鴇田先生を偲んで献杯

 鴇田先生の余りに早過ぎる旅立ちに唯々呆然としております。私は鴇田先生とは年齢が近いこともあって、大きなショックを受けています。
 都立大学の南大沢移転以来、鴇田先生とは仕事やテニスなどを通じて親しくお付き合いさせて頂きました。先生は移転直後の4年間、学生部長を務められ、勉学環境の整備や学生の課外活動の支援に全力で取り組まれました。一橋大学に移られてからも、都立大学と大阪府立大学との対抗戦の折には大阪まで応援に駆けつけて下さるなど、都立大学を愛し続けて下さいました。また多忙な公務の合間に、学生と共に積極的にテニスを楽しまれました。当時の都立大学には「鴇田学生部長と組んで都立大オープンに優勝できるか」という難しい試験がありましたが、本日(2004年2月21日「鴇田先生を偲ぶ会」)列席の近藤君はその最難関の試験に5回も合格するという偉業を成し遂げました。
 鴇田先生は御自宅の方でもテニスを熱心におやりになり、松戸市早朝テニスクラブ初代代表、松戸市テニス協会副会長などを歴任されました。クラブのホームページを拝見したら「代表の特権を行使して、Aチームの監督兼選手として1部リーグに出場して惨敗」「鴇田先生のカエル跳びボレーを拝見すると、観ている方が恥ずかしくなる」「普段のテニスでも、ダブルスを組むときに、勝つために組む相手を選ぶので、周りから顰蹙を買うこともある」・・・などと実に微笑ましい「真実」が書かれていました。我々の仲間では鴇田先生のボレーを「蠅叩き」と言っていました。
 鴇田先生は学生指導にも大変力を入れておられ、特にゼミでは毎年数回会津田島寮で合宿を行い、午前は勉強、午後はテニス、夜はまた勉強という日程で文武両道の鍛錬を行っていました。私も鴇田ゼミの日程に合わせて会津田島寮に行き、テニスの鍛錬に励みました。その会津田島寮が鴇田先生の旅立ちに合わせるかのように、この年度末をもって閉鎖されることになったのは、誠に残念でなりません。
 先生は一橋大学に移られてからは、正月に大学セミナーハウスで合宿ゼミを行い、終了後に都立大学に直行してテニスを楽しんでいらっしゃいました。去年(2003年)は1月12日に都立大学のテニスコートで一緒にプレイし、「随分回復しましたね。この分なら完全復帰間近でしょう」「春に房総でテニス合宿をしましょう。私が企画します」というような会話を交わしましたが、その後病状に新たな展開があり、入院などのためにテニス合宿は実現しませんでした。
 鴇田先生には現在私が務めております大学評価・学位授与機構で学位審査の委員をお願いしており、その仕事で5月29日に小平にお出でになった折に昼食を御一緒しながら治療の状況などをお聞きし、「来月また同じ会議があるのでそのときお会いしましょう」と約束したのが先生にお会いした最後になってしまいました。
 鴇田先生は都立大学在職中一貫して研究を重視され、経済学部の研究活動の推進と環境の整備に務められました。その成果が今年度の21世紀COEの採択につながったと確信致します。
 先生は学外においても幅広く活動され、米価審議会や医療保険福祉審議会などの委員として我が国の行政に多大な貢献をされました。
 私は長年先生から親しくお付き合い頂く中で、色々なことを教えて頂き、様々な場面で力を与えて頂きました。一橋大学に移られてからも常に都立大学のことを心配して下さり、難しい状況におかれた都立大学のためにお力添えを頂いたことは、筆舌に尽くし難く有り難いことでした。改めて心より感謝申し上げたいと思います。
 思い出は尽きませんが、お酒が大好きだった鴇田先生のために杯を捧げて先生を偲び、御家族の御健勝を祈念したいと思います。献杯。
[『鴇田忠彦先生追悼集』所載]