資格試験とアドミッションポリシー

はじめに

 大学にとって入試は「入口」であり、卒業は「出口」である。入試によって選抜された学生達は数年間の教育を受けた後に社会に巣立っていくのであり、その間の付加価値が大学における教育の成果である。ところが、今まで我が国では、大学の「入口」管理に対する“神話”が厳然と生きていて、学生や大学の評価は入試の難易度で測られてきたと言っても過言ではない。即ち、A大学の卒業生はA大学に合格したことによって評価されているのであって、A大学で受けた教育の成果を評価されているのではなかった。そのために、大学は「入口」管理には全力を尽くすが「出口」管理の方は“適当に”行ってきたといわれてもやむを得ない状況であった。ところが、最近“神話”が崩壊して、学生は「出口における実力」で評価され、教育機関としての大学は「在学中の付加価値」によって評価されるようになってきた。
 一方、最近我が国では高校生の約半数が大学入学希望者である。従って、「大学入試に合格することが高等学校における教育の目標ではない」とはいいながら、高校教育が大学入試に大きく影響されていることも事実である。「大学入試が高校教育を歪めている元凶である」とは屡々いわれていることであり、折角高等学校で幅広い基礎教育を実施しても、大学受験を目指す生徒達は大学入試に必要な科目以外は勉強しないというのが現実である。「勉強しなくても単位が取得できることが問題である」という指摘は正論ではあるが、現実的な打開策にはつながらないと思われる。
 更に、益々高度化・複雑化が進行する社会に対応すべき高等教育の場において、学生の学力不足が深刻な問題となっている。大学の入学試験に合格したにもかかわらず、大学教育の内容について行くことができない学生が数多くいるということは、入学試験において大学教育に必要な能力の審査が的確に行われておらず、大学志願者の多くが入学後の大学教育への準備ができていないということを物語っている。
 以下に「大学生の質の確保」とともに「大学入試が高校教育を歪めていることの解消」に貢献する方策として「大学入学希望者全員に資格試験を課す」ことを提案し、併せて「アドミッションポリシー(入学者受入方針)」の問題に触れてみたいと思う。大学入試改善の参考になれば幸いである。

大学生になるための必要条件─大学生の質の確保のために─

 大学において如何なる分野を専攻するにせよ、卒業後社会の第一線において活躍するためには、前提として幅広く豊かな教養を身につけて先ずジェネラリストになることが期待される。しかしながら、多くの大学の入試がこれに逆行していると言わざるを得ない。大半の大学で、いわゆる「科目数の少ない入試」を実施しているのである。高等学校では折角幅広い教育をしているにも拘わらず、高校生は“生活の知恵”として大学入試に無い科目は勉強しない。結果として、大学に入学してくる学生の多くは偏った学力の持ち主であり、ジェネラリストには程遠いということになる。これに対して「大学に入ってから教育すればいい」という反論があるだろうが、教育には「適齢期」というものがあり、高校時代に学んでおかなければ身に付かない事柄も多い。実際、大学を卒業して社会に出た若者達が「教養」や「創造力」の不足を指摘されているのである。
 更に、最近様々な視点から「大学生の学力低下」が指摘されている。「大学生の学力は低下していない。大学進学率が高くなったために学力の低い者まで大学に入るようになっただけのことである」という楽観論もあるけれども、いわゆる有名大学の学生に関する調査でも、小学校や中学校レベルの基礎的な問題が解けない者が多いという結果が出ている現実は看過できない。これも「科目数の少ない入試」と無関係ではない。
 屡々「受験生の負担軽減」ということがいわれるが、必ずしも問題点が正しく理解されていないのではないかと危惧する。高校生を「受験のための勉強」から解放することは必要であるが、「望ましい勉強」から“解放”してしまっては元も子もなくなってしまう。要するに、「科目数の少ない入試」が純粋に教育的見地から見て望ましいとは到底思えない。
 このように様々な観点から、「幅広い基礎学力を身に付けている」ことを「大学生になるための必要条件」とすることを提案したい。言い換えれば、大学と専門学校の違いを明確に認識し、分野の如何を問わず大学である以上「“読み書き算盤”のできない者は受け入れない」ことを前提にしたいということである。

