2000年度学位授与式式辞

 本日ここに東京都立大学大学院を修了して修士並びに博士の学位を取得した皆さんに心からお祝いの言葉を贈ります。本年度の学位取得者は修士が369名、内20名が留学生、博士が52名、内11名が留学生であります。
 皆さんは専門の課程において、日々弛みない努力の結果、この度めでたく課程を修了し、本日晴れてここに学位取得の時を迎えました。今、こうして皆さんを見渡しますと、一人ひとりの表情に論文を完成させたことへの満足感、努力が報われたことへの安堵感と喜びが溢れていますが、その中に鍛えられた知性を感じることができます。この数年間の努力が報われたことを共に喜び合いたいと思います。しかし、同時に明日から、新たなしかもより高度な挑戦が始まる、いや始めなければならないこともよく理解していることでしょう。皆さんは好むと好まざるとに関わらず、21世紀をリードしていくべき立場にあるからです。いつの時代にも、優れた研究者やその道に秀でた専門家は人類共通の宝です。人類の将来は皆さんの双肩にかかっており、地球の未来を開く鍵は皆さんが握っていると言うことができるでしょう。
 修士の学位を取得した皆さんはこれから社会に出て高度専門職業人として第一線で活躍する道に進むか、あるいは博士課程に進んで更に深く専門の学術を研究することになることと思います。本日皆さんが手にした修士の学位は、都立大学大学院においてそれぞれの分野の最先端を学び、専門家としての実力を身につけたことを証明するものです。皆さんは修士課程在学中に物事を自分で考え、判断し行動することができるという、はっきりとした自信を持ったことと思います。その自信こそが皆さんが修士課程で得た最も大きな財産です。更なる研鑽を積み、それぞれの分野おけるリーダーとして果敢に21世紀を切り開いていって下さい。
 本日博士の学位を取得した皆さんの多くはこれから研究者として学術の研究に携わることになるでしょう。本日皆さんが手にした博士の学位は、都立大学大学院において研究者として独り立ちできる実力を身に付けたことを証明するものです。これからは自ら研究業績を積み重ねると同時に、後輩の指導にも力を発揮してもらいたいと思います。本日の学位取得は研究者としての出発点です。この先いつまで経っても学位論文が立派に見えるようでは進歩がない証拠です。何年か経って自分で「つまらない論文で学位を取った」と思えるようにならなければいけません。プロの研究者としての道は厳しいものです。「Publish or Perish」即ち「業績無き者は去れ」というのが学問の世界における掟であることを肝に銘じて、努力と素質を武器に頑張って下さい。これからは今まで以上に厳しい「評価」に曝されることになり、並々ならぬ努力と素質を要求され続けることになる思いますが、どうか自負と誇りを持ってその道に精進して下さい。
 現在は文明の転換点だと言われていることは御承知のことと思います。今、社会では様々な制度やシステムが崩壊しつつある一方で、科学や技術の分野ではこれまでにないスケールと速さで変革が進みつつあります。特に「生命科学」「情報科学」「ナノテクノロジー」「環境科学」などの分野では人類の歴史始まって以来の現象が始まろうとしています。例えば先日、文部科学省から1通の通達文書が回ってきました。それは「クローン人間の産生禁止について」つまり「クローン人間を作り出すことを禁止する」というものでした。私はいつか到来するであろうと予想していた時代がいつの間にか背後に忍び寄っていたことを知り、世の中はついにここまできたかという驚きを禁じ得ませんでした。御存知かと思いますが、「クローン人間」とは、ある人の細胞核を他の人の核を除いた卵細胞に移植することによって「クローン胚」を作り、それを受精卵と同様に成長させてその核の持ち主と全く同じ遺伝子をもつ人間を作るという技術です。「年の離れた一卵性双生児」つまり「何年か前の自分とそっくりな一卵性の弟または妹」ということになるでしょうか。『西遊記』において、孫悟空は自分の毛を抜いて息を吹きかけることによってクローン悟空を作る術を持っていましたが、それと比較すると、クローン人間は遺伝子は全く同じでも人格は全く別ですから、まだまだ悟空の域には達していないと言うべきかも知れません。しかし自分と全く同じ遺伝子を持つ人間が他にいる、しかも何千人でも作ることができる、ということはどういうことなのでしょうか。人間存在の根源を問われる問題です。一方、遺伝子科学の進歩により、火傷をした場合に、自分のクローン胚からES細胞をつくり、それから自分と同じ皮膚を作って、火傷した部位に移植する治療法は既に成功しています。同じ原理で臓器を作ることができれば、他人から移植する場合と違って脳死判定の問題や拒絶反応の問題が無くなります。また、遺伝子治療によって癌が撲滅できる日もやってくると言われています。更に、動物実験では「不老細胞」即ち年をとらない細胞というものが出来ているそうですから、これが人間に応用されれば、人間は死ななくなるかも知れません。このような事柄は「生命とは何か」という根源的な問いを投げかけてきます。つまり、従来は哲学の問題と考えられていた「生命とは何か」ということを、今我々一人ひとりが現実の問題として判断を迫られています。生命科学が切り開く未知の世界には「生命とは何か」という問に対する答を持って入っていかなければなりません。そのためには、これまでの人類のあらゆる叡知を統合するとともに新たな視点から答を出していくことが必要になってきます。これまで一般に馴染みが薄かった哲学という学問が急に身近なものになってくると思われます。
