は当時の測量の実態を伝えるものであり、伊能隊の測量の様子もこれに近かったと考えられる。 千葉県山武郡九十九里町小関の伊能忠敬記念公園内にある 伊能忠敬生誕地記念碑にはタイル絵でこの「地方測量之図」が掲げられている。


【明治大学刑事博物館蔵】38×53cm



「浦島測量之図」(部分)その一

第五次測量の文化3年(1806)3月から4月にかけて伊能隊は広島藩の支援をうけて瀬戸内海の測量を行った。この図は尾道から岩国境までの測量支援のため、広島藩が繰り出した大規模な船団と測量応援の人足たちの模様を描いたものである。所蔵者の宮尾幾夫氏の先祖、加茂郡阿賀村(現在の呉市)の庄屋であった宮尾三兵衛とその子・彦五郎の父子は、この測量の手伝いをしており、地元の絵師にこの図を描かせたといわれている。 船に掲げられているのは「白地に三つ引き」の広島藩旗。伊能隊はすでに上陸しており、それに伴って人足がさまざまな荷物を運んでいることがわかる。 この絵図は長さ455cmの絵巻物であり、「二十八宿去北極度」「浦島測量之図」「夜中測量之図」「測量器具類之図」からなっている。

【広島県広島市・宮尾氏蔵、広島県呉市入船山記念館保管】



「浦島測量之図」(部分)その二

中央の岩の上では二人が彎か羅針を覗き、一人が記録している。梵天をたてた傍らで部下に何やら指示している人物、ひざまずいてその指示を仰ぐ人物、後方では今まさに磯から岩の上によじのぼろうとしている人物もいる。この絵図には100人以上の人が書き込まれており、人々が役割分担して測量する様子や、象限儀や子午儀といった測量機器が細かに描きこまれていて興味深い。彎か羅針は「見盤」とも呼ばれ、方位をはかるものであるが、伊能隊では磁石がくるわないように大刀は身に付けず、竹光の小刀だけを帯びた。このため測量には刀持ちの役も必要だった。




【広島県広島市・宮尾氏蔵、広島県呉市入船山記念館保管】




「浦島測量之図」(部分)その三


岬の先には、測量本隊の到着を待っているのか梵天を立てて座っている人々がいる。梵天がずいぶん高いものであったことがわかる。この瀬戸内海の測量は島々や岬が多く、測量は大変だった。 伊能測量隊による測量風景を描いた絵画は、広島県呉市の宮尾家に伝えられたこの「浦島測量之図」と、同じく広島県豊田郡豊町の北川家に伝えられた「御手洗測量図」しか判明しておらず、貴重な存在である。いずれも文化2年(1805)から文化3年(1806)にかけて実施された中国測量に際して、描かれたものである。




【広島県広島市・宮尾氏蔵、広島県呉市入船山記念館保管】



「御手洗測量之図」(左半部分)

第五次測量の途上、文化3年(1806)2月晦日〜3月2日、芸州領の大崎下島(現:豊町) の御手洗付近を測量したときの風景を描いたものである。伊能忠敬の内弟子の平山郡蔵から本陣亭主に依頼があって、竹原に来ていた絵師に描かせたものという。この絵図は右半部に本陣宿舎、左半部に測量風景を描く。親船一艘が岸に近づき、忠敬らが陸地から杖先方位盤を覗いている。神社周辺の岩場には作業船が集まり梵天を立て、縄を引いている。船団は広島藩が提供したもので、一手当り親船1艘に作業船30艘ほどで、3船団で編成されていた。この絵画はそのうちの一手分を描いたものと思われる。下部の付箋によって左隅の黒の陣笠の人物が伊能忠敬であることがわかる。原図は伊能隊に提出し、旧蔵者北川家に伝えられていたのは控図である。伊能隊への提出図は現存していない。




【広島県豊田郡豊町教育委員会蔵】



参考図書:『伊能忠敬測量隊』渡辺一郎 小学館/『歴史の舞台を旅する 伊能忠敬』渡辺一郎他 近畿日本ツーリスト
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