Weekend Thoughts

第5回

密教

超能力の秘密

--- 社会変革と超能力と密教 ---


この本について

書名
密教
超能力の秘密
初版発行
1972年7月5日
著者
桐山靖雄
発行者
提たち
発行所
株式会社平河出版社
ISBN
4-98203-010-4

今回取り上げるのは 阿含宗 の桐山管長の1972年の著書である。 阿含宗といえば、「星まつり」だとか、 霊障だとか、先祖供養等で有名であり (というか星まつりなど広告代理店を使って大々的にPRしているらしい)、 また、なんと言ってもあの麻原彰晃が以前入信していたことで話題になった。 そんなわけで、特に新宗教に興味がない人でも けっこう知ってるという人もいるだろう。 私も以前より阿含宗の名や、星まつり、そ して霊障を解くとか言っている密教系の新新宗教であることぐらいは知ってい た。新聞の折り込みかなにかの教団のチラシを見たこともある。 そんな PR が得意なところも含めて新新宗教ブー ム(幸福の科学やオウムが出てくる前の)では 中心的教団だったそうだ。 で本書のテーマでもある超能力指向なんていうのも、その新新宗教ブームを担っ た団体に特徴的に見られるものだそうだ。今や超能力的なものを謳うのは、オ ウムに限らず結構あるような気もするが、当時としてはまぁ先駆的だったのだ ろう。

まぁ、本書を読む前には、そんな知識、特に霊障だとか 先祖供養の総本山 なんて言葉が頭にあったので、 阿含宗は、日本の伝統的霊魂観と密教をミックスした、おどろおどろしい新新 宗教だろうと思っていた。しかし、阿含宗宗立前に書かれた本書には、そんな おどろおどろしい雰囲気はない。 筆者桐山氏の個性でもあるのだろうが、非常に明快で力強い。 むしろ理論的科学的に超能力というものを捉えていこうとする姿勢 (だけなんだけど)が感じられる。

さて本書の内容を簡単に紹介しよう。 本書は超能力を持つ人、氏の言うところの超ヒト となるための理論及び実践方法を紹介した本である。 優に500ページは越えるという大作である。 基本的には、桐山氏が考案したという、真言密教とヨーガを組み合わせた超能 力を得るための修行法を紹介するという内容だ。 本書では、まず、その「超能力」を身に付ける ことの必要性から説き出している。そしてそれを当時の社会状況(環境問題や 国際紛争など)に関する危機意識を掘りおこす形で論証しようとしている。 (しかし、これらの問題は多少質的変化はあるものの、基本的に現在もそれほ ど状況が変ってるわけじゃない。でも、ここで展開されている論理が現代にそ のまま適用できるかというと、そうでもないのが面白い。)

科学と技術はヒトの力を無限に拡大したが、同時に、ヒトの殺戮と 搾取と憎悪と闘争をも無限に増大させた。このままでは、間もなく、ホモ・サ ピエンスは絶滅する。
と桐山氏は言う。そしてそれを回避するために人類は 「高度の知能」すなわち「超能力」を手に入れる必要があるとしている。 つまり、このまま漸進的にやっていても、らちがあかない。ドラスティックな 変革が必要で、それには、人間そのものが変らなきゃというわけだ。 そして、その「超能力」を得る手法が、すなわち氏が古代ヨーガと真言密教を ベースに開発した「求聞持聡明法」である、としている。

では、本書の残りの部分、密教(ヨーガ)に関する部分はどうであろうか。 そこでは桐山氏の密教を科学と結び付け紹介し、その上で修行の概要と得られ る効果が述べられている。 特に氏の密教の原理を脳科学や生理学的な知見から 裏付けていこうという点に力が置かれている。 なんでも氏によるとヨーガで言うチャクラの位置と各種分泌腺の位置が対応し ており、チャクラの開発が進むにつれ分泌腺の制御が可能となり、ホルモンひ いては酵素の力により「化学反応による人体組織の一大変革」がおこり「超人」 となれるのだそうだ。

