50年目のナツイアツ

地上の太陽

 「50年目のナツイアツ」:これは今年の府大戦のタイトルである。「ナツイアツ」は「暑い夏」か、はたまた「夏威圧」か。青春の熱気が「夏を威圧」するのかそれとも大阪の「夏に威圧」されるのか。この50年間、両校の選手は勝ったり負けたりしながら戦ってきた。しかし戦うべき真の相手は敵チームではなく、むしろ「夏の暑さ」だったかも知れない。してみると「50年目のナツイアツ」のタイトルはまことに本大会に相応しい。今年も両大学と暑い夏が三つ巴となって戦う府大戦の季節を迎えた。
 第50回目の大会は、台風一過の青空の下、大阪南港のアジア太平洋トレードセンターで行われたエール交換で開幕した。双方の応援団・選手団が対峙する中、紋付袴に高下駄を鳴らして登場したのは我が都立大学の鈴木聡子応援団長である。その凛々しい姿と堂々とした風格に、南学長を始め府大の面々は「完敗」を覚悟し、我々は4連勝を確信した。女性の応援団長は府大戦50年の歴史において今回が初めてであるが、実に素晴らしい。
   日の本は岩戸神楽の始めより女ならでは夜の明けぬ国
と言われているが、大阪に女性の知事あれば、我が方には女性の応援団長あり。その姿は「元始、女性は太陽であった」の言葉通り、頭上に照りつける夏の太陽を威圧するほどに輝いていた。

学長も走る浪速のナツイアツ

 翌日から熱戦が始まった。炎天下の陸上競技場で行われた開会式では、最後に各部から選手が参加して大学対抗リレーが行われた。昨年から始まった企画である。昨年は学長が両チームの最終ランナーだったが、今年は南学長のたっての希望で両学長が第一走者ということになった。しかも50周年の特別企画として学長を乗せた騎馬が最終走者ということになり2度出場しなければならない。とんでもないことになったが、最初の50m走は必死で走り、中学生の時に短距離の記録を作ったと自慢する南学長に半歩遅れてバトンを渡すことが出来た。レース中盤は、敵方の走者の一人が転倒すれば我が方の走者も転倒するなどの巧まざる「珍演出」もあり、抜きつ抜かれつであったが、最終走者である騎馬がバトンを受け取ったときには10m以上離されていたので、都立大のサラブレッド騎馬をもってしても残念ながら逆転はかなわなかった。

応援あれこれ

 府大戦の応援には繊細な気配りが必要である。例えば、野球は例年「総長が顔を見せると逆転される」と噂されており、単に大きな声で声援を送れば良いというものではない。しかし今年は硬式野球の応援に行ってみると、途端に打線が爆発して6対0とリードした。それで安心して他の競技の応援に移動したが、その後で3点返されて思わぬ苦戦になったというから、総長は「疫病神」ではなく「守護神」であることが証明され、4年目にしてやっと濡れ衣を晴らすことが出来た。
 敵にリードを許したまま一日目を終了し、二日目を迎えた。女子バスケットは前半に一人が故障し、後半にもう一人が故障するというアクシデントがあり、ギリギリの人数だったが、見事劇的な勝利をものにした。特に背番号4と背番号10の活躍が素晴らしく、感動的な勝利だった。男子バスケットは第3クォーター終了時点で10点差で、我が方の楽勝かと思われたが、南学長に「もうイタダキですね」と声を掛けたのがいけなかった。第4クォーターで追いつかれ、延長戦にもつれ込んでしまった。延長戦は抜きつ抜かれつの展開で手に汗を握ったが、時間切れ直前にフリースローを決められて万事休した。一点差の痛恨の惜敗だった。3年前のアイスホッケー戦でも同じようなことがあった。2対1とリードして試合終了の秒読みに入ったので小林学生部長と握手して喜んだら途端に同点にされ、PS戦で逆転負けをした。やはり応援には細心の注意が必要である。

氷上の熱戦

 アイスホッケーは試合が夜行われるので他の競技の選手達も大挙して応援に駆けつけ、氷上の選手達とスタンドの大応援団が一体となってアリーナはもの凄い盛り上がりを見せる。試合開始に先だって選手一人一人に花束が贈られるなど華やかな幕開けであるが、その直後に体力・気力の限りを尽くして文字通り激突する熾烈な戦いが始まる。その迫力ある試合と独特の雰囲気を体験した者は皆「アイホ」の魅力に取りつかれてしまう。
 今回は初めて「高師浜臨海スポーツセンター」のアリーナが会場となった。「高師浜」は、百人一首の
   音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ
などで知られる歌枕である。風雅な地で行われた試合であるが、我が方に倍する選手を擁する敵方に対して残念ながら選手層の薄さは如何ともし難く、5対0で完敗した。
   音に聞く高師の浜のアイホ戦勝てじや敵の数をこそ知れ
 アイスホッケーは、ここ数年敵方の得意種目であるが、我が方の選手達の健闘は激賞に値する。今年もアリーナのベンチには大先輩栗田行雄氏の姿があった。毎年欠かさずコーチに駆けつけて下さっている。心からの感謝を申し上げたい。因みに、「音に聞く」高師浜はすっかり臨海工業地帯に化けてしまい、歌枕の面影はなかった。

