今来たこの道帰りゃんせ

忘月忘日 信州富士見町で中国文化研究会が開かれ、予想以上の成果があったので、足取りも軽く佐久へ向かった。八千穂村までは頗る快調に走れたが、その先は工事のために片側交互通行になっている所が何カ所もあった。途中昨日からの雨の名残らしきものがぱらぱらときたが大したことはなく、佐久に着く頃には晴天になり猛暑が戻っていた。佐久から上信越道に入った。残念ながら浅間山は見えないが、日差しが強く既に気温は30度を超えていてかなり暑い。自然に呼ばれて東部・湯の丸で休憩し、串焼き肉で腹ごしらえをした。ここは昨年も来て雷電の生家を訪れたりしているから、懐かしい曽遊の地である。
 上信越道の下り線は上田・更埴間は今回が初めてである。「信濃の国」を聞きながら走り、須坂・長野東で下りて須坂市の豪商の館田中本家へ直行した。前回来たときには生憎休館日だったが今日は開いている。博物館には衣装、陶磁器、漆器、書画、骨董等が多数陳列されている。須坂藩の要請で二千両寄附したのに対して藩主から小袖上下を賜ったと書かれていたのには苦笑した。庭園もなかなか立派である。
 少し町を歩いてみたが暑いので、前回来たときと同じく盛進堂でアイスクリームを食べた。念願の仙仁温泉「岩の湯」へ急ぐことにした。国道406号線を走り15分程で山間に入ると木陰にひっそりと仙仁温泉がある。駐車場に出迎えの人がいて荷物をもって案内してくれる。駐車場はほぼ一杯で殆どが名古屋方面から来た車である。門をくぐり川を渡った先に玄関があり受付がある。「岩の湯」は大変な人気で、11ヶ月前から予約を受け付けているが、直ぐに満室になってしまうそうである。我々は去年の9月1日の朝電話をして予約した。「未だ受け付け開始前ですが承っておきます」といって予約を受け付けてもらった。受け付け開始前に電話したのが印象に残っていたらしく、「随分早くから予約して頂きまして有り難うございました」といわれた。
 今到着したばかりの客が10名程ロビーで抹茶の接待を受けている。従業員が大勢いて皆実によく訓練されている。手続きを済ませて抹茶の接待を受けてから離れになっている仙山亭の「仙楽」という部屋に案内された。仙山亭には4室あるが「仙楽」は完全に孤立した位置にある。「岩の湯」には本館、仙寿亭、仙山亭とあり、全部で19室あるが、仙山亭が一番人気があるという。8畳の和室が2部屋と4畳の和室があり、4畳間には和風のソファが置いてある。大きな3面鏡の付いた洗面所、風呂、最高級ウォッシュレットの設置された厠、銅板張りの流し、2つの冷蔵庫等が備えられていて、実にゆったりとした立派な部屋である。先程飲み物を仕入れてきたが、冷蔵庫の中に冷やした麦茶が用意されているから、今日は麦茶を飲んで買ってきた飲み物は明日にまわすことにした。
 館内を歩いてみるとロビーや休憩室に大きな書棚があり、信州に関する書物が実にたくさん集められているが、何故か『県歌信濃の国』が見当たらない。6時に夕食ということにしたので、その前に風呂に入ることにした。「岩の湯」は「洞窟風呂」で有名である。脱衣所から入ったところに普通の湯船があり、扉を開けて入ると小さな湯船があってその先が洞窟風呂になっている。洞窟風呂は混浴で女湯の方からも入り口がある。女性は勿論男性も大抵バスタオルを巻いて入っている。洞窟は2本あるが、湯温36度というだけあってかなりぬるい。左側の洞窟にはオジサンがいたので右側に入って行ってみた。仕切を跨いで先に進み、洞窟が曲がって段をあがった先に又浴槽が続いている。奥の方で絡み合っていた男女が私の姿を見て離れた。構わず2本の洞窟を奥まで探検して引き上げた。
