古代に真実を求めて
─私と古代史と古田先生─

 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」は聖徳太子の事績である。倭の五王は大和朝廷の天皇である。白村江へ出兵したのは大和朝廷である。・・・。これらは長い間、歴史の教科書に揺るぎない「史実」として記述され、国民的常識として信じられてきました。しかし、古田武彦先生の『「邪馬台国」はなかった』をはじめとする日本古代史の論理的・科学的研究は、これらの「史実」の数々が実は砂上の楼閣に過ぎないことを次々と容赦なく解明して私達を驚かせました。
 私は子供の時から歴史に興味がありましたが、日本古代史に強い関心を抱いたのは、大学1年生の時に井上光貞先生の講義を聴いたときからでした。井上先生は講義の中で「倭の五王」を採り上げられて、「讃≒仁徳又は履中」「珍≒反正」「済≒允恭」「興≒安康」「武=雄略」であることを説明されました。しかし、そこで井上先生が挙げられた「=」又は「≒」の根拠理由の殆どは私には「≠」の根拠理由に思えました。例えば、
  「武の在位期間は462年から502年、雄略の在位期間は456年から479年」
は私には「武=雄略」の根拠ではなく「武≠雄略」の根拠に思えました。1959年のことでした。そのときのノートは今でも大切に持っています。しかし、それ以上深く疑ってみることはありませんでした。
 その後、数学の研究に没頭する期間が続き、古代史に特別な関わりを持つこともなく時間が過ぎていきました。そんなある日、先輩のT先生から「君は古代史に関心がある様だが、この本を読んだか?」といって、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を見せられました。直ぐに本屋へ飛んで行って手に入れ、一気に読んだことを昨日のことの様に思い出します。続いて出版された『失われた九州王朝』『盗まれた神話』などを読むたびに目から鱗が落ち続けました。
 私は学生時代に井上先生の「素晴らしい」講義を聴きながら、深く疑うことが出来ませんでしたが、もしあのとき私が深く疑っていたら、「古田武彦」はなかったかも知れません!
 それから暫くしてT先生が「今度古田武彦を囲む会に出ることになった」というので「私も連れて行って下さい」とお願いしましたが、「君の様な駆け出しは駄目だよ」と却下されました。私としては、次々と出版される古田先生の著書を黙々と読み続けることになりましたが、目から落ちた鱗の数は数えきれません。
 移ろう星をかがなべて、都立大学総長になり、長野県松本深志高等学校の先輩で東京外国語大学長だった中嶋嶺雄先生との出会いがありました。中嶋先輩は八王子にある大学セミナーハウスの理事長兼館長を務めていましたが、秋田に新設された国際教養大学の学長に就任することになったために、私が大学セミナーハウスの「留守番役」を仰せつかることになりました。
 古田先生が東北大学を卒業されて最初に深志高校で教鞭を執られたことは承知していましたが、中嶋先輩と雑談をしている中で、中嶋先輩が古田先生の教え子であり今でも親しくお付き合いがあることを知りました。早速先輩から古田先生にお話しして頂き、昨年11月に大学セミナーハウスにおいて「海のロマンと日本の古代」と題する1泊2日のセミナーを開催することが出来ました。予想以上に大勢の方に参加して頂くことが出来、また時間を大幅に延長して熱演された古田先生の情熱のお陰で、大成功でした。そのセミナーにはかのT先生も駆けつけて下さいました。古田先生とT先生は図らずも東北大学の同期生でした。今年も11月12、13の両日に古田セミナー第2弾として「万葉・古今が語る日本の古代」を開催致します。松本の皆様にも是非御参加頂きたいと思います。
 「百聞は一見に如かず」と言われますので、近年は機会を見つけては古代史の舞台を訪ねることにしています。太宰府の都督府古趾を訪れて、中国の天子から「都督」の称号を与えられた「倭の五王」がここに王朝を構え、国際的に日本列島を代表する政権として認知されていたことを実感し、血湧き肉躍る想いがしました。また、須久岡本遺跡や前原遺跡群、水城や神籠石、博多の鴻臚館跡、磐井の墓といわれる八女市の岩戸山古墳など古代史の遺跡を訪ね歩き、神武発進の地といわれる日向峠を越えてみて、九州こそが古代日本の中心地であるとの想いを強くしました。
 古田先生の研究成果が「古田説」や「古田史学」ではなく「史実」として学問的に認知され、歴史の教科書が「史実」で埋め尽くされる日が一日も早いことを願って已みません。

[『市民タイムス』2005年9月16日号所載]