戦い済んで・・・

 2日間の熱戦の結果、残念ながら、第50回目の記念すべき大会を都立大の4連勝で飾ることが出来なかった。大阪の「夏に威圧」され、「大阪夏の陣は関東方の勝利」という歴史的事実に反する結果になってしまったが、勝ち負けはともかくとして府大戦のあの雰囲気が素晴らしい。全力で戦った選手諸君の健闘を讃えたい。特に鈴木団長率いる応援団の大奮闘に対して「特別賞」を贈りたい。応援団の応援に駆けつけて最後まで汗だくになって現役時代を凌ぐ大奮闘をしてくれた応援団OBの諸君にも心から御礼を申し上げたい。江戸紫の鉢巻を締めて学生諸君に負けじと声を嗄らして応援していた阿知波学生部長の姿も目に焼き付いている。
 今回残念だったのは「世紀の対戦」が実現しなかったことである。50周年の特別企画として、両学長が両校硬式庭球部のナンバーワンと組んで対戦するというカードが組まれていたが、未明に降った雷雨のためにコート整備に時間がかかり、企画は幻になってしまった。実現していれば府大戦意外史に新たなページを加えることが出来たであろうと思うと心残りである。

思い出尽きぬ府大戦

 私の府大戦参加は今回で連続12回になる。つまり、南大沢キャンパスに移転して以来毎年参加してきたことになるが、今回が最後である。いつも夢中で応援したが、特に総長としての4年間は力が入った。この間、出来るだけ多くの競技会場に顔を出して応援したが、特にアイスホッケーとハンドボールの応援合戦では若者に負けじと声を嗄らした。
 応援に加えて、自分自身も教職員のテニスやソフトボールなどの「競技」を楽しんだ。「動かざること山住の如し」といわれた不動のキャッチャー山住総長のソフトボール、鴇田学生部長と私で平沙学長と南学生部長に圧勝したテニス、その南先生がテニススクールに通って格段に腕を上げ返り討ちにあったこと、・・・、思い出は数え切れない。府大戦は学生諸君の青春であると同時に、私自身にとっても青春であった。私にとって最後の府大戦が終わった夜は興奮が冷めやらず眠れなかった。
 思い起こせばいろいろなことがあり、様々な人がいた。関空の入口「りんくうタウン」でエール交換が行われた年、もの凄い暑さの中で「白熱」と書かれた団扇が配られどっと汗が吹き出したこと、また葛西臨海公園で行われたエール交換では、冷たい海風に当たって腰を抜かした山住総長が女丈夫加藤秘書に抱えられて車にたどりついたこと、ヒキガエルをつぶしたような奇妙な声の小松応援団長、都立大のコバヤシマサオと府大のコバヤシマサコの応援対決、「田村亮子に勝てる」と豪語し向かう所敵無しだった柔道部の名物男武笠主将、・・・。忘れることが出来ない素晴らしい思い出の数々を残してくれた府大戦に感謝したい。

両校の固い絆をいつまでも

 東京と大阪はいうまでもなく日本の2大都市であるが、両者の関係の歴史をひもとくと真に因縁浅からぬものがある。古くから商都として栄えていた大阪と人家も稀だった武蔵野の寒村。両者の縁の始まりは豊臣秀吉と徳川家康の所謂「関東の連れション」の逸話として残っている。即ち、小田原城落城寸前に、大阪に本拠を置く秀吉が家康に対して「小田原が落城したら関八州を任せるから、江戸に居城を構えるがよかろう」と言ったことにより、江戸の繁栄が約束された。更に、明治維新の折、「新しい首都は大阪」と決めていた大久保利通に対して前島密が密かに「大阪は日本一の立地条件を持つ大都会であるが、江戸は幕府が無くなれば寂れてしまう。江戸を新しい首都にすべきである」と進言して受け入れられ、今日の東京が実現した。このように、東京と大阪という我が国の2大都市の浅からぬ縁は長い歴史を持っている。その2大都市に設置された両大学が、開学当初から交流を続け50周年を迎えたことは、歴史的に意義深いことであり真に喜ばしい。
 500km以上離れた場所に位置する2つの大学が50年間このような交流を続けてきたことは、他に例を見ないであろう。更に、これは七夕の時期の「3日間」の交流に留まっていない点が重要である。両校はこの交流を原点として、50年間様々な面で切磋琢磨し合ってきた。2年後には両大学とも統合・再編、法人化などにより新しい大学に生まれ変わることになっているが、この素晴らしい伝統を新しい大学に引き継ぎ、更に発展させて欲しいと願っている。
[『雲路─府大戦半世紀の軌跡─』所載]