小平の評価楽しく喜の字まで

 本日は御多忙中にも拘わらず、お越し頂き、誠に有り難うございました。私の喜寿を祝う会ということですが、正確にはその前夜祭ということになります。学校教育法等で義務付けられていないにも拘わらず、私の年齢が公表されたことは誠に残念です。いつまでも60代のような顔をしていたかったのですが・・・・・。
 昨年の7月に駿河守殿から「大学評価・学位授与機構の事務職員等で集まりたい」旨の御連絡を頂きました。認証評価発足当初に一緒に仕事に取り組んだ数名の皆さんとは今でも毎年お会いして、当時の苦労話に花を咲かせています。それと同様に、駿河守殿御在職時に一緒に評価の仕事をした数名の皆さん、つまり「戦友」達にお会いできるのは大変有難いので、二つ返事で「お願いします」と返信しました。暫くして頂いたメールには「会場は学士会館」、「お館様が発起人」などと書かれていて、非常に面食らいました。更に、昨年の暮れには、神様から「楽しみにしている」と言われ、びっくり仰天しました。川嶋先生からも「楽しみにしている」と言われ、駿河守殿御乱心かと不安になりました。川嶋先生には、わざわざ大阪からお越し頂き、恐縮の極みです。2008年に、川嶋先生に引率されて、韓国の入試事情の調査、台湾の入試事情と檳榔文化の調査に出かけたことが懐かしく思い出されます。
 私は、2003年度から大学評価・学位授与機構にお世話になりましたが、実はその前に、大学審議会における大学機関別認証評価制度導入の議論及びそれを受けて行われた大学評価機関(仮称)創設準備委員会における議論に参加していました。しかし、その議論をしている時には、将来自分がそこで働くことになることは夢想だにしていませんでした。
 2002年度が終わりに近付き、東京都立大学総長の任期満了後何をしようかと迷っていた時に、大学評価・学位授与機構の教員募集の記事が目に留まりました。文部省の会議で御一緒した折に機構長の木村先生に「私が応募しても良いでしょうか」とお尋ねしたところ「本気か」と言われ、「本気です」とお答えしました。暫くして、神様が東京都立大学の総長室にお越し下さいましたが、これが「面接試験」でした。神様が面接試験のために出張して下さったことは、何とも畏れ多い限りです。無事面接試験に合格して、2003年4月から大学評価・学位授与機構の一員に加えて頂くことになり、小平に新築された建物の6階に研究室を頂きました。部屋の南面が全面ガラスで、冬の晴れた日には暖房無しでも30度を超えていました。研究室から見ていた武蔵野の風景が、目に焼き付いています。その昔幕府の「公務員試験」に首席で合格した太田蜀山人が見回りをしたと言われる玉川上水が眼下を流れ、春には桜がきれいでした。
 その頃小平では、機関別認証評価の実施設計と並行して試行評価が行われていました。7階では神様御臨席の下で、毎週認証評価の実施設計に関する神前会議が開かれ、袖山さんが用意して下さった案を元に激論が闘わされていました。取り纏め役の瞬間湯沸器教授が時々「爆発」していたのも懐かしい思い出です。2015年度に茨城大学に訪問調査に行った時に、理事の袖山さんにお会いして、2003年当時の小平の7階の様子が懐かしく蘇りました。試行評価の訪問調査にも参加し、東京大学、大阪大学、群馬大学、福岡県立大学、久留米高専などを訪れました。
 2005年度には大学評価・学位授与機構が認証評価機関に認定されました。機関別認証評価を実施するにあたり、そのための説明会が東京、大阪、福岡などで何回か開催されました。説明役は勿論神様です。当時、大学評価・学位授与機構が実施する機関別認証評価について説明できる人は、神様以外にはいませんでした。それは神様をもってしても相当な「難物」であったと見えて、説明の中で「例えば」という言葉を1時間に200回も使っていました。神様は「例えば」といいながら、次に話す内容を整理していたそうですから、神様の「例えば」は「For example」ではなく「え〜と」に近いと思います。事務方は、議事録を作成する際に「例えば」を一括削除していたようです。説明のあとの質疑応答も壮観でした。日本中誰も経験のないことを始めるわけですから、「そもそも」から始まって、質問が百出しました。私などにはどう答えれば良いか分からない難問が続出しましたが、神様はどんな質問にも「立て板に水」のように回答していました。回答はかなり長いのですが、意味がよく分からないことが屡々でした。神様に「今のは回答になっていないのではありませんか」といったら、「自分だってどう答えて良いか分からないけれど、そういう時は、困った顔をしたり考え込んだりしてはいけない。自信を持って喋り続けることが大事だ。」といわれました。その勢いに押されてか、質問者が重ねて質問することは殆どありませんでしたが、帰宅してから質問に答えて貰えなかったことに気付いたとしても後の祭りです。まさに「神業」でした。