資格試験を実施せよ

 「能力が一定の水準に達しているか否かを調べる」のが資格試験であり、「多数の志願者の中から優秀な者を選抜する」のが選抜試験である。
 近い将来、大学入学の年齢制限が緩和乃至撤廃されることになると予想される。その時には、資格試験が必然的になるが、現在でも大学生の質を保証する為には、資格試験が必要である。
 上述の「大学生になるための必要条件」は大学入学希望者に資格試験を課すことに他ならない。資格試験としては、国際的に通用する検定試験制度を導入すべきであると考える。
 具体的には、現在高校卒業資格を持たない者を対象に実施されている大学入学資格検定試験を、入学希望者全員に課す方式が考えられる。これはアメリカで行われている方式に近い。大学入試センター試験をこの形に転換すること検討すべきではないだろうか。
 もう一つの考え方としては、現在実施されている英語検定試験の方式を、国語、数学、物理、化学、生物、・・・等の科目に拡大し、その成績を資格試験に利用する方式がある。これは、年に数回の受験機会が設定できる、科目毎に受験できる等の長所があり、また失敗してもやり直しがきく方法である。社会人を含め広く大学教育の機会を提供するという意味からも、積極的に検討すべき方式であろう。
 資格試験に合格した者を対象に、各大学(又は各学部、各学科)がそれぞれの教育目標・理念に基づいて独自の選抜試験を実施すればよい。
 先日、国立大学協会の第2常置委員会は「国立大学受験者については大学入試センター試験において原則として5教科7科目を課す」ことを提言した。これは、受験者に対して「幅広く基礎を学んでほしい」というメッセージである。これは私の長年に亘る主張そのものであり、全面的に支持したい。できることなら「大学設置基準」に加えたい位である。
 近い将来に上述の何れかの方式の資格試験を導入すべきであるが、当面実行可能な方法として、全ての大学入学希望者に、選抜試験ではなく(!)、資格試験として「大学入試センター試験において5教科7科目を課す」ことを提案したい。但し、その際、記憶力を測る試験に偏らないことが重要である。

アドミッションポリシー

 各大学は「教育目標」「教育理念」に相応しい資質を持つ者を選抜するために入試を行う。その際、「求める学生」を見出すためには
 ・アドミッションポリシーが明示されているか
 ・アドミッションポリシーが「教育目標」「教育理念」に合致しているか
 ・実際の選抜方法がアドミッションポリシーに適合しているか
等の条件が重要な意味を持つ。
 アドミッションポリシーは各大学(又は各学部、各学科)が自由に設定すべきものであることはいうまでもない。資格試験より高水準の「学力」を要求する、「意欲」に重点を置く、「体力」に重点を置く、・・・、「人間性」を重視する、「一芸」を評価する等様々な考え方があるだろう。数学や物理学等を専門とする学科では主として「学力」を重視して選抜することになるだろうが、臨床医学を専門とする分野においては「学力」だけで選抜すると、患者が迷惑するような医師が誕生しないとも限らない。
 各大学、学部、学科等はそれぞれの教育目標・理念に基づくアドミッションポリシーに従って入学者を選抜し、入学した学生に対して教育を施して世に送り出すことになる。
 「在学中の付加価値」を大きくするためには
 ・アドミッションポリシーの妥当性(アドミッションポリシーが教育目標・理念に合致しているか否か)
 ・アドミッションポリシーの実現性(期待通りの入学者が得られているか否か) 及び
 ・教育力
が重要な要素である。アドミッションポリシーが教育目標・理念に合致したものでなければならないことはいうまでもないが、ポリシーは妥当であっても実施した入試に問題があったり、期待する学生が受験してくれなかったりすれば、結果は期待通りにはならない。
 更に、大学進学率が低かった時代には「大学生は自分で勉強する」ものと自他共に認めていたが、これもいまや“神話”と化し、昨今は「大学生は勉強させる」ものとなった。従って、「在学中の付加価値」を大きくするためには大学の「教育力」が重要である。

体験入学・仮入学─アドミッションポリシー実現の有効な手段─

 各大学は自らの教育目標・理念に基づいて独自のアドミッションポリシーを設定し、その実現に向けて有効な手段を選ぶことになる。実際に
 ・資格試験より高水準の学力を要求する→筆記試験
 ・意欲が重要であると考える→面接・小論文
 ・適性が重要であると考える→面接・小論文
 ・技能が重要であると考える→実技試験
等様々な工夫が凝らされている。しかしながら、筆記試験もさることながら、短時間の面接や小論文によって得られる情報は極めて限られたものであり、アドミッションポリシー実現の手段としては有効とはいえない。最近、AO入試が普及しつつあるが、これとても十分に有効な方法とは思えない。
 各大学独自のアドミッションポリシー実現の手段としては、体験入学乃至は仮入学が有効であると考える。通常の講義を受講させる、サマースクール等の短期講座に参加させる等様々な形態があり得るが、入学希望者に自分の大学の授業を受講させて直接観察することによって得られる情報は、1回の筆記試験や面接・小論文等とは質・量共に比較にならない。この方法は「公平性の確保」と「手間暇がかかる」点に問題があると指摘されるが、アドミッションポリシー実現の手段としては極めて有効であると思う。「高校教育との接続」改善にも大きく寄与することは確実である。
[『大学と学生』第430号所載]