古田武彦『邪馬一国の証明』の復刊に寄せて

 古田武彦先生がお亡くなりになって三年が過ぎた。この度、暫く途絶えていた古田武彦古代史コレクションの刊行が再開されることになり、喜ばしい限りである。
 本書は、角川文庫から一九八〇年に刊行された『邪馬一国の証明』の復刊であり、その内容は、一九七四年から一九八〇年の間に『歴史と人物』、『野性時代』、『文化評論』、『季刊邪馬台国』、読売新聞、毎日新聞等に掲載された論文を収録し、一部加筆修正したものである。

 三世紀、卑弥呼の時代に、日本列島を代表して国際交流の表舞台に立っていた国はどこにあり、何という名前だったかという素朴な疑問に関して、非常に長い「論争」の歴史がある。その国が、「『三国志』に「邪馬壹国」と書かれている国」であることには、異論を唱える人はいないであろう。従って、「『三国志』に「邪馬壹国」と書かれている国」が、三世紀に日本列島を代表して国際交流の表舞台に立っていたことは「史実」であると言って良いと思う。
 「わたしの学問研究の方法について」の中に、中小路駿逸氏の言葉として「『三国志』に邪馬壹国とあるのだから、そう書いたり、そう使う者には、何の説明も要らん。「邪馬台国」だと言う者が証明をしなければならない。それがどうも、逆になっていますな。古田さんに、邪馬壹国が正しいという証拠をあげろ、などというのは。」が紹介されている。一方、「『後漢書』に「邪馬䑓国」と書かれている国」があり、「『三国志』に「邪馬壹国」と書かれている国」と同一であると思われる。更に、「ヤマト」と結びつけたい「願望」があるために、話がややこしくなってしまった。そこに鋭く「論理のメス」を入れたのが古田先生である。
 更に、その国の位置については、いまだに諸説が存在するようであるが、古田先生による『三国志』の精確な解読の結果、「魏使が九州の北部において卑弥呼に面謁した」ことが、科学的、論理的に解明されている。従って、「『三国志』に「邪馬壹国」と書かれている国」の位置が九州北部であることは間違いない。『三国志』以外の資料や発掘の結果なども九州北部であることを補強している。新たな発掘が行われる度に「一喜一憂」があるようだが、現時点で知り得る情報の中に九州北部であることに矛盾するものは見つかっていない。
 『隋書』俀国伝によれば、「日出処の天子、書を日没処の天子に致す、恙無きや」の国書を送って隋の煬帝を怒らせた多利思北孤の国は「竹斯国」で、その都は「邪靡堆」である。古田先生は、三世紀の卑弥呼の国「邪馬壹国」から五世紀の倭の五王の国を経て七世紀の多利思北孤の国「竹斯国」まで、日本列島を代表して国際交流の表舞台に立っていた国、即ち「倭国」は筑紫にあったことを、十分な説得力を持って示している。現時点で知り得る情報の中に、このことに矛盾するものは見つかっていない。更に、古田先生は、『隋書』においては、「俀国」は九州王朝が統治する国(即ち「倭国」)を表わし、「倭国」は近畿天皇家が統治する国(即ち「日本国」)を表わしていることを論証している。

 古田先生は、東北大学を卒業して直ぐに長野県松本深志高等学校に国語の教員として就職された。この学校名は、屡々「長野県立松本深志高等学校」と書かれ、古田先生もその様にお書きになっていたようであるが、それは間違いで、正式名称には「立」は付かない。私は、この学校の第十一回の卒業生であるが、入学した時には残念ながら古田先生は既に転出された後だった。しかし、校長は岡田甫先生だった。岡田校長は「逆ボタル」という愛称で親しまれ、入学式、卒業式のみならず、毎学期の始業式には三十分を超える垂訓を常としていた。その中に、古田先生の学問と生涯の運命を決したと言われる一語「論理の赴くところに行こうではないか。たとえそれがいずこに到ろうとも。」が含まれていたことはよく覚えている。

 「論理の赴くところに行こうではないか。たとえそれがいずこに到ろうとも。」と並んで古田先生が大切にした言葉が「師の説にななづみそ」である。従って、我々は古田先生の本や論文を批判の目を持って読まなければならない。「古田先生の本に書いてあるから正しい」という判断をすれば、学問ではなく宗教になってしまう。