 2005年度から実際に評価が始まり、その実務を担当するように神命が下されました。神様がお作りになった枠組みの中で評価を実施するのですが、実務の詳細を決めなければなりません。しかし、どこにも先行例がないので、試行評価の手法を参考にしながら、手探りで試行錯誤を繰り返しました。ピロリン、軍曹、マドンナ、若旦那、坊主など、その当時の「戦友」達が何人かお見えになっていますが、一緒に力を合わせて新しいものを作り上げた醍醐味は何時までも忘れることはありません。
 2005年度には4大学+2短期大学を評価しましたが、年度ごとに評価する大学の数が大きく異なり、2007年度の38大学+2短期大学が最大でした。その年度には、私と旧館長とが20校ずつ訪問調査を担当しました。1か月に9校訪問するのが理論上可能な最大値ですが、2009年10月には、実際9校に訪問調査に行きました。新幹線や飛行機に乗ったら直ぐに訪問調査ファイルを拡げて作業をするのが当たり前でした。9校目の佐賀大学で、指先と口の回りにしびれを感じ、同行していた京都大学医学部教授の指示で、附属病院で検査を受け、最上階の一番奥の病室に「強制入院」させられました。診断は「一過性脳虚血発作」でした。その後全く自覚症状がないので退院して仕事に復帰しようと思いましたが、神様から「復帰することを認めない」との厳命が下り、熱気球大会が望めるベッドの上で超速宅急便と電話を使って仕事をして、出来るだけ御迷惑をおかけしないように努めました。1週間で退院しましたが、その後も「自宅謹慎」が解けず、4大学の訪問調査に行けず御迷惑をおかけしました。
 私は4階の課長席の隣に机を置いて、主担当職員との打ち合わせをしました。事務職員は1人で2〜3大学を主担当するので、打ち合わせをする時に名前を呼んでも、どの大学の打ち合わせをするのか分かりません。そこで「弘前君」、「岐阜君」、「鹿児島君」などと大学名で呼ぶことにしていました。
 1巡目は試行錯誤の連続でした。116あった評価の観点を99に整理したり、2泊3日だった訪問調査日程を2泊2日に変更したりしました。自己評価書の分析は、当初は、全員が分析して主査がまとめる方式でしたが、主査達から非常に評判が悪く、主査案に対して評価員が意見を述べる現在の方式に改めました。
 評価の質や信頼性は、評価員の顔触れで決まると考えましたので、お願いする評価員の人選には一番気を遣いました。評価を受けた大学から「あんな評価員につべこべ言われる筋合いはない」と思われるのは最悪ですから、「あの評価員達による評価なら、素直に改善に活かそう」と思ってもらえるような先生方に評価員、特に、部会長や主査をお願いするように努めたつもりです。かつての同業者や文部省関係の会議で御一緒した先生方に次々と電話して主査をお願いしました。主査をお願いしてお引き受け頂けなかった先生は1人だけでした。他の評価機関の関係者から「優秀な評価員候補者を殆ど大学評価・学位授与機構に押さえられてしまった」と言われたことがありました。
 大学評価・学位授与機構の専任教員は、主査を補佐する「裏方」に徹し、自ら主査を務めることはしないという不文律がありました。それにも拘わらず、小樽商科大学と大阪大学については、私が主査を務めました。主査をお願いした後で「不測の事態」が発生し、代わりの方にお願いすることが難しかったからです。それとは別に、専任教員、つまり「当局」が「実質的に」主査を務めることは、屡々あるようですが・・・。
 短期大学の機関別認証評価は、「事業仕分け」の煽りを食って、2010年度を最後に事業終了となりました。上條公立短期大学協会会長の「我々は評価機関を失った」という言葉が忘れられません。
