時は今天が下知る五月かな

忘月忘日 富士見高原で開催された研究会のあと、直ぐ近くにある「戦国の館」へ寄った。ここは現在放映中のNHKの大河ドラマ「葵 徳川三代」の撮影が行われた場所であり、かつて「武田信玄」が撮影された場所でもある。資料や写真を展示してある「葵 徳川三代」展示館を見てから、番組ですっかり馴染みになった城門等を見て回った。さして大きくはないが、番組では立派な城門に見えるし、石垣がプラスチックであることは叩いてみなければ分からない。ここは樹木以外には何も見えないので撮影には好都合であるが、コンクリート製の電柱には片側だけ檜の皮を巻き付けて木に見えるようにしてあるのが可笑しかった。
 昼食を何処で食べようかという話になり、伊那市の「越後屋」に電話してみた。「越後屋」は丸谷才一の『食通知ったかぶり』に登場する馬肉屋である。今まで何回か機会を窺っていたけれども実現しなかったが、今日は丁度良い時間である。予約が取れたのでナビゲーターをセットして中央道に入り、伊那へ向かった。
 中央道を降りると、しだれ柳の並木がきれいな通りに出たので、「勘太郎月夜唄」を聞きながら走った。
  ♪影か柳か勘太郎さんか・・・・泣いて見送る紅つつじ
因みに、伊那市の木は柳、市の花は躑躅である。
 飯田線に沿った銀座通りと思しき通りの中程、伊那北駅の近くに「料亭越後屋」と肉屋「越後屋本店」が並んでいる。1階が肉屋で2階に登楼して食べるという木造2階建を想像していたが、遙かに大きな鉄筋コンクリートの建物、丸谷才一によれば「大厦高楼」に近い。ホテルのような4階建ての「料亭越後屋」は結婚式場になっている。待ちかまえていた女将に2階に案内され、部屋に通された。幾つかあるテーブルの一つが我々のためにセットされていて、もう一つのテーブルには3人分の用意がされていたが、「こちらは夜のお客様ですからごゆっくりどうぞ」といわれた。どうやら今日は昼が一組、夜が一組ということらしい。「伊那路定食 天竜」を注文した。馬刺、牛と馬肉の鍋焼き、小鉢2品、漬物、味噌汁と御飯で3000円である。馬刺は「ひいやりとした感触」が快く、とろけるように美味しいので追加した。鍋焼きは最近の若者の嗜好に合わせて牛肉と混ぜたのだろうが、やはり「馬すき」でなくてはいけない。馬肉を牛肉と混ぜるのは邪道である。強いて混ぜるならば鹿の肉でなければならない。ここの馬肉は国産で松本で屠殺しているという。ということは、今では松本が馬肉の「本場」ということになる。
 隣の「越後屋本店」は馬肉屋であるが、牛肉や豚肉のみならず鶏肉まで売っている。我々が子供の頃、信州では鶏肉は肉屋では売っていなかった。今では牛肉や豚肉が主流になったようだが、昔は「肉」といえば馬肉であった。
 銀座通りを歩いてみた。越後屋の直ぐ裏を飯田線が通っていて所々に踏切がある。丁度電車が通りかかった。今日が宵宮らしく町中で準備をしている。街角のスピーカーからは「勘太郎月夜唄」が流されている。
 信州大学農学部を訪問した。キャンパスは伊那市の郊外南箕輪村にあり、河岸段丘の上に位置している。建物は高等学校のような感じであるが、50ヘクタール以上あり演習林まで備えているキャンバスは流石に広大である。農学部の主キャンパスとしては恐らく日本最大であろう。またここは標高773mと国立大学の中で一番高い場所にあるので「最高学府」といわれているという。中央道に近く交通の便にも恵まれている。
 伊那に来て勘太郎に挨拶しないわけにはいかないので、春日公園に寄って伊那の勘太郎の碑に表敬した。通りかかった旧伊那部宿にある「割烹いづみ」の入口に宗良親王の歌碑
   ちらぬまにたちかへるべき道ならば都のつとに花もをらまし  (李花集)
