2002年度入学式式辞

 新入生の皆さん、入学おめでとう。長年努力を積み重ね、様々な困難を克服して入学した皆さんは勿論、皆さんを支え見守ってきた御家族のお喜びはいかばかりかと思い、先ず心よりお祝い申し上げます。本日ここに集まった1122名の若さと希望に溢れた新入生の皆さんは明日の世界を担う希望の星であります。東京都立大学は皆さんを心から歓迎するとともに、皆さんのこの大学における学生生活が有意義であることを願って已みません。今日からこの大学の一員になった皆さんに、本学で学ぶに当たっての基本的な心構えについてお話しするとともに、私が皆さんに何を期待しているかについて述べてみたいと思います。
 先ず初めに本学の歴史と現状について簡単にお話します。東京都立大学は今から53年前、即ち終戦から4年後のいまだ戦争の爪痕の残る1949年に開学し、長い間目黒区八雲と世田谷区深沢のキャンパスで「昼夜開講制の勤労者に開かれた大学」として研究と教育に勤しんで来ました。11年前にここ八王子市南大沢のキャンパスに移転して、名実ともに我が国有数の大学としての内容を備え、今日に至っています。3年前に開学50周年を迎えたばかりの、若さと活気に満ちた、小規模ながら5つの学部を持つ総合大学です。開学以来50年余り、きめ細かい少人数教育を特色にしながら、国際的に高く評価される研究成果を積み重ね、幾多の優秀な人材を輩出してきました。一方、東京都が昨年11月に策定した「東京都大学改革大綱」によれば、都立大学は3年後には都立の他の大学即ち都立科学技術大学、都立保健科学大学及び都立短期大学との統合・再編によって新しい大学に生まれ変わることになっています。具体的な中身はこれから決定していくことになりますが、この改革は本学が50年以上かけて積み上げてきた研究と教育に関する実績を基に、21世紀に相応しく今まで以上に国際的に高く評価される大学に発展するものでなければなりません。大学の組織は皆さんの在学中に大きく変化することになりますが、都立大学は皆さんを都立大学の学生として教育し、都立大学の卒業生として送り出します。皆さんも今日からは本学の一員として、学業は勿論ですがサークルその他の活動で大いに実績を上げ、存在感をアピールして、21世紀に相応しい「知の拠点」づくりに貢献することを期待しています。
 本学の特徴は文字通り「都立」の大学であるということです。英語で表記すると「Tokyo Metropolitan University」ですが、国立でもなく私立でもない、公立大学即ち地方自治体が設置する大学であるということです。御存じのように東京には国立や私立の大学がたくさんあります。しかし戦後間もなくの生活困窮の時代に、東京都は「地方自治体にも最高水準の知の拠点が必要である」という考えの下に本学を設立しました。戦後の財政窮乏の中で大学を設置した東京都の高等教育に対する深い理解と積極的な姿勢は「財政窮乏の折だからこそ教育に重点投資して人材を育成する」という「米百俵」の精神そのものであったといえます。日本が栄えるのも東京が発展するのも全て人材の育成にかかっていることを考えれば、都立大学の設立は歴史に残る英断であったと高く評価されます。開学以来の本学の足跡を振り返って見れば、設置者である東京都の高等教育に対する深い理解並びに都民の期待に応えて研究・教育に輝かしい実績を築き上げてきた諸先輩の並々ならぬ努力のお陰で、短期間のうちに国際的に高く評価される大学に成長したことが分かります。我々は皆さんと共に、諸先輩が残してくれたこの素晴らしい知的財産を守り更に発展させて次代に引き継いでいかなければならないと肝に銘じています。
 東京都立大学は本日皆さんを迎え入れましたが、我々は皆さんの一人ひとりが卒業するときに「都立大学に入って本当に良かった」と満足し、自信を持って社会に巣立っていくことを願っています。在学中に本学自慢の優秀な教授陣と恵まれた研究教育環境をフルに活用し、自ら持てる能力を開花させ、数年後には出来る限り大きな付加価値を付けて卒業して下さい。そのために教職員は協力を惜しみません。但し、大学の教育はセルフサービス式になっていますから、自ら手を伸ばさなければ欲しいものを得ることはできません。聖書の言葉を借りるならば「求めよ、さらば与えられん」です。問題意識を持って自ら求めてみて下さい。必ずや手応えがあることでしょう。
