君去らず袖しが浦に立浪の

忘月忘日 恐れていた雪が2日前に降ったが殆ど解けてしまい、すばらしい晴天である。9時半に出発して、国立・府中から中央道に入った。全く渋滞がなく快調に走り、レインボーブリッジ経由で湾岸道路に入った。快晴で空気が澄んでいるのでレインボーブリッジからの眺めが素晴らしい。湾岸道路が夢の島より海寄りを走っているとは今まで知らなかった。湾岸道路は車が多かったが渋滞はなく、宮野木から京葉道路に入り、更に館山自動車道に入った。京葉工業地帯の工場群の先に東京湾があり、その向こうに雪化粧した富士山の全容がきれいに見える。房総から富士山がこんなに間近に見えるのは意外だった。
 順調に走って木更津南で出て、木更津駅の方向へ向かった。日本武尊が三浦半島の走水から房総へ渡ろうとしたとき、弟橘姫が入水して荒れ狂う海を鎮め、無事に渡ることが出来たが、上陸しても弟橘姫を偲んで立ち去ることが出来ず
   君去らず袖しが浦に立浪のその面影を見るぞ悲しき
と詠んだことからこの地を「君不去」というようになり、やがて木更津となったといわれている。
 先ず、狸囃子で有名な證誠寺に行ってみた。狸の腹鼓と和尚のお囃子の競演の果てに腹鼓を打ち過ぎて皮が破れて死んでしまった狸を葬ったという伝説のある浄土真宗の寺で、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「證誠寺の狸ばやし」の舞台になっている。木々に囲まれた境内に狸ばやし童謡碑が建っている。昭和31年建立の大きな碑で
  ♪証々証城寺証城寺の庭は・・・
の節は楽譜付きになっている。昭和4年建立の狸塚があり、本物の狸が一匹飼われている。置物の狸は大きな袋を引きずっているが、本物は全く違う。小学生の句に毛の生えた程度と思われる松本斗吟の句碑
   朝蝉の鳴いている也爽やかに
があり、本堂の前の紅梅が満開であった。法事に訪れた人達が2組いた。
 次に、駅前にある日蓮宗の光明寺に行ってみた。ここには歌舞伎の「与話情浮名横櫛」でお馴染みの与三郎の墓がある。墓は4本柱に屋根がついている。木更津の名を一躍全国に広めたのは「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取りとめてか木更津から・・・」の名セリフで知られる歌舞伎の名狂言「与話情浮名横櫛」であった。作者は鶴屋南北の弟子・瀬川如皐であり、話は木更津海岸の潮干狩り場から始まる。おっとりした若旦那与三郎が美しいお富を見染めるが、逢い引きの現場をお富の旦那赤間源左衛門に見つかって与三郎は身体に34ケ所の刀傷を受けて命からがら木更津を去る。お富は海に身を投げるが助けられ、何不自由なく暮らすようになる。数年後、身を持ち崩した与三郎が仲間のこうもり安とゆすりに行った先が何とお富の家。互いに死んだと思っていた二人は再会に驚いて「生きていたとはお釈迦様でも・・・」というのが筋書き。与三郎と安はともに実在した人物で、与三郎の墓は光明寺に、安の墓は選択寺に現存する。
 すぐ近くにある宝家に入って昼食を食べた。明治30年の創業という当地一流の食事処らしい風格がある。あさりみそ汁、刺身、あさりの佃煮、あさりご飯で2000円也。みそ汁の椀は巨大で16、7個のあさりが入っていた。
 教科書に「与三郎の墓には市川海老蔵と尾上菊五郎の卒塔婆がある」と書かれているので確認のためもう一度光明寺へ行ってみたが、卒塔婆はなかった。光明寺や宝家のある駅前の富士見町商店街の歩道には設置目的が分からない“屋根”が付いている。二階の窓の上にかかる位の高さで日除け・雨除けとしては高すぎるし二階の窓は半分塞がれてしまうし、そのうえ支柱が妙に頑丈で屋上に通路が付いていて所々に梯子が付けられている。飛騨の高山にも同じ物があった。高山なら雪除けということも考えられるが、木更津では何物だか見当が付かない。商店の人に聞いてみたら「ただの日除けです」というが、そんな筈はないだろう。
 鋸山へ行こうと思って国道127号線に入ったが、大変な渋滞である。やっと登山道の入り口に辿り着き、700円払って有料道路で頂上近くまで登った。ここは乾坤山日本寺の寺領であり、入山料600円である。海抜329mのこの山のあちこちに垂直に切り立っている断崖はかつて坊主達が房州石を切り出して売った残骸である。これが天然の地形であれば天下の奇景であるが、山が消滅する前に誰かが警告を発して切り出し作業を中止したために残った景観である。罪滅ぼしのためか、壁面に「百尺観音」を彫って交通安全の祈願をしているのも空々しい。然し、山頂からの眺めは素晴らしい。東京湾が一望でき、三浦半島が手に取るように見え、富士山や伊豆大島が間近に見える。展望台の先端は空中に突き出た岩であり、どの程度の重量に耐えられるのか心配だった。