以上が本書の大雑把な内容である。本書は500ページ以上の大作で あるが、文体も軽く、内容的には、同じことの繰り返し、言い換えが多く、そ れほど多くの内容を含むものではない。 事実、本書は本編に至る 前に20余ページほとのプロローグがあるのだが、本書の内容の多くは、ここで 既に言い尽くされている。 そして、宗教色が薄く、頭をかかえてしまうような荒唐無稽な内容も少ないの で、以外にさらりと読める。

さて、感想である。 本書の前半部分は上に述べたような「超能力」を獲得することの必要性を、 その当時の世界各地の識者の意見 を多数引用し、論証(しようと)している。 とはいえ、これだけ引用が多いと私などはかえって混乱してしまう。 だいたい引用元やその著者で、私が知っているものは殆どなかった。 これでは、その多数の引用が本当に信頼に足るものかわからなくなってしまう。 ちゃんとした事実が書かれているのかもしれないけれど、逆に眉に唾して読ま なくては、と思わせてしまう。私はそんなに疑り深いほうではないけど、これ では、本当に信じやすい人しか信じないんじゃないかな?という気がする。 もっとも本書が書かれた時代と今では、けっこう隔たりがあるので、当時はこ のような体裁のほうが有効だったのかもしれない。それに宗教は信心深い人を 対象にしてるんで、 これはこれで充分なのかもしれないけれど。

それから、引用が多いこととも関係するのだけれど、 とにかく氏の博識ぶりは驚くべきで、本当に多くの分野、社会、科学、教育、 そして宗教の知識を駆使し、まとめている。 この本を本当に氏が一人で書いたとしたら、氏の言う「求聞持聡明法」はそれ なりに効果があるんだなぁとは思う。 ただ、それは「知識」の向上であって、彼の言う「高度の知能」には至ってい ないような気がする。一例を挙げよう。彼が「現代創造理論の世界的権威とさ れる市川亀久弥教授」の「等価変換展開理論」という理論と自らの密教(「ヨー ガ」と氏はルビを振っている)を結び付け説明している (そもそもこの理論自体がアヤシいのだが。私が 無知なだけかもしれないけれど、だいたい市川氏って誰?創造理論って何? 国際創造学とは関係ないよね:-) しかしこの部分、正直何が言いたいのか良く判らない。 市川氏の理論の昆虫の変態ホルモンに関する部分と、一つの結論である「<超 人類史的段階>への移行」というのが桐山氏の超能力の理論と似ている点は判 るのだが、論理展開が表面上の類似点を嘗めるだけで、本質的な部分の類似性 を指摘するに至っていない。そして、アナロジーの用い方に誤りがある。 結局、その論理展開は「高度の知能」が持つ人間のそれじゃないような気がす る。これでは、氏の言う「極度に発達した知能」にはほど遠い。

それからもう一点。 仮に、ヨーガによって脳が活性化したり、体質やらが変わるとしても、そ れによって、超能力や霊能力が得られることについては、私が納得できるよう な、明確なリクツはなにもない。 そして前半でさんざん危機感をあおった、現実の危機を その得た超能力で、どうのように回避するか...具体例は無理でも、その手が かりさえ触れられていない。

仮説を提示すること自体は構わないのだが、せめ て傍証となるような仮説から導くことのできる事実を提示してもらいたい。 阿含宗にはその科学的姿勢に引かれて入信した人も多いらしいけど、 これでは科学的議論もできない。 たぶん正しいであろう(私は、生理学などまったく知 らないもので良くわからないのだが)科学的事実と共に書かれている だけに、たちが悪いよなぁと思う。 まぁ、もっとも、そういう論理の飛躍はちゃんと読めばすぐ判る程度なので、 信じる信じないはその人しだい、問題ないとも言える...。 ただ、氏の他の本をちゃんと読んでいないので、あまりはっきりしたことは言 えないけれども、
最高度に進化発達した知能を持つ未来社会に、宗教という特別の分野はなく なるだろう。高度の知能は高度に発達した倫理感、道徳意識をともなうから、 現在の宗教や、宗教家あたりが説いている「教え」など、まったく低俗な、次 元の低い幼稚なものとしてかえりみられず、宗教意識はごくあたりまえの常識 になってしまって、ことさらにカミやホトケを念ずることなどなくなるだろう。
とまで、この本では言いきっている。が、 私が伝え聞く限りでは、氏のその 後の教えが上の発言に十分答えているような気はあまりしない。 氏の他の著書を手に取る機会があったら、もう少しこの点について確かめてみ たいと思う。

