夏の月御油より出て赤坂や

忘月忘日 赤坂宿に「大橋屋」という「松尾芭蕉が泊まった」といわれる古い旅籠があるから行ってみようと思いたった。ついでに五十三次の幾つかを訪ねてみようと思う。最初の目標を「鞠子宿」に設定して出発した。ナビゲーターは「横浜」から東名高速に入るように指示しているが逆らって「厚木」に向かうことにした。少し間違えたが国道129号線に入ることが出来た。素晴らしい晴天で車内は暑い位である。東名で静岡まで行き、国道1号線に入って「鞠子宿」、現在の静岡市丸子、に向かって走って行くと「丁子屋」の看板が目に付いた。以前一度来たことがあったがその時の記憶と違うし、大変な人だかりである。駐車場に入ってみたが満車でどうにもならない。12時40分だったので「先に宇津谷に行こう」と思って再び国道1号線に戻ったら、大渋滞である。大規模な道路工事をやっているのと新しい建物が増えているのとで以前来た時の面影は殆どなくなっている。昔、在原業平が
   駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
と詠んで通った宇津谷峠の登り口が道路工事で何処だか分からない。新道がトンネルに入る手前で旧道が分岐しているのを見て「あの道を行けば宇津谷の集落に行ける筈」と直感したが、Uターンが難しかったのでトンネルを抜けて向こう側から回って来ることにした。トンネルを抜けると旧道が並行しているが、工事のせいもあってなかなか渡る道がなかった。旧道に入って、日本で2番目に古いという「明治トンネル」を抜けた先に宇津谷の集落があった。図書館から借りてきた五十三次の教科書で宇津谷の名所・旧跡は「慶龍寺」と「御羽織屋」と予習してきた。緑色の綺麗な屋根が慶龍寺らしい。車を停めて行って見て驚いたことには、ここは「十団子」の地である。高校の国語の時間に石上先生から教わった
   十団子も小粒になりぬ秋の風
という森川許六の句碑があり、十団子の由来が書かれている。ここが十団子の地とは知らなかったので跳び上がる程嬉しかった。「宇津谷」といえば「在原業平」のことしか頭になかったが、十団子は“大発見”である。
 続いて、旧東海道に出て「御羽織屋」を訪ねた。旧東海道は幅3m程度で「○○屋」と看板を出している家が多い。「御羽織屋」は石川家で、拝観所は家の裏になっている。裏に回るとオバサンが「拝観のお客さんですよ」と声をかけてくれ、中にいたオバアサン(多分当主夫人)が障子を開けてくれた。豊臣秀吉が小田原攻めに往復した折りに拝領したという羽織が飾ってあるが、見事なものである。表は和紙で出来ていて、参勤交代で通った大名達が触って付いたという手垢が模様のように見えた。これぞ「あかつきの陣羽織」である。家康から拝領した茶碗、慶喜から拝領した茶碗を初め数々の貴重な品々が、博物館に比べると無造作に並べられている。オバアサンは説明の中で「蔵の中で随分鼠に喰われました」と話していたが「何と勿体ないことを」と思った。
 「十団子」を1箱買って通りに出て歩いてみると、各家の玄関にビニールの袋に入った白い小さな粒々が飾られているのが目に付いた。日向ぼっこをしながら店番をしているオバサン達に聞いてみると「十団子で10個ずつ9連あり、魔除けのお守り」とのこと。この魔除けの「十団子」は慶龍寺で縁日に売るという。
 宇津谷峠は「蔦の細道(昔、業平が通った道)」「旧東海道」「旧1号線」「新1号線」と4本の道が通じているが、今回訪れた旧東海道沿いの集落は感動的だった。直ぐ近くで大々的な道路工事が行われていて間もなく静岡・焼津間の交通は一段と便利になるだろうが、このような貴重な文化遺産を大切にすることも忘れてはならない。
   宇津谷は業平羽織十団子
 鞠子宿に戻ろうと思ったが、旧1号線の上り方向は大渋滞である。仕方がないので、先程来た方向に戻って新1号線に入り丁子屋に辿り着いた。驚いたことには3時近いというのに未だ大混雑である。やっと車を停めて中に入ることができた。店の中は以前来た時と同じである。ほぼ満席だったが注文した「とろろ汁」は直ぐに出てきた。家伝の白味噌で作られる自然薯のとろろ汁は実に美味しい。すっかり飽極了になった。食べている間に随分席が空いてきた。店の前に芭蕉の
   梅若菜鞠子の宿のとろろ汁
の句碑がある。「梅若菜って何だろう」「梅と若菜だろう」「それだと春の季語が重なる。芭蕉の句には大抵切れ字が使われているから、これは「梅若菜」ではなく「梅わ哉」に違いない」・・・。 丁子屋と国道を挟んだ向の山は梅園になっていて白梅と紅梅が綺麗に咲いていた。