 一方、「ナノ」はラテン語で「小人」を表わす言葉ですが、科学用語としては10億分の1を意味し、ナノメートルは分子や原子のサイズに相当します。DNAも含めて分子や原子を直接に操作して新しい物質を創り出す技術がナノテクノロジーです。やがて国会図書館の全情報量が角砂糖の大きさに収納できることになるそうです。情報技術、地球環境、エネルギー、医療などあらゆる分野に大きな変革をもたらすことが期待されており、21世紀における科学技術の基盤になると言われています。20世紀が「ものづくり」の世紀であったのに対して、21世紀は「ナノづくり」の世紀といえるかも知れません。ナノテクノロジーが我々の生活や社会のシステムに大きな影響を及ぼすことは間違いありません。「ナノ」が21世紀に人類の幸福をもたらすよう、叡知を結集することを期待しています。
 科学的な考察をする場合には、対象を構成要素に分解して各要素を追究する方法と、構成要素の関係や挙動に注目して全体をシステムとして捉える方法とがあります。20世紀の科学は前者即ち「対象を構成要素に分解する」方法によって飛躍的な発展を遂げたといえると思います。例えば、物質の構造の解明などはその典型的な例といえるでしょう。我々が学生の頃には陽子や電子や中性子などの素粒子が物質の基本単位であると教わりましたが、その後の物理学の発展によって、宇宙に存在する物質は12種類の粒子、即ち6種類のクォークと6種類のレプトンから構成されていることが解明されました。電子やニュートリノはレプトンです。こうしている間にももの凄い数のニュートリノが皆さんの体の中を通り抜けています。別に怖がることはありません。この間の大学祭の時には、スーパーカミオカンデが検出しているニュートリノの発光現象を電話回線を通じてリアルタイムに見ることができ感動を覚えました。かつては素粒子は不変であると考えられていましたが、今では素粒子が生成したり消滅したりすると考えられるようになりました。崩壊や分解ではなく、消滅してしまったり、反対に、何もないところから生成したりするということは、従来の理論では説明できないことであって物質というものの最も基本的な概念が揺らいできます。更には、質量の正体も間もなく突き止められるに違いありません。このような最先端の研究は世界中の研究者達が協力し競争しながら推進してきましたが、都立大学の研究者達も重要な貢献をしています。皆さんの中にもこのような分野の研究によって本日学位記を手にした人が何人かいらっしゃると思います。
 物質の究極の構造を研究する場合には、構成要素の最小単位を追究しますが、一方において、構成要素の関係や挙動に注目して全体をシステムとして捉えることが必要な場合もあります。例えば、生命現象を考察する場合には、究極の構成要素であるクォークやレプトンのレベルではなく細胞かDNAか分子のレベルで考えるのが適当であり、そのレベルの要素が如何なる関係を持ってシステムを構成し如何なる挙動をするかを解明することになります。また、人間社会の現象を究明する場合には最小の構成要素は個々の人間であり、個々の人間が相互に如何なる関係を持ち如何なる挙動をし、全体として如何なる現象が起きるかを考察することになります。生命や人間社会などは大変に複雑なシステムを構成しており、個々の要素が全て特定できても、システムが解明できたことにはなりません。21世紀は、構成要素の解明と共に、このような複雑系の科学が重要になり、そのために新しい方法論を開拓していかなければなりません。
 人類はこれまで営々と森羅万象の営みの謎を解いてきました。21世紀に入った現在、人類は膨大な「知」の蓄積を持っていますが、その大半が20世紀後半に創り出されたと言っても過言ではないと思います。そのことは、特に自然科学の分野において顕著であり、そのために生命観、人生観、社会観、倫理観などのあらゆる価値観を変えていかなければなりません。現在様々な意味において、皆さんの前には人類にとって未開拓の原野が果てしなく広がっています。この原野は皆さんの力で切り開かれるのを待っている豊饒な原野です。自然科学の進歩が急速である現在こそ、人文科学や社会科学の発展が不可欠です。様々な分野が相互に補い合い、協調を保ちながら前進することによって、人類社会は健全に発展することができます。人文・社会系の皆さんも、理工系の皆さんも、広い視野に立って力の限りを尽くして下さい。
 21世紀はボーダーレス、即ち国境を越えて人々の行き来が益々盛んになると予想されます。皆さんの中の多くの人が仕事で、あるいは研究で、海外に滞在するようになることと思われます。皆さんは都立大学大学院の出身者らしく常に希望を胸に自由闊達に、全世界を舞台に存分に活躍して下さい。自分の可能性に挑戦することが皆さんに課せられた義務であり、また責任でもあります。皆さんの健闘を祈ります。
[2001年3月26日 都立大学講堂大ホール]