「深志の校歌」と「信濃の国」

 この年になって突如“商売替え”をすることになった。まさに“青天の霹靂”である。「学校出てから十余年」ならぬ30年以上、数学の研究・教育を生業として気儘に暮らしてきたが、この4月から東京都立大学総長という管理運営を専らとする仕事に就くことになってしまった。今までも多少は管理運営に関わってはきたがそれを専業にすることになろうとは思ってもいなかったので、戸惑うことが多い。何よりも生活環境が激変した。定刻に迎えにくる車に乗って出勤しなければならないし、日程は全て秘書が調整する。総長室は広くて立派であるが、人の出入りが多く落ち着かないこと甚だしい。
 我が大学には879名の教職員と約6500名の学生がいるが、その中には長野県人も多数いるし、深志の卒業生も何人かいる。数年前に「長野県人会」を作り、時々集まって「信濃の国」や各自の母校の校歌を歌って連帯感に浸っている。勿論私は深志の校歌を歌う。

     松本深志高等学校校歌

   1 蒼溟遠き波の涯    黒潮たぎる絶東に      たてり大和の秋津洲  光栄の歴史は三千年      その麗しき名を負へる 蜻蛉男児に栄あれ    2 時の流れは強うして この世の旅は長けれど      自治を生命の若人は 強き力に生きる哉      山河秀でしこの郷に 礎固し我が母校    3 暁こめて鳴り出でし   時代の鐘を身にしめて      世の先駆者の名に恥ぢず 心を磨き身を鍛へ      移らふ星をかがなべて  守るも久し深志城    4 朝に仰ぐ槍嶽に   深き真理を探りつつ      夕筑摩の野を行けば 胸に充ちくる想華あり      嗚呼学術の香に集ふ 契りも深き友九百    5 古城空しく苔古りて 濁世の波は高けれど      清き心の一筋に   志あるますらをは      自治の大旗翻し   前途遙かに望む哉
 これ程壮大な校歌が他にあるだろうか。素直に読めば日本と日本男児を称える詩である。古事記に登場する「秋津(蜻蛉)洲」が「日本国」を意味するかどうかについては古代史学者の間では諸説があるようだが、この際学術的考察はさておき「深志=蜻蛉=日本」ということにしておこう。実に気宇壮大であり格調も高いので、機会あるごとに自慢している。懐かしい深志の学舎を巣立って40年、年齢を重ねるごとに信州への思いが深まっていくような気がする。思えばこの40年、私の頭のどこかで常に深志の校歌が歌われていて、この歌に励まされてここまでやってこられたように思う。これからは「自治を生命」とする大学で「強き力」に生きなければならない。

 一方、長野県には県歌「信濃の国」がある。昨今は「国歌」について喧しい。「君が代」が国歌であるか否かについては賛否両論があるが、「信濃の国」が長野県の「県歌」であることに異議を唱える人は皆無ではないだろうか。

     信濃の国

   1 信濃の国は十州に   境連ぬる国にして      聳ゆる山はいや高く  流るる川はいや遠し      松本伊那佐久善光寺  四つの平は肥沃の地      海こそなけれ物さわに よろづ足らわぬ事ぞなき    2 四方に聳ゆる山々は 御岳乗鞍駒ヶ岳      浅間は殊に活火山  いづれも国の鎮めなり      流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川      南に木曽川天竜川  これまた国の固めなり    3 木曽の谷には真木茂り  諏訪の湖には魚多し      民の稼ぎも豊にて    五穀の実らぬ里やある      しかのみならず桑とりて 蚕飼ひの業の打ちひらけ      細きよすがも軽からぬ  国の命を繋ぐなり    4 尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床      木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋      来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姨捨山      著き名所と風雅士が 詩歌に詠みてぞ伝へたる    5 旭将軍義仲も    仁科五郎信盛も      春台太宰先生も   象山佐久間先生も      皆此国の人にして  文武の誉類なく      山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず    6 吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山      穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道      道一筋に学びなば  昔の人にや劣るべき      古来山河の秀でたる 国は偉人のある習ひ
 「信濃の国」は信州の地理・歴史・文化を実に見事に詠み込んでいる。然し、歌われている名所・旧跡の中には知らない所もあり、「四つの平」も松本平以外は殆ど知らなかったので長野県人として「これではいけない」と思い、遅蒔きながら機会をとらえてはあちこち訪れてみた。行くたびに信州の良さを再認識するのであるが、これまでに行った所で出色だったのは園原である。
 「尋ねまほしき園原」は伊那の阿智村にあり中央道の園原から程近い。現在はひっそりとした山深い集落であるが、かつては東山道の要所として信濃の国では文化的に都に最も近い所であった。神坂峠の中腹にある園原は『枕草子』にも「原はその原」と登場するが、何といっても園原にある「箒木」は『源氏物語』によって世に知られているし、神坂峠は今昔物語の「受領は倒るる所に土をつかめ」で知られる藤原陳忠の話の舞台でもある。このほかにも日本武尊、源義経、伝教大師等に縁の名所旧跡が集まっていて、この地がかつて日本のメインストリートであった時代を彷彿とさせる。現在ではその下を中央道の恵那山トンネルが通っているが、この山深い地が平安時代に都の文化人達から注目されていたと思うと感慨深く、立て続けに2回訪れた。
 ところで「信濃の国」に一つだけ“不満”がある。5番の歌詞で信州を代表する偉人として旭将軍義仲、仁科五郎信盛、太宰春台、佐久間象山の4人をあげているが、武田信玄の五男である仁科五郎信盛には信州が「この国の人」として称えるべき要素は全くない。信州の武人としては真田幸村を採り上げるべきである。真田藩は明治維新まで続き、佐久間象山はその藩士であった。真田藩が幕末を迎えた松代には大本営予定地跡があるが、ここに大本営を移そうとしたのは「川中島の合戦以来ここが要害の地であった」からと書かれていたのには恐れ入谷の鬼子母神である。
 「信濃の国」には歌われていないが、松本平では多田加助を忘れてもらっては困る!何故ならば、加助は私の母方の先祖だからである。多田加助は「二斗五升」と叫びながら絶命し、松本城の天守閣を傾けたといわれている。その末裔として私も及ばずながら「大学の自治」を叫んで都庁の塔を傾ける位の意気込みで取り組みたいと思っている。


[松本深志高等学校第11期生卒業40周年記念誌掲載]