 再び静岡から東名高速に乗って赤坂宿の大橋屋に向かって走ったが、真っ向から陽が当たって実に眩しい。途中浜名湖で一休みしている間に日が暮れて寒くなってきた。音羽・蒲郡で降りて国道1号線を少し戻った所を右折して旧東海道に突き当たった。右折したら直ぐ先に写真で見ていた大橋屋の提灯が見えた。
 当主夫人が出てきて表2階の部屋へ案内してくれた。床板は黒光りがしている。手摺りのない急な階段を上がったところの低い梁に、当主夫人が注意する前に一人が頭をぶつけた。1階には“ロビー”があり、手あぶりの火鉢が置いてある。ロビーの脇の部屋の炬燵には先代当主夫人が店番を兼ねて座っている。表2階には7畳間が3つ並んでいて襖で仕切られている。原則として3部屋を1組として使っているとのこと。一番手前の部屋は畳は6枚だがその中の2枚が幅広で、入り口の障子が少し斜めに付いているのが面白い。他の2部屋は6畳に半幅の畳が2枚付いて7畳になっている。天井の窓寄りの部分が傾斜しているのは「外から中が見え難いように暗くするため」と説明されたが、多分そうではなく、屋根の高さの関係ではないかと思われた。暖房は、手前の部屋と真ん中の部屋は石油ストーブがあり、一番奥の部屋は手あぶりの火鉢である。
 昔は、間口9間、奥行き60間だったそうだが、1709年の大火で焼失し、現在の表の部分は1716年頃の建築がほぼそのまま使われている。2階の廊下の壁に先代当主が書いたという昔の間取り図があり、それを見ながら説明を聞いた。パンフレット等に「松尾芭蕉が句を詠んだといわれる部屋」と説明されているが、芭蕉は1694年に他界しているので、残念ながらこの部屋には泊まっていない。
 芭蕉はこの宿に泊まって
   夏の月御油より出て赤坂や
と詠んでいる。これは、夏の夜は短いので月が出たかと思うと直ぐに明けてしまう、赤坂宿と御油宿との間は1.7kmと近くアッという間に過ぎてしまう、ということらしい。許六の句に
   つばくらや御油赤坂の二所帯
というのがある。負けじと句作に励んだが、及ぶべくもなかった。
   今は昔赤坂宿の夏の月
 部屋に置いてある「宿帳」を見ると、1月に10組位しか宿泊客がないらしい。旅館が本業というわけではなく、手の空いている時にだけ客をとる方針らしい。
 食事は奥の新築部分にある大広間に用意されていた。今晩の客は我々だけだから、大広間で3人だけで食事をする。刺身(ひらめ、甘海老)、寄せ鍋(コーチン、鱈、白菜)、とろろ汁、蟹・零余子・セロリのもろみ掛け、山芋(八丁味噌がかけてある)、茗荷、茶蕎麦、味噌汁、御飯、漬物、赤い果物、デザートはメロンと林檎。ここのとろろ汁は不思議な臭いと味で昼に食べた丁子屋の物とは雲泥万里の差があった。一所懸命鼻をぴくつかせて見たがこの不思議な臭いの正体は不明だった。
 大広間の廊下の鴨居には宝井馬琴、三遊亭円楽、ジェームズ三木、田中澄江、東野英心、・・・等多数の色紙が飾られていた。
 飽極了になって部屋に戻ってみると、布団が敷いてある。敷き布団の上に毛布を敷き、もう1枚の毛布の上に掛け布団が2枚掛けてある。風呂に入ることにして、行ってみたが、風呂桶が小さいので、順番に入った。
 夜中に寒くなるといけないと思って石油ストーブをつけたまま寝たら、明け方に油切れになった。
   赤坂の宿で夜中に御油が切れ
温泉と違って朝風呂に入ることもできない。外はかなり強い風が吹いているらしい。

 顔を洗って昨夜と同じく大広間で、白身魚の塩焼き、子持ち昆布、玉子豆腐、野菜サラダ、胡瓜・人参・セロリ・昆布の甘酢和え、海苔、味噌汁、漬物、という標準的な朝食を食べた。
 出掛けようとしたら当主が玄関に出てきたので、当家の故事来歴等を聞かせてもらった。明治天皇が立ち寄ったことがあるという。玄関の三和土に藁縄を巻き注連飾りを付けた直径20〜30cm、長さ1m位の筒が2本置かれているのが昨夜から気になっていたが、抱えて使う花火の筒だと分かった。筒と並んで当主の写真も撮らせてもらった。表に出て何枚か写真を写して出発した。
 少し走ったら綺麗な松並木があったので写真を撮ったが、どうも様子がおかしいと調べてみたらフィルムが回っていない。「空打ちはいけない、何時からだろう」「さっき、花火の筒を映した後で入れ替えた」「じゃあ戻って撮り直そう」というわけで、大橋屋まで引き返して、先程写した筈の何枚かを撮り直して再出発。