オウム本を振り返って

さて、そもそも本書を読んでみようと思ったきっかけの一つに、先に述べた、 オウムとの関連がある。 数多くの阿含宗関連の書籍の中で、特に本書を選んだのも、これが、 超能力、密教(ヨーガ)をテーマとするものだったからだ。 麻原の教義の源流が知りたかったということだ。 では、その観点から本書を眺めてみるとどうだろう。

密教/ヨーガによる超能力開発技法の紹介という点では本書と初期オウムの超 能力関係の本と、それほど大きく異なるものではない。 というか、明らかに麻原彰晃はこの手法をパクっている。 とはいえ、話の筋立ては大きくことなっている。 例えば

  1. 本書が超能力を得る必要性を説くのに多くのページを費やしている のに対し、オウムの本では、最初から超能力を得たいと思っている人向けに書 かれている。
  2. 本書は、ヨーガの理論を科学的に説明しようとしているのに対して、オウムの 本では、そのような傾向はまったくないわけではないにしろ、あまりない。
  3. 本書では、修行の概要については述べているものの、その詳細については、そ れほど詳しく記載されているわけではないのに対し、オウムの本は実践的であ り、かつ体験談を載せるなど、ノウハウ本の色彩が強い。
なんていう点が指摘できる。

1.に関しては、時代背景も大きいものの、その社会に対する意識の大きな違い が見て取れる。本書の発行された時代は、フラワームーブメントの挫折はあっ たものの、まだ社会変革というものに、まだ期待があった時代だろう。そして、 超能力というもの自体がそれほどポピュラーなものでもなかった故、危機的な 社会状態を打破するために超能力が必要であるという理屈 が必要だあったということはあるだろう。ストレートに超能力願望を打ち出す わけにもいかなければ、そのようなストレートな表現をとっても付いてこない と、少なくとも桐山氏は判断したのだろう。 とはいえ、社会的視点を多少なりと も持ち合わせている点は、ひたすら個人の解脱や超能力の獲得を目指すオウム よりは評価できるだろう(たんなる言い訳という言いかたもできるが:-p)。 それぞれの本の読者と想定している、70年代の迷える若者と80年代のオタク的 オウム信者予備軍とでは、気概が違うということだろうか。

こうしてみると、80年代は個人の欲望をストレートに表現することや、その欲 望の受け皿もよりストレートな形で存在することが許されだした時代なのかなぁ と思いかえしてみたりもする。バブルも追い風となったし、オタクにとっては、 住みやすい環境がととのいだしたのかなぁという気がする。 一方では、もともとオタク的で社会性がない連中が、途中で間違って大乗だと か、政治だとか言いはじめた所に一連のオウムの事件の根っこがあるというこ とも、この点から言えるだろう。

2.と3.に関しては、オウムの実践的というのは、桐山氏の手法を計算した上でのこ とだったんだろうなあという感想を抱いた。オウムの本はとにかく判りやすく、 受けを狙った感が強い。いたずらに話を難解にしたり、矛盾点を 持ち込むことなく説得力を持つためには、へたに科学を持ち出し説明するより、 体験談を載せるほうが、はるかに安全かつ効率的であろう。 理科系の人にウケるためには、表面的に科学的であるより、矛盾がなく、実 証的であるほうがいいだろう。あのプラズマ大槻教授がタカツカヒカルのこと は信じているようだけど、けっこう理系の人は目の前に現実を突きつけられる と弱いものだ(^^;)。たとえ背後になにがあろうと、その人の科学的知識と想 像力の枠の中で説明がつかなければだ。

