メディア今昔

 日常的なコミュニケー ションに詩歌を使っていたという古の日本の文化洗練度は驚嘆に値するのではないだろうか。その昔の若者達は、今ならば携帯電話やe-mailで伝えるであろう「心の内」を、和歌という実に優雅なメディアに託して伝え合っていた。『万葉集』にある額田王の
     茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る
と、それに対する大海人皇子の返歌
     紫の匂へる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも
などはその典型である。このような感情の微妙な陰影を伝えるには、滔々たる長広舌よりも三十一文字の定型詩で表わす方が遙かに効果的である。言葉を最小限 に削ることによって、言外に豊かな情感を膨らませることができ、言葉にならない漠然とした雰囲気までも押し包んで相手に伝えることができる。メディアとしての和歌の優れた点はまさにそこにある。
 和歌より更に短く、わずか十七文字で構成される俳句は、世界で最も短い定型詩であろう。
     閑かさや岩にしみ入蝉の声
が伝えてくれる山寺の情景は、どんな絵や写真にも優る。
 和歌や俳句などは人々の感情や感動を他の人々に伝えつつ、日本の豊饒な文学世界を形作り、文化の中心を担ってきたのである。私達は四季折々の風情に「もののあはれ」を感じるとき、和歌や俳句というメディアによって伝えられ形成されてきた文化の中で生きているのだということを実感せずにはいられない。
 古人達は、この様に優れたコンテンツをどの様に記録し、他者に伝達していたのだろうか。『万葉集』の時代の若者達は、和歌を筆と墨を用いて紙に記して密かに相手に届けていたのであろう。筆、硯、墨が記録用具であり、紙が記録媒体であった。中国では、筆、硯、墨、紙は「文房四宝」といわれた。中世になると、遠方まで情報を伝達する手段として飛脚が登場した。明治以降は、万年筆やインクなどが文房具の主流になった。明治・大正・昭和の「文房四宝」は、万年筆、インク、紙であろう。現在はパソコン、タブレット端末、スマートフォンなどが必需品になり、「文房具」という言葉はあまり使われなくなった。強いていえば、現代の「文房四宝」はパソコンとUSBまたはクラウドなどの電子媒体ということか。記録用具は筆、硯、墨から万年筆、インクやボールペンを経て、パソコン、タブレット端末、スマートフォンへと「進化」してきたが、筆、硯、墨や万年筆、インクは依然として現役である。記録媒体は紙の時代が長く続き、現在は紙と電子媒体が併存している。伝達手段は手渡しから飛脚、郵便と進化し、現在は郵便とe-mailが併用されている。私自身はといえば、かなり以前から発信は専らe-mailを用いている。年賀状以外に手紙を出すことは希である。要するに筆無精である。友人達には「手紙をくれても返事は書かないから、悪しからず。e-mailでお願いします。」とお断りしている。
 しかし、このことは「重大な問題」を含んでいる。もし全ての人が、物心がついて以来、専らパソコン、タブレット端末、スマートフォンなどを記録用具とし、e-mailを伝達手段として成長すれば、やがて字を書くことが出来る人がいなくなる。計算についても同じ事がいえる。世の中に、字を書くことが出来る人や、計算の仕方が分かる人がいなくなれば、パソコンやソフトを作ることが出来なくなってしまう。
 パソコン、タブレット端末、スマートフォンなどは純然たる用具であるのに対して、筆、硯、墨や万年筆などは「芸術的価値」とでもいうべき要素を併せ持っている。実用性より「芸術性」の方が重視されることが珍しくない。そのために、高級品、名品、珍品、骨董品などが存在する。世の中には、筆、硯、墨、万年筆などの愛好家、蒐集家が多いらしいが、我が国を代表する万年筆の蒐集家が本学にいらっしゃることはあまり知られていないのではないだろうか。何と!6000本以上蒐集し、所蔵していらっしゃる由である。その中には、夏目漱石が愛用したオノトなどという珍品も含まれているらしい。6000本を所蔵する「博物館」が練馬辺にあるらしいのだが、公開されていないので訪ねることが出来ない。6000本の中の何本かは拝んだことがあるが、「博物館」が公開される日が待ち遠しい。
[総合情報センター年報 2014年度版所載]