 少し前までは「大学はレジャーランド化している」などと言われていましたが、最近は不況の影響もあって、大分様子が変わってきました。つい先日この場所で卒業式を行いましたが、昨年度の卒業率即ち卒業年次の学生の中で実際に卒業した者の比率は73.5%でした。この数字は、不況の影響もあるとは思いますが、本学が決してレジャーランドや卒業証書自動販売所ではないことを示しています。
 昨今、社会、特に企業からは「大学は役に立つ学問をしっかりと教育して、即戦力になる人材を養成すべきである」という声が多く聞かれます。更には、「小中学生のうちから起業家精神を育てるための教育をせよ」などと言います。かつては「必要な専門は入社してから教える。大学では基礎をしっかり勉強してきて欲しい」と言っていた企業が、昨今は長引く不況で自社教育をする余裕がなくなったために「即戦力性」を期待するようになりました。しかし、ある優良企業のトップは「専門技術では負けていないが、トータルとして外国企業に勝てないことが屡々ある。その原因はトップの総合的な判断力の差である。大学では、哲学、歴史、文学など幅広い教養を学んできて欲しい」と言っています。つまり、日本の企業に欠けているのは、技術力ではなく、幅広い教養に裏付けられた総合的な判断力をもつ見識あるリーダーであるということです。大学が「即戦力性」に偏した教育をしていると優れたリーダーが育たず、国際競争に勝てないということです。一方において、現在は人類の活動のかなりの部分が「科学」に関わりを持っています。例えば「環境問題」を扱おうとすれば、法律学、経済学、心理学、社会学等に加えて工学、医学、生物学、化学、気象学、地理学等に関するかなりの水準の知識が必要になりますが、必要に応じて様々な分野の専門家を集めただけでは問題は解決しません。環境問題の全体像を把握して的確な判断ができる見識あるリーダーが不可欠です。我が国では行政のトップは伝統的に文系、特に法学部の出身者が多数を占めてきましたが、今求められているのは何大学の何学部の出身であろうと幅広い教養を身に付けたハイレベルなジェネラリストです。私は皆さんに将来それぞれの分野においてリーダーになって欲しいと願っています。そのためには、ハイレベルなジェネラリスト又は広い視野を持つスペシャリストを目指して欲しいと思います。自分の専門には詳しいけれども他の分野のことは分らないという知的視野狭窄症候群に罹っていてはリーダーとして的確な判断が出来ません。真のエリートとは、自分の専門以外のことについても的確な判断ができる能力を持っている人のことです。
 しかし残念なことに、現在は「高学歴無教養」の時代と言われ、世を挙げて教養教育の重要性が叫ばれています。「教養」は英語では「culture」、ドイツ語では「Bildung」です。「culture」には「耕す」という意味があり、「Bildung」には「形成する」という意味があります。「教養」を身につけることは「知識」を増やすことと同義ではありません。「教養人」になるためには「知識」を獲得することが必要ですが、それだけでは十分ではありません。単に知識を獲得するだけならばコンピューターに記憶させておく方が、忘れてしまったり記憶違いをしたりすることがないだけに安心です。しかし、山ほど知識を詰め込んだコンピューターを持っていても「教養人」になったことにはなりません。「教養人」は知識の獲得過程で形成される人格そのものです。昨今は手っ取り早く役に立つ知識を欲しがる人が多く、所謂「How-to 物」が本屋に並んでいますが、「How-to 物」をたくさん読んで知識を増やしても「物知り」「情報通」にはなれても「教養人」にはなれません。皆さんは都立大学在学中にそれぞれの専門を学んで卒業していくことになりますが、先ず「教養人」になり頭の中の土壌をしっかりと耕しておかないと「専門の種」を蒔いても発芽しないでしょう。先ず「教養人」になることを目指して下さい。