もっとも、その後オウムもヘンな科学指向になってしまうが。ただ、麻原の 教えを裏付けするために科学を(個人的には技術 をだと思うが)利用するという手法は、桐山氏のやりかたとは逆ではある。 そしてそれは、宗教心の篤い科学者が、科学的発見、法則に神を見、喜びを 見いだすのと構造的に似ている。それだけに、オウム理系幹部にとっては楽 しかっただろうし、そういう環境が、オウムのヘンな科学指向へとつながっ ていったんだろうなと思う。

しかし全体的には、本書を読んでしまった後でオウムの本を振り返ってみると、 やはりオウム本はかなりなさけない。 内容的にはオウムのほうがかなり実践的ではあるものの、 思想的には、その深みの違いは明らかだし、なにより言葉の重さや迫力が違う。 もちろん、先に述べたように時代的社会的背景の違いは大きい。 とはいえ、オウムの ひたすら個に向かい、その向こうに仮想現実的な社会変革が見えてくる というその教えの現実認識の浮遊感と、その仮想的現実認識を基に行動を起し てしまうあたりには、怒りを通り越えて目眩すら感じてしまう。 本書のストーリーとある意味似ているだけに、余計に...。 前回も少々触れた それでも心を癒したい人のための精神世界ブックガイド でもいとうせいこうが「結局、60年代を経たものにしか骨がなかった」 といっているが、ここにもニューエージ/精神世界ものの思想的退行が認めら れはする。

オウムが出て来た時代は、軽薄短小が言われていた時代、冷戦構造がまだ残っ ていた時代でもあった。そんな精神的には閉塞感が漂う時代に、霊的ファンタ ジー(なんじゃそりゃ:-p) と個的体験としてのリアルな修行システム を持つオウムが、既に既成宗教っぽくなっていた阿含宗より 一部の超能力/宗教好き人間には受けたんだろうなぁという気がする。 逆に桐山氏の教えは70年代前半に持っていた変身という変革へのパワーを、ニュー エイジの衰えと共に失い、逆に氏の現実感覚とあいまって、 阿含宗となり霊障などというものを取り入れる ことにより、より日本の社会の現実に沿う形で新たな発展を遂げることとなっ たのかなぁと今のところ思っている。もう少し阿含宗の他の本とか見てみない と、はっきりしたことは言えないけど。
とはいえ、オウムも後には、カルマ(業)というものをおどろおどろしいものに 向けていく。ある程度結局似たような方向へ向っている。それ故、オウム 信者が阿含宗ではなくオウムを選んでしまったことが悲しい。そして 実践的な宗教体験の持つ人に与える影響力の大きさを改めて考え させられてはしまった。

イマーゴじゃないけど、極論すると、教義なんてどうでもいいのかなぁ、 重要なのはシステムと人的な部分なんだろうなぁ。


岩間の好み度(5段階):☆☆
コメント:とにかくパワフル。この連載で取り合げた本の中では一番骨がある。 麻原彰晃に現代社会から失われた父性を見出す うんぬんという意見がけっこうあったけど、それに倣うなら、桐山氏は星一徹、 ガンコ親父だ。科学的か?という点では、まぁ多少(擬似?)科学的だけど、 まっとうな理系ニーチャン、ネーチャンにアピールするような感じではないね。 むしろ科学コンプレックスを持っている人に受けそう。理系な人に受けるには、 へたな説明しないで神秘主義で押し通したほうがいいかも?

付記

Nifty FSHISO 14番会議室で'96年9月ごろから、阿含宗と幸福の科学に関する 議論が行われているようだ。ざっと見たかぎりでは、個人的にはそれほど興味 深い議論がされているとも思わないが、興味がある方はどうぞ。
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