北向きに観音おはす時雨かな

忘月忘日 昼過ぎに出発して圏央道青梅に向かう。北海道方面に発達中の低気圧がある関係でかなり風が強く、時々横揺れを感じる。昨日雨が降り今日は風があるので空気が澄んでいて遠くまで良く見える。関越自動車道から上信越道に入った辺りで「昼食に時間がかからなかったのでこのまま走ると早く着いてしまう。小幡の大木が無患子かどうか確認して行こう」ということになり、富岡で途中下車して小幡宿に向かった。小幡には6月3日に来ている。その時歩いた小幡の街に数本の大木が繁っていて、説明が書かれていた。一人はその樹の名前が「無患子だったと思う」というが私は思い出せなかった。先日来気になっていたのでこの機会に確かめようと思う。行ってみると6月とは違って葉が殆ど落ちているが、立てかけてある標識に「甘楽町指定天然記念物 高橋家の無患子と御殿桜」と書かれている。彼の記憶は正しかった。3本ある大木の中1本が無患子で残りの2本が御殿桜であった。これで安心できた。下を見ると指の頭程の黄緑色の球形の実がたくさん落ちている。ポケット一杯に無患子の実を拾って、6月に見た所を一巡して高速道路に戻り上田へ向かった。車窓から見える景色は遅い紅葉で晩秋の気配が趣深かった。碓井軽井沢から小諸の間は片側1車線の対面通行の区間が多く緊張する。長いトンネルを出たらすっかり初冬の景色に変わっていた。小諸を過ぎた辺りでほんの一部懸かっている雲から雨が落ちてきた。山の方を見ると時雨れている様子で高い山の頂は白くなっている。「明日起きてみれば真っ白かも知れない。一昨年は11月8日に長野市で5cm程雪が降った」というような話をしながら走った。
 上田菅平で降りて上田の市街を通り抜け別所温泉へ直行した。今日の宿は旅館花屋である。立派な玄関を入り渡り廊下を通って離れへ案内された。既に暗くなっていたが、綺麗な庭があり水車小屋があるのが分かった。中程の26号室「旅情」に通された。2間続きの純粋な和室で小さな温泉が付いている。みすず飴が菓子鉢に入っている。6時30分に夕食を運んでもらうことにして大浴場「展望風呂」へ行ってみることにした。「展望風呂は混浴ですが、今日は男の方が多いので・・・」といわれていたが、丁度夕食時間で誰も入っていない。部屋に戻ったら食事の用意ができていた。
 食事の後「大理石風呂」に入った。部屋の風呂にも入ってみたが、これが頗る快適だった。小さいながら、これも大理石風呂である。暖房で室内が乾燥しそうなので、加湿器をセットして寝た。

 目が覚めたら外が明るくなっていた。寒そうだが露天風呂に行ってみた。露天風呂は展望風呂から渡り廊下を30m程行ったところにあり、新しく作られたものらしい。中庭にある池には立派な鯉がたくさん泳いでいる。離れや風呂は本館と渡り廊下でつながっているが、雪が吹き込んだらどうなるのか気になった。
 10時にチェックアウトして、宿に車をおいたまま、歩いて北向観音を見に行った。本堂には慈覚大師の作と伝えられる千手観音が善光寺と対面しているところからこの名が付けられていて、両方にお参りすることで御利益があるとされるそうだが、お年寄りの団体がいくつも来ていて大変な賑わいである。「善男善女が大勢いる」「殆ど前男前女だね」・・・。ここの手水は「慈悲の湯」という温泉である。
 薬師堂(温泉医王尊)の前には芭蕉の句碑
   観音のいらか見やりつ花の雲
北原白秋の歌碑
   観音のこの大前に奉る絵馬は信濃の春風の駒
花柳章太郎の句碑
   北向きに観音おはす時雨かな
等がある。白秋はここで76首短歌を詠んだそうである。合格祈願の絵馬に混じって「◇◇○○さんともう一度一緒に暮らせますように。▽▽△△子」という絵馬が面白かった。
 愛染明王堂の横の巨木は愛染桂と呼ばれていて、ここが川口松太郎の小説「愛染かつら」“誕生の地”であることを知り大いに感動した。もっとも「愛染桂」はあちこちの寺院にあるらしいが・・・。津村浩三と高石かつ枝はこの樹の下で永遠の愛を誓い、やがて芽を吹く春が訪れた。