 明治以前の日本では、四書五経などの漢籍を通じて形而上学の教育が中心となっていましたが、明治維新期の高等教育は「形而下的な技術学を中心に西欧の学門を導入する教育機関」と位置付けられ、工学、天文、物理、医学、法律、経済などに関する「知識」を学ぶことを目的としてスタートしました。「知識以上の道理までも大学で学ぶ必要はない」と考えられてスタートした高等教育の伝統が今日まで続いた結果、高等教育を受けたにも拘わらず道理を弁えない人々が多いのかも知れません。西洋の伝統ある大学においてリベラル・アーツを学ぶことによって人格陶冶をはかることが目的とされていたのと対照的です。「教養が邪魔をする」という言い方があります。何か良からぬことをしようとしても「教養が邪魔をして」それができないという意味です。昨今、エリートと呼ばれる人達の不正行為が頻発するのを見ていると、彼等には「邪魔をする」教養が無かったということが分かります。「無理が通れば道理引っ込む」という諺があり、現実には屡々無理が通されることがありますが、真理や道理は、如何なる時代にあっても最も強力な武器であることを忘れないで下さい。本学の図書館の正面にはラテン語で「VERITAS VOS LIBERABIT」即ち「真理は君達を自由にする」と書かれています。真理を学ぶことによって自分が変わり世界をも変えることができる、真理の探求が人類普遍の価値であり、大学に課せられた使命であるということです。夜になると文字が光を発して幻想的ですから是非見て下さい。困難に遭遇した時に力になってくれるのは単なる情報としての知識ではなく、歴史や古典等によって培われる教養です。時代が変わっても人間の本質は殆ど変わっていません。長い年月を生き続けてきたものにはそれなりの価値と力があります。人類の叡智の結晶とでもいうべき真理や道理は、いつの時代にも、どんな混沌の時代にも、皆さんの行く手に明るい光を投げかけてくれることでしょう。
 大学の使命は言うまでもなく知の創造、知の継承、知の活用であり、そのために学術の研究と教育を実践しています。教育は、長い歴史を通じて先人達が獲得してきた知的財産とその活用法を、次代を担う若い皆さんに伝達することであります。皆さんは伝達されるものを先ずは習い、しかし鵜呑みにするのではなく批判の目を持って受け止め、更に発展させていかなければなりません。従って、大学の教育は知識を伝授することが主たる目的ではなく、「学び方」を学ぶことが中心となります。つまり、大学の授業は、先生が教室で教えることを学生が覚えるだけではなく、学生が自ら学ぶ能力と習慣を身につけることが目標です。いくら面白い講義でも先生が教室で学生に伝えることができる知識は極めて限られています。しかし、宇宙空間を無数のニュートリノが飛び交っているように、「大学という空間は知的な刺激に満ちている」ということを強調しておきたいと思います。人間の脳は知的な刺激を与えることによって発達します。今までは「親の教育が悪い」とか「先生の教え方が悪い」とかいうことができたかも知れませんが、これからは自らの責任において自分の脳を鍛えていかなければなりません。皆さんはこの大学の空間において、先生や先輩や友人達が発する知的な刺激を受けながら自ら学ぶ能力と習慣を身につけて下さい。卒業後どのような分野で活動するにせよ、大学で学んだ知識だけで間に合うということはあり得ません。社会に出れば学習に次ぐ学習が必要になるでしょう。日々に自己学習を重ねながら、問題意識をもって事に当たり、自ら問題を発見し、自らその解決方法を考えることになります。そのとき必要になるのが「論理的に思考し表現する能力」「知識や情報を収集し評価して活用する能力」「企画・立案して遂行する能力」などです。即ち、自分で企画・立案し、自分で必要な材料を集め、それらを使って自分の頭で考えたことを自分の言葉で表現し、発信する能力です。これらの能力が身につき自ら学ぶことができる水準に達したとき「学士」の学位が授けられることになります。
 宮崎県清武町が生んだ江戸時代末期の儒学者安井息軒は、幼いころから学問に励み、「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮の時にあり」という「三計の教え」をもとに多くの人材を育てました。「今は音をしのぶが岡のほととぎすいつか雲居の余所に名乗らむ」の歌は、息軒が若い頃に向学への思いを詠んだものです。今まさに春です。早速一年の計を立てて下さい。皆さんは今まさに「少壮の時」です。一生の計を立てて下さい。幸い、本学には整った施設・設備と充実した教授陣が揃っています。これらの恵まれた環境をフルに活用して、自らの可能性を存分に引き出すとともに、これからのグローバル化時代に地球人として生きていくことを考えて、広い視野を持ち豊かな教養を身につけることを目指して貪欲に学んで下さい。皆さんの奮闘を期待し、大学生活が実り多いものになることを祈ります。
[2002年4月4日 都立大学講堂大ホール]