笹倉先生を偲んで

 笹倉先生が急逝されてから早いもので2年半が過ぎました。私はあの6月16日の朝受けた「笹倉ショック」で脳の血管が膨張して体に変調をきたし、それが随分長いこと元に戻りませんでした。それまでにも身近な人を何人も亡くした経験がありますが、「笹倉ショック」のような感覚は全く初めてで、私にとって笹倉先生という存在が如何に大きかったかを知ることができました。この2年半の間に大学をめぐる情勢は大きく変化し、また私の身辺でも様々なことが起こって時の流れを感じることが多いのですが、不思議なことに私の中で笹倉先生は未だに「過去の人」にはなっていません。それどころか今でも日常生活の折節に笹倉先生の佇まいが鮮明に思い出されて来ます。
 笹倉先生は立派な数学者であることは勿論ですが、所謂「数学者らしい数学者」としても大変有名で、逸話や武勇伝の多いことでは彼の右に出る者はいませんでした。その1つに、プリンストン滞在中、自動車を運転しながら数学の問題を考えるので、生命の危険を感じた奥方が免許を取って安全を確保したというのがあります。いかにも笹倉先生らしい話で、恐らく運転中にできた定理が幾つかあるのではないかと想像します。
 笹倉先生は数学みならずファッションに関しても数々の斬新なアイデアを開発し、時代の先端を行っていましたが、このことは殆ど認識されていませんので、ここに記しておきたいと思います。今では当たり前になっている若者達の「シャツの裾を出して着るスタイル」は笹倉先生のオリジナルです。オリンピックで左右の色が異なる靴下をはいて走った女子選手が注目を集めましたが、あんなことは笹倉先生はとっくの昔に実践していました。髭を一部剃り残すのも笹倉方式のさり気ないおしゃれでした。然し、ネクタイを締めている上にもう1本締めるという「ダブルネクタイ」は残念ながら流行らなかったようです。
 また笹倉先生は見掛けによらず器用なところがあり、歯を自由自在に着脱する術を持っていました。話をしている途中で歯を外してポケットに入れてしまうので、言語不明瞭になって聞き取るのに苦労することが屡々ありました。笹倉先生の話し方は学生時代の指導教官の話し方を真似て自家薬籠中のものとしたものですが、整理整頓の仕方も指導教官の方式を忠実に受け継いだもので、研究室の中はカオス的世界が展開していました。然し、先生は大学院の学生が研究室に出入りするようになったときに、「近頃学生が部屋を汚して困る」と大いに嘆いていました。
 笹倉先生が私の研究室を訪ねて来ることもよくありました。先生は部屋に入ると、長椅子に座って話しながらどういうわけか靴下を脱ぎ始めるのです。話が終わって先生が帰った後、長椅子の下に丸めた靴下が落ちていることが屡々ありました。
 笹倉先生が生涯に買った傘の数は恐らくギネスブックものではないかと思われます。世の中には赤の他人であるにも拘わらず図らずも「笹倉先生御愛用の傘」を下げ渡してもらえた幸運な人が多数いる筈です。また研究室のカードキーの交付枚数もギネスブック級だったようですが、先生の人柄に免じて再々々発行されていたようです。
 笹倉先生は自他共に認める酒呑童子でしたが、数学者であるにも拘わらず「等周不等式」を御存知なかったらしく、寒空のもとで往来に大の字になって寝ていたことも珍しくなかったようです。個性的なファッションで映画館の前で看板を見ていて不審尋問され「自分は数学者だ」といっても信用されなかった話、駅のベンチに鞄を置き巨額の有価証券の入った他人の鞄を間違えて持ち帰った話、等々「逸話」や「武勇伝」は枚挙に遑がありません。然し、その一方、正義感が強く、人情味が豊かで、面倒見の良い先生でした。都民カレッジで講義したときにはファンクラブができた程の人気で、その風貌や人柄と相俟っての魅力的な講義は定評がありました。
 故人を偲んで想い出のエピソードのあれこれを綴っていると、つい微笑が浮かんできてしまいます。まことに敬愛すべき希有な人格でした。御自身では立派な研究業績を残し、優れた後継者を何人も育てていますが、もっと末長く後進を指導して欲しかったという思いで一杯です。余りに早過ぎる旅立ちが惜しまれてなりません。どうぞ彼岸から私達を見守っていて下さい。合掌。
[『笹倉頌夫氏追悼文集』所載]