 2巡目は、2012年度に概ね先生閣下の陣頭指揮で始まり、概ね先生の定年退職後はお館様の陣頭指揮で今日に至っています。最近ではマニュアルがしっかりと出来上がり、評価の安定性が高まっていると思います。その分、評価員の個性や見識が発揮できる余地が少なくなっているのではないかと感じます。最近の質の高い安定した評価を見るにつけ、1巡目はいい加減だったなぁと、汗顔の至りです。
 評価の仕事に携わって、私が一番気になったことは、評価が「画一性」を助長していないかということでした。大学評価・学位授与機構の機関別認証評価では、「各大学の個性の伸長に資する」ことを基本方針に掲げており、「優れた点」や「特色ある取組」などを積極的に取り上げてきましたが、評価がどの程度「各大学の個性」の伸長に資しているかについては疑問を感じます。その意味では、「横並びの評価」は極力避けるべきではないかと思います。
 我が国には、大学機関別認証評価を実施する機関が、現在は3つあり、間もなく4つになるようですが、大学評価・学位授与機構と他機関との最大の違いは、専任教員、つまり「当局」の存在であると思います。これが評価の「質」に決定的な差をもたらしていると確信します。
 大学評価・学位授与機構の大学機関別認証評価は、元々国立大学を主たる対象に設計されていたこともあり、当然の如く大部分の国立大学が受審しました。公立大学は、私が公立大学協会前会長であったことから、「営業活動」がし易く、半数程度が受審してくれました。他機関の会員であった大学も、かなりの数が「乗り換え」をしてくれました。しかし、私立大学に関しては、「営業活動」が殆ど功を奏しませんでした。「どうせ、あんたの所は国立しか相手にせんのやろう」などといわれて、取り付く島がありませんでした。第4の認証評価機関が誕生すれば、国立大学を対象とする評価機関、公立大学を対象とする評価機関、私立大学を対象とする評価機関と棲み分けられることになるのでしょうか。
 大学評価・学位授与機構は、私が就職した2003年度までは、国立学校設置法によって設置された国の機関でしたが、2004年度から独立行政法人に移行しました。私は、独立行政法人評価委員会の委員をしていたために、「評価対象機関から給与を得ている」として、新聞に大きく取り上げられましたが、「所属機関の評価には関わらない」ことを明確にすることで、一件落着となりました。
 私は、国立大学法人評価委員会の委員もしていましたが、国立大学法人評価の際には「鬼のような」顔で臨み、認証評価の際は「仏のような」顔で臨みました。認証評価は、大学と評価機関との信頼関係に基づく大学改善のための共同作業であることを肝に銘じてきたつもりです。初期には、「自分が評価員になったからには、どんな小さな欠陥も見逃さないぞ」とばかりに「張り切る」委員も希にはいましたが、やがて機関別認証評価の趣旨がよく理解されるようになったと思います。大学側も初めの頃は緊張していて、説明のために立ち上がった学部長が「凍り付いて」しまったこともありました。
 認証評価は、大学の自己評価に基づく評価ですが、提出された自己評価書が必ずしも「よく書けている」とは限らず、苦労することも屡々でした。「優れた点」を積極的に取り上げるように努めましたが、訪問調査に行って「発見」される優れた取組も少なくなく、「こんな良いことをしているのに、何故自己評価書に書かなかったのですか?」と「詰問」することもありました。
 訪問調査では、大部の資料や門外不出の資料などの確認をします。新見公立短期大学を訪問した時に、分厚い資料が目に留まりました。教授会の詳細な議事録でした。開いてみると、学長と教授達とのケンカの様子の逐語録で、読み始めたら止められなくなってしまいました。
 某国立大学では、学長が「成績不振の学生が溜まるのは困るので、適当に卒業させている」という趣旨の発言をしたのに対して、主査が厳しく咎めていました。その時は、主査と私は、訪問調査終了後、大急ぎで園遊会に駆けつけました。
 面談の際に、ドサクサに紛れて、自分の編纂した辞典の宣伝をした「問題な」主査もいました。その先生は、施設見学の際には、図書館で真っ先に辞典のコーナーを確認していました。
 訪問調査で、一番「楽しい」のは、学生・卒業生面談でした。初期には、大学側が気にして、事前訓練をしたり、終ると直ぐに学生達に何を聞かれたか確認したりしていたようですが、やがて、その様なこともなくなり、学生達から「本音」が聞けるようになりました。学生・卒業生達が校歌を合唱した大学もありました。しかし、2007年度の京都大学の学生・卒業生面談に、評価員の誰よりも年長の大昔の卒業生がいたのには面食らいました。