 宿に戻って車に乗り、直ぐに霧島昇の「愛染かつら」のCDをかけて聞きながら「当雲助タクシーのサービスは凄いだろう。愛染桂を見れば直ぐに愛染かつらの歌を流す」等といっている中に北向観音の本坊常楽寺に着いた。この寺は慈覚大師の建立と伝えられ重要文化財の石造多宝塔が有名である。多宝塔の参道に歴代住職の墓碑が並んでいる。明治以降、権僧都、僧都、権僧正、僧正、権大僧正と代を重ねる毎に着実に位が高くなり、先代は大僧正になっている。
 次に日本で唯一つの8角の塔がある安楽寺へ行ってみる。参道脇の1本の杉の木に啄木鳥があけた直径4〜5cmの穴が6個縦一列に並んでいるのが目に付いた。国宝に指定されている8角3重の塔は屋根を見れば4重の塔に見える。塔の周りに大きな朴の葉がたくさん落ちていた。拾って行けば朴葉焼に使えるだろう。参道沿いに繁っている木を見ながら「檜とさわらの見分け方を知っている?」「知らないね。さわらは魚しか知らなかった」「葉の裏の白い部分がYの形をしているのがさわら、そうでないのが檜」・・・。本堂の前に綺麗に刈り込まれた高い木があり珍しいので写真を撮った。
 別所温泉に別れを告げて、車で15分程走って弘法大師の開山と伝えられる独鈷山前山寺へ行く。「独鈷山」は「独股山」とも書くらしい。参道に欅や松の巨木があり、「かけた情は水に流せ 受けた恩は石に刻め」と書かれた碑があった。一同期せずして「逆の人が多い」とつぶやいた。「最近は「情けは人のためならず」は「情けをかけるのは人のためにならない」と思っている人が多い」「本当?!」
 重要文化財の3重の塔は2階と3階には窓も廊下もなく「未完成の塔」といわれている。財政悪化で予算が足りなくなったに違いない。塔に並んでそそりたつ大銀杏から銀杏がたくさん落ちている。
 前山寺に車を停めて遊歩道を通って塩田城跡を見に行く。今は「塩田城跡」と書かれた石碑が建っているだけであるが、鎌倉幕府の3代執権北条泰時の弟重時がここに守護所をおき、その子義政が広大な城を築いて鎌倉幕府滅亡まで塩田北条氏が3代56年にわたって一円を支配し、信州の鎌倉として鎌倉文化の華が咲いたという。「真田の本城よりは広いね」「真田は『信濃の国』にも登場しない位だから大したことはなかったが、立川文庫で一躍有名になったのだろう、北条とは格が違う」・・・。ここから東へ向かう道が「鎌倉街道」と呼ばれていたと知って驚いたが、ここに鎌倉幕府信州支所があったのだから何の不思議もない。
 更に足を延ばして「塩田の館」へ行ってみることにした。日陰の草には未だ霜が解けずに綺麗な結晶を見せている。道路脇にリンゴ畑があり手を伸ばせば簡単に取ることができる。大胆にも窃盗を働いた。このリンゴは数日後に食べたが、切ってみると中は殆ど全体が密入りで、畑の端の見捨てられたような木から失敬してきた物とは思えない素晴らしい味だった。塩田平は柿の木が多く、どの木も綺麗に熟した実をたわわにつけている。どうして取らないのかしら。
 塩田の館には塩田城跡からの出土品の展示や民芸品等が展示されていた。館内の軽食堂で「お焼き」と「蕎麦薄焼き」を食べてお昼の代わりにした。「お焼き」も「薄焼き」も信州人には懐かしい味であるが、子供の頃食べた物に比べると随分小さく上品に作られていた。朝食が十分だったので餓極了ではなくこれで丁度良かった。館の隣にある塩田北条氏の菩提寺龍光院に寄ってみたが、建物が新しいせいか有難味が感じられなかった。入り口の脇に新しく金ぴかの堂を建設中で、おじさんが一人で屋根を葺いていた。
 次に、日本の中心にあるという「生島足島神社」へ行ってみた。本殿の中に一回り小さい社殿がありそこの地面即ち日本の中心に当たる土地が御神体だとのこと。これがこの地方唯一の延喜式神社と知って驚いた。
 「かのう学校に行ってみよう」ということになり、海野宿の近くに田中小学校がありその隣に田中資料館があるから多分そこだろうと見当を付けて行ってみたがそれらしいものは見当たらない。たまたま外にいた先生に聞いてみたら場所と道順を詳しく教えてもらえたので、3km程離れた所にある「和学校」に難なく辿り着くことができた。「和」を「かのう」と読むとは知らなかった。現在の和小学校の敷地内に保存されている旧和学校は純和風建築で中込学校や開智学校の洋風建築と対照的である。既に見学できる時間を過ぎていたので外から覗きながら校舎を一回りした。校舎の前庭に二宮金次郎の石像があった。