メディアとしての詩歌

 雄弁が好まれた西欧とは異なり、日本では率直なもの言いは粗野だとされ、むしろ婉曲で含みのある表現に高い地位が与えられてきた。日常的なコミュニケーションに詩歌を使っていたという古の日本の文化洗練度は驚嘆に値するのではないだろうか。その昔の若者達は、今ならば携帯電話やe-mailで伝えるであろう「心の内」を、和歌という実に優雅なメディアに託して伝え合っていた。『伊勢物語』にある
   筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざる間に
と、それに対する返歌
   くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき
などはその典型である。このような感情の微妙な陰影を伝えるには、滔々たる長広舌よりも三十一文字の定型詩で表わす方が遙かに効果的である。言葉を最小限に削ることによって、かえって言外に豊かな情感を膨らませることができ、言葉にならない漠然とした雰囲気までも押し包んで相手に伝えることができる。メデイアとしての詩歌の優れた点はまさにそこにある。和歌や俳句などは人々の感動を他の人々に伝えつつ、日本の豊饒な文学世界を形作り、文化の中心を担ってきたのである。私達は四季折々の風情に「あはれ」を感じるとき、詩歌というメデイアによって伝えられ形成されてきた文化の中で生きているのだということを実感せずにはいられない。
 ところで、現代にも強力なメデイアとして機能している歌があるのをご存じだろうか。長野県には、式典であれクラス会であれ人が集まれば必ず歌われる県歌「信濃の国」がある。1900年に長野県師範学校において誕生したこの歌は、同校出身の教師達によってたちまち県下に普及し、1968年に「県歌」に制定されて今日に至っている。格調高い詩にリズミカルな曲が付けられており、信州の地理・歴史・名所・物産・偉人などが歌いこまれているデータベース的存在である。この歌を歌うことによって自然に愛郷心が湧き、郷土を同じくする者同士の一体感が増すようにできている。かつて分県運動が起こり、県議会において県を南北に分割する決議がなされようとしたとき、期せずしてこの歌の合唱が湧き起こり、信州の分断をくい止めたという逸話がある。そして21世紀の今も県民の圧倒的支持を得て愛唱され、老若男女を問わず信州人でこの歌を知らない者はいないと断言できるほどである。何処の県にも県歌があるだろうが、その歌を歌える者は非常に少ないのが現状だろう。その中にあって「信濃の国」は県民のほとんどが即座に歌えるという点で唯一例外的な存在であり、信州に関する知識と郷土愛を次の世代に伝える強力なメデイアとしての役割を果たしている歌である。テロ攻撃などで世の中が騒然としているが、国境や民族を超えて世界の人々が共通に歌える国際版「信濃の国」があれば、文化の対立や文明の衝突が避けられるのではないだろうか。かく言う私は勿論信州の出身である。
メディア教育開発センター『Newsletter』27号所載]