審査基準の大幅緩和でどうなる日本の「大学の質」

 少子化が進行し、2007年度には大学・短期大学の収容力は100%に達すると予測されている。それにも拘わらず、我が国の大学数は最近の5年間に16%も増加した。
 新設大学は実に多種多様である。短期大学を4年制大学に改組したもの、専門学校を専門職大学院に衣替えしたものなどの他に、株式会社が設立する大学が登場した。
 学校教育法第2条において、大学の設置主体は、国、地方公共団体及び学校法人に限定されているが、構造改革特別区域においては、地方公共団体が、教育上又は研究上「特別なニーズ」があると認める場合には、株式会社に大学の設置を認めることになり、これまでに6校が設置されている。これらの株式会社立大学も、学校教育法上の大学として、大学設置基準など関連規定の適用を受けることになる。
 大学は、作ろうと思った人が自由に作れるわけではない。文部科学大臣の認可が必要である(学校教育法第4条)。ということは、現存する全ての大学は、設置に際して国による「お墨付き」をもらっているのである。
 国が「お墨付き」を与える際の判断の根拠は、学校教育法や設置基準などに定められている。学校教育法によれば、「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(第52条)と定められている。従って、現存する大学は全てこの条件を満たしているはずである。
 大学を卒業して「学士」号を取得した者は、「広い知識」や「深い専門」を身に付けて「知的、道徳的及び応用的能力」を展開できることが期待されるのであるが、現実は如何であろうか。法律の条文は抽象的な記述が多く、学校教育法も例外ではないが、「広い知識」も「深い専門」も身に付けているとは思えない「学士様」が氾濫していることは誰の目にも分かり易い。何故この様なことになったのか。主な理由は、(1)大学進学率の高さ、(2)大学の作り易さ、(3)卒業のし易さである。ここでは、「大学の作り易さ」に注目してみよう。
 規制改革の流れの中で、大学の質保証の仕組みについても、「事前規制から事後チェックへ」という考え方に立って、様々な「改革」が実施された。大学設置における「届出制」の導入と併せて、設置後の大学の組織運営や教育研究活動などの状況を定期的に評価する第三者評価制度の導入を行った学校教育法の改正は、この考え方に立つものである。
 従来は大学・学部・学科等を設置する場合には、全ての案件について厳格な審査に基づく「認可」が必要だったが、2004年度開設のものからは、学部・学科等の設置に当たって、授与する学位の種類に変更が無く且つ学問分野を大きく変更しない場合には、「認可」を要しないこととし、文部科学大臣に届け出ることで足りることになった。例えば、電気工学科と機械工学科を持つ工学部に建築学科を設置する場合は、「届出」で済むことになったのである。また、学際融合分野の学部等を設置する場合であっても、一定の条件を満たせば「届出」で設置を可能とする取り扱いをしているので、「届出」を何回か繰り返すことにより、単科大学を数年のうちに総合大学に発展させることも夢ではなくなったのである。
 さらには、審査期間が大幅に短縮された。大学新設の場合には、かつては20ケ月かけて審査していたが、1994年に15ケ月に短縮され、1999年には8ケ月になり、2003年以降は7ケ月で済むことになっている。2003年度から大学の設置主体に株式会社を認める特例措置が導入されたが、初年度はわずか3ケ月で「認可」するという「神風審査」が実施された。審査に時間をかければいいというものではないが、昨今の「多様」な申請の中には、短時間では教育の質の確保に関する審査が十分に出来ない事例も見られる。
 大学の設置認可制度は、世界に通用する「大学の質」を保証し、学生の利益を守ることが目的であるが、審査基準が大幅に緩和された結果、「教員の資格審査」以外は実質的には機能しないような状況になっている。
「大学の質」の保証に関する「事前規制」として機能してきた設置認可制度を大幅に緩和することの「代替措置」として、2004年度から第三者評価制度が導入された。全ての大学が、7年以内毎に、文部科学大臣から認証を受けた評価機関による評価を受けなければならないとする制度(認証評価制度)である。
 しかしながら、この制度では、評価機関は大学の主体的な改善を促す役割を期待されているのであり、学校教育法や大学設置基準への不適合状態を是正させる権限はない。この点、設置認可制度とは基本的に性格を異にしており、両者は代替的な関係にはない。法令違反状態にある大学に対しては、大臣は段階的に措置を講じることが出来るが、その間に入学し、在学した学生達が蒙った不利益を補償することは難しい。
 「質の悪い大学を選んだとしても、自己責任である」との主張があるが、学生の立場を忘れた暴論といわざるを得ない。「性能の悪いパソコンを買ったのは自己責任である」という話とは全く別である。一般の受験生にとって、大学における教育サービスの質の良し悪しを入学前に評価することは難しく、かけがえのない青春の時間を空費させ、経済的な損失を与えることになりかねない。「市場原理の下で、消費者の自由な選択と自己責任に委ねる」という考え方をそのまま教育に適用することは許されない。大学の国際的な通用性が重要度を増す中にあって、我が国の大学が信用を失墜するようなことになっては、一大事である。

[『時局』2006年9月号掲載]