 学問には「科学」と「科学でない学問」とがある。科学は、元々は自然科学を意味していたと思われるが、昨今は人文科学、社会科学などと言われるように、広義化されている。科学は、共通の前提に立ち一定の手順を経れば誰でも同じ結論が得られる学問であるから、客観性が確保される。自然科学以外の学問分野においても、科学的な手法の必要性が認識されてきたということだろう。我が国の大学において、歴史学は文学部における一つの分野として存在し、「科学でない学問」と位置付けられてきたと思われるが、史実を確認する過程は可能な限り科学的であるべきだと思う。確認された史実に対する評価や意見が論者によって異なることは当然あり得ることであるが、評価や意見、ましてや願望が先にあって、それに合うように「史実」を作り上げることは、学問としては、断じて許されない。古田先生の偉大な業績は、一言で言えば、それまで我が国にはなかった科学的、論理的な古代史学の方法論を確立し、その手法を駆使して膨大な成果を積み上げたことである。

 古田先生の方法論は実に単純明快で、「論理的かつ客観的な手法に徹すること」である。論理こそが古田先生の学問研究の生命線である。論理を展開するには、議論の出発点つまり前提が正しいことを確認することが必要である。前提が正しくなければ、幾ら厳格な論理を展開しても、正しい結論は得られないからである。更に、論理には客観性が不可欠である。また、論理の飛躍も許されない。客観的で飛躍のない論理が展開されている限り、その内容は誰にでも理解出来るはずである。論理の飛躍があると指摘された場合には、その飛躍を埋めなければならない。「明らかである」や「理解出来ないはずがない」では説明にならない。

 本書の「私の学問研究の方法について」の中に、昔古田先生から国語を学んだ「教え子」の一人から「先生は古代史の本を書いておられるそうですけど、いいですねえ。大昔のことでしょ。何書いたって証拠なんて、どうせないんですもの。」といわれたという記述がある。この方が言われるように、大昔のことについて「一〇〇パーセント確実な証拠」を求めるのは至難の業である。しかし、これまでの古代史学においては、証拠の確認をしないまま「倭王武は雄略天皇である」、「日出処の天子は聖徳太子である」等の様に九十九パーセント間違いであることを「史実」としてきた(一〇〇パーセントといいたいところであるが、大昔のことだから、九十九パーセントとしておく)。人物Aと人物Bが同一であることを証明することは簡単ではないが、別人であることの証明は簡単である。人物Aと人物Bの属性を比較して、一致しないものが一つでもあれば両者は同一人物ではないと断定できる。生年月日が違う、出生地が違う、性別が違う、・・・、どれか一つあれば十分である。一般に、「○○が史実である」ことを主張するためには、その時点で知り得る情報の中に○○と矛盾するものが皆無であることが必要である。将来新たな資料の発見や新たな発掘により情報が増えれば、結論が変わる可能性があることはいうまでもない。更に言えば、科学としては、○○と矛盾するものが皆無であることが確認された時に、「現時点では、○○が史実である可能性が高いことが確認された」あるいは「現時点では、○○が史実であることを否定できない」等と言うべきである。

 古田先生の読者には、「古田武彦(の思想や歴史観)」に主として関心を持つ人と「古田武彦の方法論を用いた古代史学」に主として関心を持つ人がいると思われる。二種類に分類することには無理があるかも知れないが、主たる関心の違いにより生じていると思われる誤解や議論のすれ違いが見られるのは残念である。

 「わたしの学問研究の方法について」の最後に、「前代の、また同代の探求者に対し、烈しい言葉、厳しい批判の数々を積み重ねてきたこと、それを深くここに謝したい。ただ未来に学問の大道の開けんこと、それのみを願ったからである。私怨は一切ない。何とぞ寛恕されんことを。」と記されている。古田先生が開いた古代史学の大道が、どこまでも続くことを願って已まない。

 絶版になっていた古田先生の著書の多くが復刊され、真実の古代を知るための扉が開かれた。ミネルヴァ書房の英断に敬意を表すると共に、我が国の古代の姿を全ての日本国民が共有できる日が近付きつつあることを実感する。

   二〇一八年十二月五日

 


[『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房(2019年6月)所載]