「コピー&ペースト」今昔

 昨今は、コピー&ペーストが蔓延している。パソコンの基本的な機能の1つである「コピー&ペースト」は実に便利であり、私自身も日常的に利用しているが、「諸刃の剣」であり、何かと話題になることが多い。「学生にレポートを課すと、インターネットを駆使して集めた情報をコピー&ペーストしてくる」、「それならまだ良い方で、中には友達のレポートをコピーしてくる者もいる」などは日常茶飯事であるが、「ノーベル賞級かと言われた論文で、他の論文からのコピー&ペーストが行われていた」と世間を騒がせたことも記憶に新しい。
 人間が知的活動をする際には、幾つかの基本的な能力が必要である。何処にどの様な情報があるかを「検索」し、取捨選択して必要なものを収集し活用する能力、情報を「記憶」(または記録)しておき必要な時に必要なものを取り出して活用する能力、必要な情報を駆使して「思考」を重ねることにより新たな知見を創出する能力などである。昔は、「検索」は目、耳及び手と足で行い、「記憶」(または記録)は脳細胞または紙が担当したものである。コンピューターが登場してからは、「検索」と「記憶」はコンピューターが得意とする能力となったが、「思考」は依然として人間固有の能力である。
 私はこれまでに、情報関係の大きな節目を3回経験している。1つ目は、コピー機の出現である。私が学生の頃は、コピー機が発明されたばかりで、パソコンやインターネットなどは存在しなかった。湿式コピーで、現在の感覚からすれば、とても「読める」といえる水準ではなかったが、文献の複写は手で書き写すしか方法がなかった当時にあっては、画期的な新兵器の登場であった。程なく、乾式で「読める」水準のコピー機が登場し、コピー文化が急速に普及した。先輩達からは「君達は楽が出来ていいなぁ。我々は必要な文献は手で書き写したものだよ」といわれた。先輩達は、必要な文献は、図書館等で読むことにより理解して記憶に留めてしまうか、その場で理解することが難しいものは手で書き写して、後で読み返したという。手で書き写せば、当然のことながら、読みながら、考えながら、ということになるだろう。コピー機が出現してからは、必要と思われる文献や面白そうな資料があれば、取り敢えずコピーしておいて、「後で読もう」ということになった。私自身に関しては、「後で読もう」と思ってコピーした論文や資料の中で、実際に「読んだ」ものの比率は決して高くないことを白状する。しかし、これは私だけのことではなく、コピー機の出現により、誰しもが、興味のありそうなものは取り敢えずコピーして手元におく、という行動をとる様になった。私の研究室もコピーした文献のファイルがどんどん増えていった。結果として、紙の消費量が激増したことはいうまでもない。
 2つ目の節目は、パソコンの登場である。それまで手書きかタイプライターを用いて行われていた文書作成が、ワード・プロセッサーの出現により一変した。今日では当たり前と思われている日本語入力機能による仮名から漢字への変換に加えて、「コピー&ペースト」や「カット&ペースト」などの編集機能により、文章作成作業は劇的に変化した。この変化は、漢字は「読めるが書けない」という副作用をもたらした。
 3つ目の節目は、インターネットの普及である。居ながらにして世界中にある情報を検索し、必要なものを簡単に入手することが出来、それらを自由自在にコピー&ペーストすることにより、「立派な」レポートや論文を作成することが出来る。昔は、図書館などに足を運ばなければ得られなかった情報が、現在はパソコンの前に座っていて簡単に入手出来る。図書館などで得られる情報が全てインターネットで手に入るとはいえないかも知れないが、インターネット経由で得られる情報の量は膨大である。しかも、インターネット経由で得られる情報をコピー&ペーストして活用する方が、図書館に足を運んで書物等から情報を引用するより遥かに簡単である。しかし、コピー&ペーストが簡単にできることの副作用は、「思考」の大半が省略されてしまうことではないだろうか。
 人間が「考える葦」から「コピーする葦」に変化しないことを願うのみである。
[総合情報センター年報 2013年度版所載]