があった。
 祭りの準備で賑やかな伊那市を後にして、中央道に戻った。木曽駒ヶ岳は雲がかかっていて見えなかったが、甲斐駒ヶ岳をはじめとする南アルプスの山々は
   遠山に日の当たりたる伊那路かな
といった風情である。
 恵那山トンネルを抜けて瑞浪まで走った。松本清張の「目の壁」以来地名は知っていたが、来るのは初めてである。瑞浪から中仙道細久手宿に向かった。細久手はなだらかな坂道に沿った宿場であり、尾張藩の本陣だった大黒屋が今でも昔のままの建物で旅館を営業している。屋根が大きくて2階の窓丈が低い造りで、立派な卯建が上がっている。段々と空模様が怪しくなってきて、直ぐ近くで雷が鳴り始め大粒の雨が降り始めたので、大急ぎで車に駆け込んだ。
 山道を通って大湫宿へ向かう途中で雨を追い越し、安藤広重が木曾街道69次大湫宿の絵を画いた場所にある大湫宿大洞・小坂の碑に立ち寄った。
 大湫宿は古い家並みが並んでいる。和宮が泊まったという本陣は今はなくなっているが、和宮はここで
   遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり
と詠んだという。宿の中程にある神明神社の大杉は推定樹齢1200年というもの凄い巨木である。蜀山人の旅日記に「駅の中なる左の方に大きなる杉の木あり。木のもとに神明の宮たつ」とあるというから、蜀山人もこの杉の巨木を見上げたのであろう。大湫も夏祭りで、各家は明かりを消してローソクを灯している。
 夕立が追いついてきたので、ナビゲーターを今夜の宿にセットして走り出した。県道394号線はもの凄く狭い山道で対向車があれば進退谷まることになるが、幸いにして出会ったのはたった1台だけだった。しかも、その対向車を運転していた若い女性は素早くバックして右側一杯に寄ってくれた。お陰で私も右側一杯に寄りながらすれ違うことができた。それにしても「大雨」「狭い山道」「夜」と三拍子揃うと相当なスリルである。国道19号線に出て恵那市から中津川市まで走り、7時前に宿に辿り着くことができた。

 丘を下りた中津川縁にある桃山公園に「女夫岩」という巨石がある。「男岩」「女岩」ともに実にリアルである。解説には「イザナミ・イザナギが天照大神を生んだときの胞衣をこの地に埋納したことから恵那と呼ばれるようになった」と書かれている。恐れ入りました! 後日中津川出身の友人に話したら「我々は子供の頃あの岩に昇って遊んでいた」という。
 900mで200円という有料道路を通って、土岐氏と並んで東濃一帯を制していた遠山家代々の居城があった苗木城公園へ行ってみた。遠山資料館があったが省略した。有料道路のほんの一部を走っただけだったので随分高い料金ではあるが、木曽川に架かった城山大橋からの眺めはなかなかのものだったし、街路樹の百日紅が満開できれいだったことで満足することにしよう。
 国道19号線を南下して恵那市から国道257号線に入り、岩村町歴史資料館へ行って見た。城主になるはずだったが才を認められて大学頭に抜擢された林述斎の話、明治天皇を“身内”にした下田歌子の話、佐藤一斎の作品等が展示されている。「松平能登守巌邑藩知事被仰付候事 明治二年己巳六月」(太政官印が押されている)という辞令が展示されていたが、昨今の安っぽい辞令に比べれば風格がある。日本最初の英和辞典も展示されていた。1862年に初版200部を発行したうち日本に現存する6冊の内の1冊という貴重なものである。資料館の前にある藩校知新館の門の脇に、二宮金次郎の銅像と佐藤一斎の「三学戒」の碑がある。葉が対称に付くことから「楷書」の語源とされる楷樹があり説明が付けられている。
