山住正己先生とお別れする会

 本日は「山住正己先生とお別れする会」に御列席を賜り誠に有り難うございます。この会の呼びかけ人を代表して厚く御礼申し上げます。
 私達の大いなる先達であり得難い師であり、また懐かしい友人でもあった山住先生は、72才の誕生日を迎えたばかりの2月1日にかの国へ旅立たれました。先生の余りにも早過ぎる旅立ちにただただ呆然としております。ここにお集まりの多くの方々の姿を拝見するにつけましても、先生が生前如何に広範な活動を通して社会に関わって来られたかが分かります。
 私は理系の人間で先生とは全く専門が違いますが、長年に亘り先生から親しくして頂くことが出来、先生から随分たくさんのことを学ぶことが出来ました。この4年間は先生の後任としての仕事に忙殺されたために、先生と一緒に旅行するなどの機会が持てませんでしたが、これからはじっくりと先生の文化を学ぶことが出来ると思っていた矢先にこのようなことになり、残念でなりません。
 先生は東京大学教育学部の第一期生であり、教育学博士第1号取得者でいらっしゃいました。先生は現場の教育に即した「活きた教育学」の研究を旨とされ、常に教育を受ける子供達の視点に立って提言をされました。都立大学附属高校を大事にする一方、子供達を受験のための勉強から解放する必要性を強調し、中・高一貫校の設置にも情熱を燃やされました。
 先生の学位論文は「唱歌教育成立過程の研究」でしたが、先生は御自身も音楽に造詣が深く、音楽会、コーラス、カラオケなど幅広く活動を続けられました。特にカラオケで歌う「厭戦歌」には独特の味わいがありました。
 先生は人文学部長を2期4年務められ、教育課程の改革や自己点検・自己評価の導入などに尽力されました。引き続き6年間総長を務められ、大学院都市科学研究科の設置や国際交流の推進など都立大学の発展に大きな足跡を残されました。山住教の教祖を思わせる威風堂々たる眉毛、その下に炯々と光る眼差し、時宜に即し機知に富んだ講話、達意の文章、どれも皆私達の記憶に深く刻まれております。
 山住先生は自他共に認める「酒呑童子」いや「酒仙」でしたが、私から見れば「絵になる」先生でした。先生はどんな場面でも、何をやっても一幅の「絵」になりました。私の「画廊」には先生を描いた「絵」が多数愛蔵されています。その中の何枚かを御紹介して先生を偲ぶ言葉に代えたいと思います。
 私は先生と中国に2回、モンゴルに1回御一緒する機会がありましたが、先生と一緒に旅をしていると次々と予期しないことが起こります。これが楽しく、今でも数多くの場面が鮮明に目に浮かびます。行く先々でお酒を楽しまれましたが、モンゴルの馬乳酒だけはお口に合わなかったようでした。食べ物に関しては警戒心が強く、少し変わったものは一切口にされませんでしたが、中国に行ったときに何故か大きなバッタの唐揚げを「コリコリして美味しいね」といって食べられたのには驚きました。
 「俳句は親父がやっていたからやりたくない」といっていた先生が、何故かモンゴルに行ったときには次々と名句をお作りになりました。俳句というよりは川柳ではないかと思いますが
  アルヒ飲みアヒルのやうによたよたと
  馬肉食べ馬力をつけて草原へ
などは先生のユーモアを垣間見ることが出来る作品です。
 先生は学生時代に野球をおやりになったというのが自慢で、十年位前までは教育学研究室の方々とソフトボールを楽しんでいらっしゃいました。大阪府立大学との対抗戦の折に教職員のソフトボールが企画され、我が軍のキャッチャーは山住先生でした。御本人は「学生時代は野球部で鳴らし、不動の二塁手だった」と豪語していらっしゃいましたが、我々が確認できたのは「不動」の捕手でした。「不動」つまり、動かないのです。球がこぼれても決して拾いに行かないので、審判や控えの選手が拾って返球しました。「動かざること山住の如し」でした。山住捕手は懸命に「盗塁無し」を主張しましたが受け入れられず、府大の打者は出塁すれば自動的に本塁に還ることができました。グランドが爆笑の渦につつまれたあの楽しいひとときの思い出は「府大戦意外史」の第1頁に載せて永く記録に留めたいと思っています。
 先生は会議中によく居眠りをなさいましたが、パッと目を覚まして的確な発言をされることが多く、御本人は「寝ているように見えてもちゃんと聞いている」と自慢していらっしゃいました。
 先生はいつもポケットに色々なものを詰め込んでいらっしゃいましたが、何か思いつくとポケットから新聞広告を取り出して裏に鉛筆で走り書きのメモをしておき、それが卒業式の式辞に使われたり本の原稿になったりしていました。時には御自分でお書きになったメモが読めなくなり、回りの者に「これは何と書いてあるか分るかね」などと聞いていらっしゃいました。先生のお読みになる本の数は我々の想像を絶するものがありましたが、大切な箇所に鉛筆で傍線を引くとたちまちにして記憶に留めることが出来るという抜群の記憶力には常々驚嘆させられました。
 5年前に体調を崩されたときには随分心配致しましたが、徹底した健康管理が効を奏してすっかり快復され、お孫さんにも恵まれて、これからが山住文化の円熟期と期待していましたので、突然の旅立ちは本当に残念でございます。
 先日私の後任に茂木人文学部長が選出されたことを御報告申し上げましたら、先生は涙を流して喜んで下さいました。先生が育て上げて下さった都立大学は、現在大変難しい状況に置かれていますが、今後は茂木先生の舵取りによって荒波を乗り越えていくことになります。先生にはこれからも都立大学を温かく見守って下さるようお願い致します。今までのように時々はかの国から「都立大学はどうなっているかね。何か困っていることはないかね」と電話を掛けて下さい。
 実にお名残惜しく、寂しい限りではありますが、「山住先生、安らかにおやすみ下さい」と申し上げて、お別れの言葉と致します。
[2003年3月23日 日本教育会館一ツ橋ホール]