 私が機関別認証評価の訪問調査で訪れた大学の数は100校を超えました。その他に、初期には、かなりの数の大学に事前説明や「営業活動」のために出かけました。神様は、全ての国立大学を訪問されたそうですから、神様には及びませんが、大学設置審議会など文部省関係の仕事で訪問した大学や、公立大学協会の仕事で訪問した大学なども併せると、300校近いと思います。お陰様で随分見聞が広まり、勉強になりました。さらに、認証評価の訪問調査のお陰で、宿泊したことがない都道府県がなくなりました。福井県にだけ宿泊したことがなかったのですが、2015年度に福井大学を訪問することが出来ました。駿河守殿のさりげない配慮に感謝しています。
 文中に数多く登場する「神様」というのは言うまでもなく、「評価の神様」の意味です。大学機関別認証評価のみならず、専門職大学院の評価から専門学校の評価に至るまで、我が国の高等教育機関の評価は、全て神様が創造された基本的枠組みの中で動いています。私などは、今日までずっと神様の掌の上で動いていたに過ぎません。我が国に評価文化の種を播き、発展させ、定着させた神様の偉大さに、改めて敬意を表したいと思います。
 大学評価・学位授与機構には、一時期、もう一柱の「神様」が存在しました。「貧乏神」です。4階に行って事務職員に「今日神様はお出ましですか?」と聞いたら「どっちの神様ですか?」と聞き返されたことがありました。その当時、「神様」は2階に、「貧乏神」は6階に神殿を構えていました。
 2011年3月11日の東日本大震災の地震は、小平6階の私の研究室で、概ね先生と打ち合わせをしている最中に発生しました。余りの揺れの大きさに、机の下に潜ることも忘れて呆然としていたことを思い出します。その概ね先生は、白い前髪が黄色くなるほどのheavy smokerで、長時間に及ぶ会議では、「危険」を避けるために、必ず「煙草休憩」を設けていました。多くの大学が全面禁煙になったために、訪問調査時に「涙ぐましい努力」をしていたことが懐かしく思い出されます。
 初対面の人から「専門は何ですか?」と聞かれることがありますが、「元数学者です。現在は評価の実務家です。」と答えることにしていました。私は、認証評価の実務家教員であり、指導教員は勿論神様です。しかし、ある主査から「法学部の出身ですか?」と聞かれたこともありました。
 仕事と関係ない私の自慢は、アメリカ合衆国西半分の全ての国立公園と殆ど全ての国定公園を「踏破」したことです。同じ所に何回も行きましたが、特に、Grand Canyonには12回行きました。これからも行くつもりです。同封の名刺の表面はMonument Valley、裏面はBryce Canyonですが、どちらも8回訪れました。勿論車で走り回るのですが、ここ数年は、日本での走行距離よりアメリカでの走行距離の方が遥かに長い状態が続いています。大昔Michigan州立大学に滞在した時に運転を始めたので、アメリカでの運転は全く苦になりません。というより、今でも日本よりアメリカの方が走りやすいと感じます。
 私は、東京工業大学、東京都立大学、Michigan州立大学、Hawaii大学、大学評価・学位授与機構、大妻女子大学などに勤務しましたが、私にとって大学評価・学位授与機構が最も快適な職場でした。私が快適に仕事が出来たのは、素晴らしい上司と同僚に恵まれ、職場の環境が良かったからに他なりませんが、私が快適であった分、周囲に迷惑をかけていたと自覚しています。耐え難きを耐えつつ、いつも笑顔で一緒に仕事をして下さった皆さんに、改めて厚く御礼申し上げます。
 私が今日まで評価の仕事をしてこられたのは、私を採用して下さった木村機構長と、私を育てて下さった神様のお陰です。お二人には幾ら感謝してもし過ぎることはありません。
 あと1年で2巡目が終り、3巡目に向けた準備も着々と進展していると思います。大学改革支援・学位授与機構の実施する評価が、我が国の大学の質保証にとって、更に大きな存在に発展することをお祈り申し上げます。
 懐かしい方々にお会いでき、感謝、感激、感動の一夕でした。有り難うございました。

 小平の評価楽しく喜の字まで

 小平の仲間懐かしいつまでも

 評価に生きて夢は枯野を駆け巡る
   
[2018年2月10日 喜寿前夜 学士会館にて]