高等教育リフォーム構想

はじめに

 その多くが「レジャーランド」と化した日本の大学の現状は、既に批判し尽くされた感がある。「入試の難易度」による大学の格付け、その格付けを人材採用の基準にする企業、格付けの高い大学に殺到する受験生、入学後は勉強しなくても卒業させてくれる大学、・・・。しかし、日本の大学の退廃は、大学を「卒業証書自動販売所」と考える学生や、人材選別の目安を「入試の難易度」に求めた企業だけに責任があったのではなく、むしろ真の原因は現在の大学制度の発足当初から、制度自身並びに大学人の意識に内包されていたのではないだろうか。
 「選ばれた少数者のための最高学府」であった旧制大学に対して、「多数者に開かれた高等教育機関」という理念のもとに作られたのが新制大学であった。新制度による大学は戦後の復興や高度経済成長に貢献してきたが、大学進学率の上昇や少子化によって大衆化が進み、多くの問題が顕在化してきた。大学自身が自らを「教育機関」としてよりは「研究機関」として位置づけてきたことにより、大衆化と共に「勉強しない大学生」と「学生を教育しない大学」が一般化するという状況を生み出すこととなった。一方、今後ますます重要性を増す大学院についても、現行の体制では21世紀の社会的要請に十分に応えていくことができない。
 大学は「学問の府」すなわち「知」の最大の創造拠点・集積地であり、「知」を後世に伝え、かつ新たな「知」を創造できる優れた見識を備えた人材を育成していく責務を負っている。大学がその責務を十分に果たしていくために、様々な変化が求められている。制度改革と意識改革の両方が必要であることは言うまでもない。ここでは、主として21世紀に相応しい高等教育制度のリフォーム構想について考えてみたい。
 尚、東京都は2月9日に「東京都大学改革基本方針」を発表した。これは東京都が設置する4つの大学が構想する改革を前提にして東京都が策定したものであり、東京都立大学は当面そこに示されている方向で改革を進めることになる。

高等教育を2段階に

 現在、我が国の教育は初等教育、中等教育、高等教育に3区分されて考えられており、大学は高等教育を担当しているが、この区分が設定された当時とは国民の修学状況が大きく変わってきている。戦前は、(旧制)高等学校において高度な教養教育を行い、大学は文字通り最高学府であり専門を究めるところであった。しかし、戦後の制度改革によって大学の数が飛躍的に増加し、加えて近年大学への進学率が50%に近付きつつあるに及んで所謂「大衆化」が進み、「今や大学は普通教育の場である」というべき状況になった。大学の大衆化は大学進学率の上昇によるものであるが、一方において、長寿化や社会の高度化、生涯学習意欲の向上への対応など、大学教育をより多くの人々に開放する必要性が高まっていることも事実である。即ち、大学の教育機関としての役割が大幅に拡大しており、全ての大学が「研究」と「教育」の“二兎を追う”ことは“一兎をも得ず”となる危険性がある。
 このような現状に鑑みて、21世紀には高等教育を「一般高等教育」と「専門高等教育」の2段階に機能分離し別組織とすることによって、前者を「大学」が担当し後者を「大学院」が担当することを提案したい。