 部屋に戻って暫くすると食事が運ばれ始めた。「八月七日 山里料理 深仙庵」と書かれた献立表が付いている。赤い色をした木苺の食前酒はかなり強い。先附は枝豆豆腐。「万緑のおもてなし」と書かれている前菜は、雪鱒の卵・ミニトマトのワイン煮・長芋の甘辛煮・鴨のロースト・紅鱒の押し寿司。「山里のお造り」と書かれている刺身は、氷の上に南天と水引草(?)が敷かれて、鯉の洗い・いとうの魚・紅鱒・岩魚と岩海苔がきれいに並べられている。次に運ばれてきたのは松代蒸しのお椀で、松代名産の長芋で固められた蕎麦にナメコが添えてある。次は一杯に敷き詰められた笹にのせられた鮎の塩焼きである。次は瓢箪形の小さなお椀に入ったじゅん菜とろろ。次の「強肴」は「信州牛石焼きステーキ又は杉の香焼」となっていた。ステーキは塩の上に石版を乗せてその上に乗っている。萩の花が添えられている。杉の香焼は、杉の葉の上に朴葉を乗せて鮭・鰻・鰆・玉蜀黍・ピーマン・ジャガ芋・アスパラガス・茸・栗等が味噌焼きにされている。ここで「箸休め」として杏のゼリーが出てきた。次が煮物として蒸し鳥と茗荷とオクラの煮こごり、油物としてアスパラ・茗荷・葱・オクラ・長芋・茄子・鶏肉の串天麩羅。次が蒸し物で百合根白玉・蕎麦の実あんかけ。御飯と味噌汁と香の物が運ばれ、最後のデザートはアイスクリーム・西瓜・桃のムース・メロン・グレープフルーツ。一つ一つは量は多くはないが、どれもこれも素晴らしい味ですっかり飽極了になり、十分に満足した。
これで終わりだと思ったら「後程夜食とフルーツをお持ちします」という。30分程経った頃、「緑陰をよろこびの影すぎしのみ」という飯田龍太の句と竜胆の花が添えられたバスケットに入ったカッパ巻と新香巻が3個ずつとメロン・巨峰・ネクタリン・オレンジの盛り合わせが届けられた。飽極了でこれ以上食べると動けなくなってしまいそうである。

 朝目が覚めて洞窟風呂に入った。「朝食は8時から10時の間に1階でお取り下さい」といわれていたので、1階の「深仙庵」へ降りていくと「蓮華の間」に案内された。大広間かと思ったら流石にそうではなく人数に応じた部屋に通される。リンゴジュースに始まってサラダ、前菜(もろみ豆腐・菠薐草の胡麻和え・薇と油揚と人参の煮物)、紅鮭・細切り大根の甘酢煮・大根おろし、菠薐草と油揚げのお浸し、茄子の煮浸し、蕎麦粥、味噌汁、デザート(白クリームをかけたフルーツの盛り合わせ)と随分豪華な朝食である。
 カメラの調子が悪くなって巻き戻しができなくなったので、押入に入ってフイルムの交換をした。洞窟風呂で撮った写真が無事であることを願う。勘定をするときにも「随分早くから予約して頂いて・・・」といわれた。「これから秋山郷へ行く」といったら地図をコピーしてきてルートを示してくれた。駐車場まで荷物を持って見送りに来てくれたが、途中で写真を撮ろうとすると「お撮りしましょう」とシャッターを押してくれるし、建物を背景にしようとすると「お泊まりになったお部屋がちょうど入ります」等と我々がどの部屋に泊まった客であるかを完全に認識している。更に車が道路に出るまで誘導してくれた。従業員達が実に見事に訓練されていて、至れり尽くせりのサービスである。