 再び御油の松並木を通り抜けて、豊川稲荷へ向かった。駐車場に車を停めて境内に入ると大変な人出である。特別な縁日でもない日にこれだけの参拝客があるとは凄い。豊川稲荷は神社だとばかり思っていたら、曹洞宗の妙厳寺というお寺が庇を貸したところいつの間にか稲荷の方が有名になってしまった、ということで、神社と仏閣が共存している。余りに大勢の参拝客がいるのと如何にも“大企業”らしい“客捌き”に霊験あらたかな気になれない。門前には土産物屋が多数店を出していて、「宝珠饅頭」等を売っている。
 「白須賀宿へ行ってみよう」といって、それと思しき辺りに辿り着いたが、教科書を見ても何処が宿場か分からない。広重が絵を描いたと思われる辺りから海を眺めただけでいいことにして、豊田佐吉記念館へ行ってみることにした。田圃の外れにひっそりと建っているごく普通の家に「豊田章一郎」の表札が掛かっている。トヨタには長年貢献しているから大きな顔で入ろうと思ったが入場は無料である。展示室には自動織機等が置かれていて、トヨタ自動車の紹介のビデオを熱心に見ている人がいた。順路に従って山を登って下りたところに佐吉翁の生家があった。立派な竹林に囲まれている。厠に寄ったらペーパータオルが用意されている。入場無料でペーパータオル、流石はトヨタである。これからも車はトヨタにしよう。
 昼食代わりに昨日買った十団子を食べて、「新居関」に向かった。新居関は江戸と京・大阪とのほぼ真ん中に位置し、関東と関西の境である。関所跡は外から眺めるだけにして、残りの十団子を食べて、先を急ぐことにした。国道1号線を走って「小夜の中山」へ行こうと思う。弁天島を過ぎる辺りまでは順調だったが、浜松に入る辺りからナビゲーターの指示がおかしい。市街地を避けるバイパスがあっても決してそちらに行くように指示しないし、交差点の表示もずれている。一番ひどかったのは、左右を間違えて音声案内している所があったことだ。どうも、この地図の静岡県の担当者がヘボだったようだ。途中から指示に逆らってバイパスのあるところは必ずバイパスを通るようにした。そんなこんなで、大分時間を無駄使いして、小夜の中山に着いたときには4時を過ぎていた。鉄道唱歌にも歌われている「夜泣き石」は直径7〜80cmの丸い石である。
 小夜の中山は
   年長けて又越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
という西行の歌で知られている。西行は「阿漕」といわれて出家し、西に行くべき西行が東へ下った29才の時にここを通っている。再びこの峠を越えてこの歌を詠んだのが69才の時と聞いて驚いた。小夜の中山公園に西行の歌碑があるというので行ってみることにした。少し引き返したところに看板があって茶畑の中の道をかなり登って行ったが、それらしいものがない。「こんなに高い所ではないだろう」と不安になって茶畑にいたおじさんに聞いてみたら「その先の頂上がそうだが、婆さんはもう寝ているかも知れない」と教えてくれた。頂上に西行の歌碑があったが、太い円筒形でどうみても西行のイメージではない。久延寺という寺の境内にも夜泣き石がある。この辺りには大きな丸い石が多いらしく、転がされたままになっているのも幾つかあった。関ヶ原の戦の時、当時の掛川城主山内一豊がこの寺に茶亭を設け家康を接待したといわれ、このとき使われた井戸が御上井戸として残っている。山内一豊は、本人はたいした働きをしなかったにも拘わらず夫人の内助の功で出世した侍の代表として後世に名を残している。家康手植えの五葉松は枯れてしまって株だけが残っていた。扇屋という茶店があったが既に店を閉めている。戸が開いて「もう寝ているかも知れない」といわれた婆さんが出てきたので「子育て飴を売って下さい」と言ったけれど全く聞こえないらしく無視された。かつては、ここに茶店が何軒もあったそうだが、今では扇屋だけであり、1人で店番をしている31代目当主川島ちとせ婆さんは100才だそうだから、扇屋も風前の灯らしい。この山は一面の茶畑で眺めの良い所ではあるが、それにしても、旧東海道は何故こんな山の上を通っていたのだろうか。静岡の茶畑には5m程の柱が沢山立っていてその上に「霜除け」の扇風機が付いている。
 5時過ぎになり薄暗くなってきたので、見物はこれまでということにして、静岡か焼津に行って夕食を食べることにした。焼津は漁港だから魚が美味しいに違いない、焼津で寿司を食べようということになったが、当てがあるわけではない。町の中心らしき辺りをぐるぐる回っているうちに「神田」という店が目に付いたので入ってみた。地ものの寿司を食べたが実に美味しかった。