「球」をめぐって

「球」という単語は誰でも知っていると思いますが、「球とは何ですか」と聞かれると大抵の人は暫く考えてから「まん丸いもの・・・」「一点から一定の距離にある点の集合」等と答えるようです。サッカーボール、パチンコの玉、地球等「球」と考えられているものの例は身近にたくさんありますが、改めて「球とは何ですか」と聞かれると暫し返答に窮することになります。「球」は誰でも使う“日常用語”であると同時に“数学用語”でもあります。日常用語は時によって又は使う人によって意味が違ったりすることはごく当たり前のことですが、数学用語は些かの曖昧さもないように定義が明確に決められています。
 数学用語としての「球」は、小学校の教科書において「どこから見ても丸く見えるもの」と定義されています。笑ってはいけません、これはレッキとした「定義」です。「どこから見ても丸く見えるもの」というと何とも曖昧に聞こえますが「どこから見ても」「丸く見える」等の意味を明確に定めることによってきちんとした数学用語としての「球」の定義になります。
 高校生に「球とは何ですか」と聞けば例外なく「一点から一定の距離にある点の集合」と答えるでしょう。では、「どこから見ても丸く見えるもの」と「一点から一定の距離にある点の集合」とは同じものでしょうか。殆どの人が“直感的には”「同じものである」と思うでしょうが、改めて「本当に同じですか」「何故ですか」と聞かれると返答に窮することになるでしょう。直感的に「正しい」と思えても実は正しくないことがたくさんあります。
 床の上にいくつかの同じ大きさの球を並べてその上に板を乗せれば板は前後左右に自由自在に動かせます。これを利用して重い物を移動することができます。これは球が「平行な2枚の板で挟んだときの間隔が一定である」という性質をもっているからです。では、「このような性質をもつものは球である」といえるでしょうか。「当たり前だ」と思われるかも知れませんが、答えは「否」です。ここに図が描けないのが残念ですが、このような性質をもつものは球の他にいくらでもあり、「定幅曲面」と呼ばれています。
 話を分かり易くするために曲線で同じことを考えてみましょう。平面上の曲線の中で「円」は「平行線で挟んだときの間隔が一定である」という性質をもっていますが、円以外にこの性質をもつ曲線はいくらでもあります。このような性質をもった曲線を「定幅曲線」といいます。定幅曲線の中で「囲む面積が最大」のものが円です。「囲む面積が最小」のものはルーロー3角形といわれるもので、ロータリーエンジンのローターの形です。大抵の自動販売機は硬貨を幅で区別していますから、コインは丸くなくても「定幅曲線」の形をしていれば良い筈です。ということになると、丸いコインを同じ幅のルーロー3角形の形に“改鋳”すれば枚数が増えますからたくさんジュースが飲めることになります。読者がそれを実行しても結果については責任を負いません。責任をもっていえることは、「丸いコインは資源の浪費である」ということです。日本のコインは全て円形ですが外国には円でない定幅曲線の形をしたコインが実在します。「資源節約のためならばコインに穴をあける方が効果的ではないか」といわれると“穴があったら入りたい”仕儀となりますが・・・。
 話を曲面に戻せば、「体積が同じならば球が表面積最小である」という性質があります。そのために水玉やシャボン玉が丸くなるのです。氷を長持ちさせるには球形にするのが良いのです。動物達はこの性質を知っていて、冬眠するときは丸くなっていますが、このことを知らない“酔っぱらい”は往来に大の字になって寝ていて凍死したりするのです。植物もこの性質を知っていて環境に適した形状をもっています。この性質は、「表面積が同じなら球が体積最大である」といっても同じことです。同じ面積の革を使ってできるだけ収容能力の大きい鞄を作ろうと思ったら球形にするのが良いのです。
 「浮世根問」という落語に「どんどんどんどん西へ行けばどうなるか」という質問をして御隠居さんを困らせる話があります。これとは少し違いますが、地球上を“真っ直ぐに進む”ことを考えてみましょう。“真っ直ぐに進む”ことは“最短経路を進む”ことと同じだと思って下さい。球面上では“真っ直ぐに”どんどんどんどん進めばやがて必ず元に戻って来ます。しかも元に戻るまでの距離は全て同じです。このような性質をもつ曲面は球面だけでしょうか。これも答えは「否」です。ここに図が描けないのが残念ですが、球面以外にいくらでもあり、「ゾル曲面」と呼ばれています。
[大修館書店発行『言語』1996年7月号掲載]