 11時前に走り出し、昨日来た道を戻って須坂を通り抜け国道403号線を進み小布施に入った。銀座4丁目に竹風堂があるが随分賑やかである。中野で少し寄り道をして、中山晋平記念館に寄ってみた。「日本のフォスター」といわれる晋平は芸大の出身で、生涯に3000曲以上作曲したというが、「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「あの町この町」「背くらべ」「しゃぼん玉」「証城寺の狸ばやし」「船頭小唄」「波浮の港」「東京音頭」「東京行進曲」等誰でも知っている曲が数え切れない程ある。7音階の中「ファ」と「シ」を使わないいわゆる「ヨナ抜き」は日本人の音感によく合っている。西洋の音楽と日本文化とを実に見事に融和させて新しい文化を創り出した才能は素晴らしいものであり、信州の生んだ偉人である。記念館の裏には生家があり現在も子孫が住んでいらっしゃる。玄関脇の窓ガラスには「證誠寺の狸ばやし」の絵がはめ込まれている。記念館の庭には幾つかの歌碑がありその前に立つとその歌のメロディーが流れるようになっている。帰りに門を通ったら自動的に「・・・今来たこの道帰りゃんせ・・・」のメロディーが流れた。
 この辺りには、一茶の晩年の家を想わせる荒土の土蔵が多い。403号線に戻り、292号線に入って数キロ続く真っ直ぐな道を北上すると、千曲川を渡って飯山市に入り117号線になる。千曲川の川波が夏の日にきらきらと輝いている。
 飯山は随分山の中かと思っていたがさにあらず、山は低く随分開けたところである。飯山線沿線には初めて来たが随分認識を新たにした。この辺りは有数の豪雪地帯であるから冬はさぞ大変だろうと思うが、今は長閑である。両側の山に無数にあるスキー場を眺めながら、飯山線と千曲川に沿って快調に走り、下高井郡野沢温泉村を過ぎて下水内郡栄村に入った。栄村は大きな村で、これから行く秋山郷は栄村の中にあるが、随分遠回りをしなければ行き着けけない。日本一の豪雪地として知られる森宮野原駅を過ぎれば新潟県である。栄村の村役場は、県境であり従って村外れであるこの森宮野原に置かれている。要するに、栄村は大きな村ではあるけれども殆どが山で、人口の大部分は千曲川沿いに住んでいて、ごく一部の人々が秋山郷に隠れ住んでいるということらしい。
 県境を越えて津南町に入り、間もなく右折して国道405号線に入って秋山郷に向かった。暫く進むと狭い一車線の所が多くなり、対向車があれば所々に用意されている待避所で待つことになる。教科書に「国道405号線が整備されて秋山郷へのアクセスが容易になった」とあったが、整備される前はどんな状態だったのだろうか。
 大分進んで大赤沢という集落を過ぎると再び長野県で「信州秋山郷」という看板が目に付く。小赤沢、屋敷、上ノ原等の集落を通って一番奥にある切明温泉まで行ってみた。雄川閣にはかなりの客が訪れていた。それにしても何ともはや恐れ入った秘境である。平家の落人集落といわれているが、いくら頼朝がしつこくてもここまで追ってくることはできなかっただろう。
 志賀高原へ抜ける道があると表示されているが、「整備された道」を通ってきた経験に照らして「今来たこの道帰りゃんせ」に如くは無い。途中「のよさの里」と呼ばれる宿泊施設に立ち寄り、屋敷集落に行って私設の民俗資料館を覗いてみた。駐車場から資料館へ登る道で蛙をくわえた大きな縞蛇に出くわした。資料館には古い道具類や着物等が所狭しと並べられている。2階に上がってみたら“美術館”になっている。当主が描いたと思われる絵がたくさん飾られていて、かなり高い値段が付けられていた。買う人がいるのかしら。
 秋山郷は大変な秘境であるが、家は殆どが藁葺きを模したトタン屋根になっているし、焼き畑農業をやっている様子もなく、往事を偲ぶものは余り目に付かない。