大学は全て3年制の教養学部に

 現在の大学教育には教養教育と専門教育の2つの面がある。戦後、我が国ではアメリカの教育制度を取り入れたが、お手本となったアメリカの大学では、学部の4年間を主としてリベラル・アーツ即ち教養教育に費やし、大学院へ行って初めて本格的に専門教育を受けるのが一般的である。専門教育を受けてスペシャリストになる前提として、先ず幅広く豊かな教養を身につけてジェネラリストになることが求められているのである。それは、専門知識を身につけても、豊かな教養がなければ的確な判断ができず、社会の第一線で活躍することはできないと考えられているからである。ところが、我が国では従来大学は最高学府とされ「専門を究めるところ」との考えが強かったせいか、これまで教養教育は軽視されがちであった。
 また現状では、中等教育が大学受験を目標にしており、早い段階から文系・理系と決めてしまう者が多く、入試に必要な科目以外は勉強しない。首尾良く大学に入学できても、殆どの大学において教養教育は崩壊状態というのが実態であるから、このままでは日本中に「教養無き学士」が溢れることになる。更には、本来高校で学んでいる筈の事柄を大学入学後に「補習」しなければ専門の教育に入れないという現実をどう考えるべきか。
 そこで、「大学の基本的な機能は教育である」を前提として大学は全て3年制の教養学部にして、幅広く豊かな教養を身につける人間教育を行い、専門教育は大学院で行うことを提唱したい。教養学部においては、幅広く豊かな教養を身につける人間教育を目標にするけれども、漫然と学ぶのではなく主専攻・副専攻を明確にすることによって自己を確立するとともに、大学院に進む者のためには必要な基礎が身につくようにする。
 かつては「大学生は自分で勉強するもの」という暗黙の前提があったが、昨今これは完全な「神話」になり、「大学生は勉強させるもの」である。教育機関である大学は、入学から卒業までの間にどれだけの付加価値を付けることができたかによって評価されるべきであり、教員は教育能力によって評価され、手間暇をかけて教育に力を注ぐことが期待される。

大学院を独立した組織に

 大学院の修士・博士課程の在籍者は1999年度で19万1125人と1985年当時に比べ約2.7倍以上に拡大した。これは主として理工系を中心とする量的拡大によるが、留学生が増加しているためでもある。
 大学院が質的・量的に拡大しているにも拘わらず、ごく一部を除いて大学院は実質的に独立した組織にはなっていない。そのために、大多数の教員は学部教育・大学院教育・研究の3種類の「本務」を抱え、何れも中途半端になり、国際競争に勝てないという結果を招いている。この状況を打破するために、制度上、大学(学部)を「教育機関」と位置付けると共に、大学院を「研究・教育機関」と位置付け大学とは全く独立した組織にすることを提案したい。
 大学院には主として研究者養成を目的とするコースと、主として高度専門職業人養成を目的とするコース(プロフェッショナルスクール)とを設置する。入学者の選抜にあたっては、どの大学からでも、どの分野を主専攻・副専攻に選んだ者でも、社会人でも外国人でも、能力に基づいて公平に受け入れるようにすることが重要である。このことにより、例えば、法科大学院(ロースクール)や医科大学院(メディカルスクール)などに、学部段階では様々な分野を主専攻・副専攻にした者達が集まることの意義を積極的に見出すことができよう。
 大学院、特に主として研究者養成を目的とするコースは研究・教育機関として、国際的に高く評価される水準を維持しなければならない。そのためには「研究」に対する評価を厳格に行う必要がある。

大学入学希望者に資格試験を実施せよ

 昨今「分数ができない大学生」など「大学生の学力低下」が問題にされているが、分数の計算ができないまま高校生になり、大学生にもなり得るような状況は改めなければならない。少なくとも大学入学希望者には資格試験を課すことを提案したい。分野の如何を問わず大学である以上「基礎学力のない者は入学させない」ことを前提にしたいということである。
 具体的には、現在実施されている英語検定試験の方式を、国語、数学、物理、化学、生物、・・・等の科目に拡大し、その成績を資格試験に利用する方式である。これは、年に数回の受験機会が設定できる、科目毎に受験できる等の長所があり、また失敗してもやり直しがきく方法である。社会人を含め広く大学教育の機会を提供するという意味からも、積極的に検討すべき方式であろう。「現代国語1級」「数学2級」などという認定試験の結果は大学入学希望者に対する資格としてのみならず、就職試験などにも有効に活用することができると思われる。大学入試センターの機能をこの方向に転換することを検討すべきではないだろうか。
 資格試験に合格した者を対象に、各大学がそれぞれの教育目標・理念に基づいて入学者を選抜すればよい。

おわりに

 20世紀の日本の大学は研究機関であり教育機関であると同時に、人材選別装置として機能してきた。いろいろ批判はあろうが、要するに大学は日本の社会の在り方を反映してきたということではないだろうか。「学生は未来からの留学生」という言葉がある。21世紀の入口に立って、これから始まる新しい時代に希望を託すためには、「高等教育の再生」に全力を尽くすことが最も必要なことではないだろうか。今がまさに正念場である。
[別冊『環』2「大学革命」所載]