 海抜540mの資料館から山を半周りして海抜721mの岩村城趾へ登って見た。最も高地にある山城だという。岩村城は、別名を霧ヶ城ともよばれ、織田、武田の強国の間で翻弄され、非業の死をとげた女城主(岩村城主遠山景任に嫁いだ織田信長の叔母)の物語が伝えられていて、当地には「女城主」という酒がある。森蘭丸が城主だったこともあり、目まぐるしく藩主が替わったが、最後は大給松平分家が7代続いて明治維新を迎えている。大給松平氏とは龍岡城以来馴染みがある。
 町役場に車を停めて町内を見物した。江戸時代の家並みがかなりよく保存されている。丁度祭りの日で賑わっていた。茗荷、大角豆、人参、唐辛子、茄子、甘藷、玉蜀黍、白菜、・・・等の野菜で作った「野菜の鎧」が飾られていたのが面白かった。銀座通りに佐藤一斎の「提一燈 行暗夜 勿憂暗夜 只頼一燈」の碑があった。役場に引き返すところで子供御輿の行列に出会った。
 明智鉄道に沿う国道363号線を走って大正村のある明智町へ行った。駐車場に車を停めて、直ぐ前にある「浪漫亭」で昼食にハヤシライスを食べた。大正期の歌を流している中に美空ひばりの歌が混じっているのが可笑しかった。大正路地、時計の館等を見て、天照大神の8人の子を祀った八王子神社へ行って見た。境内には明智光秀手植えの楓や柿本人麻呂社がある。明智遠山家の墓には11個の大きな石塔があり全て院殿大居士である。大明山龍護寺は光秀公出生の地にあり墓がある。墓石は高さ1m50cm位で戒名は「光厳院殿前日州涼月秀天大居士」であり、坂本の西教寺にある戒名「秀岳宗光大禅定門」とは雲泥万里の違いである。明智遠山家と土岐明智家との関係が分かる系図が示されている。明智光秀と遠山の金さんとは遠い親戚ということらしい。明智陣屋(代官所)を見て、大正ロマン館に寄ってみた。館の前に初代村長高峰三枝子と初代村会議長春日野清隆の像が立っている。旧三宅家、大正村役場(旧明智町役場)を見てから、車で千畳敷公園にある光秀公産湯の井戸を見に行った。
 今回の見学の予定を終了したが、少し早いので、「おきよめの湯に入っていこうか」ということになった。先程来た363号線を戻っていると、明智鉄道のきれいな絵柄の列車が併走してきた。「列車」とはいっても1両編成(!)のディーゼルカーである。国道257号線を走っていくと、右手の山腹に一風変わった建物があった。「モンゴル村」という表示があったので右折して寄ってみたら、白い「ゲル」が並んでいた。モンゴルの体験をする宿泊施設、即ち、「モンゴルもどき村」である。先を急ぐことにして、国道に戻って少し行くと「国道418号線通行止」の表示が出ていた。一昨年の豪雨による土砂崩れらしいが、いくら何でも復旧に時間がかかり過ぎる。「迂回路あり」という表示を頼りに上矢作町の役場を過ぎた辺りから迂回路に入ったがこれが大変な山道だった。長野県に入り根羽村でやっと国道153号線に出ることができたが、すっかり遅くなってしまったので「おきよめの湯」は割愛して帰りを急ぐことにした。もの凄い雷雨になったが、ガソリンが残り少なくなったので給油した。「玉蜀黍をゆでたで食べて下さい」といって温かい玉蜀黍をもらった。153号を北上して平谷村から阿智村に入る辺りで雨を追い越した。昨年の秋に来たときにはゆっくりと見物できなかったのでもう一度阿智村駒場の長岳寺に寄ってみたが、先程追い越した雨に追いつかれたので慌てて車に戻って走り出した。
 飯田から中央道に入り、駒ヶ岳SAで一休みした。途中かなり渋滞があったが、10時過ぎに帰宅して、「葵 徳川三代」を見ることができた。今回の旅は「葵 徳川三代」に始まり、「葵 徳川三代」で締めくくった。