 この寺は聖武天皇の詔勅と光明皇后の令旨を受けて「日本国の平和と繁栄を祈願する」ために724年に行基が創設したという。法相宗、天台宗、真言宗を経て現在は曹洞宗であるが、かつて7堂、12院、100坊を備えたという堂宇・仏像は昭和14年に登山者の失火により全て焼失したという。もしかして、再建のために房州石を切り出して売ったのかも知れない。それにしても再建に時間がかかり過ぎる。あちこちに五十体、百体と飾られている羅漢像を見ながら千五百羅漢道を下りたが、安永から寛政にかけての作というにしては新しそうだった。例によって首がなくなっている羅漢がかなりある。
   飛ぶものは首ばかりなり羅漢像
なかなか本堂や大仏に辿り着かないので聞いたみたら、本堂や大仏は山の下の方にあるとのことで、このまま下りていけば駐車場に戻るのが大変になる。閉門時間も近いので省略して階段を上って車に戻った。世界一の大仏の姿を見ようと東側の無料道路を登ったら上半分が見えた。

 今日は先ず、清澄寺と誕生寺へ行くことにしよう。国道465号線から入った県道170号線は近道ではあるが大変な山道で、1車線のところが多く、対向車が来るとあわてた。東大の演習林から入ったところが千光山清澄寺である。771年に不思議法師が開基したというこの寺は、日蓮が修行し開宗した場所であるが、天台宗、真言宗を経て昭和24年から日蓮宗になっている。手洗の水が凍り1cm程の厚さになっていて、10円玉が氷に閉じこめられていたのが面白かった。参拝者は少ないが儲かっているとみえて大きな研修館を新築している。
 国道128号線に出て海岸通を走り、誕生寺入口の交差点を右折して小湊山誕生寺へ行った。この交差点には「日蓮交差点」という標識も出ている。清澄寺は参拝者が少なかったが、こちらは大変な賑わいである。日蓮を祀る祖師堂の中はきんきらきんに飾られている。屋根の鬼瓦は世界最大で畳21枚分だという。どうも日蓮宗は派手なことが好きらしい。
 再び国道に戻ると、日蓮交差点の先に日蓮トンネルがある。勝浦市を北上して御宿町に入り「月の砂漠記念像」を見に行った。海岸の砂丘に2頭の駱駝に乗った王子と王女の像が立っている。「月の砂漠」は加藤まさおがこの地で作詞したという。砂丘を歩いたら黒い靴が白い靴になってしまった。その先の丘の上に日西墨交通発祥記念碑、通称「メキシコ塔」が建っている。高さ17mの立派な塔で昭和3年に建てられたという。1609年にスペイン領フィリピンの総督ドン・ロドリゴ一行の乗ったサンフランシスコ号が難破したのを地元岩和田村の村民が救助し、翌年家康が三浦按針に建造させた船で無事メキシコに帰国した。溺れた紅毛人を海女達が素肌で温めて助けたためにこのように立派な塔がそそり立つことになったのである。「交通」発祥記念というのも味わい深い。この塔の前にロペスメキシコ大統領来訪記念碑(昭和53年11月来訪)があるが影が薄い。
 一宮町の一宮館という旅館には芥川龍之介が大正5年に塚本文さんに求婚の手紙を書いた離れが残されていて宿泊可能だというが流石に冬は無理である。芥川龍之介文学碑が建てられていて恋文の全文が記されている。
 九十九里海岸に沿って北上すると真亀川の手前に高村智恵子が静養していた家がある。道路沿いの畑にひっそりと残されていて探すのに苦労した。
 更に北上して成東町の海岸にある伊藤左千夫の歌碑
   天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り
を見てから成東町歴史民族資料館へ行った。ここは伊藤左千夫の生家である。資料館の裏にある大きな藁葺きの家で、歌碑
   牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほひに起る
が建っている。説明文によって中村憲吉が伊藤左千夫の弟子であることを知った。
 国道126号線を走り飯岡町へ向かった。途中旭市街が渋滞していて遅くなり、飯岡助五郎の菩提寺である光台寺に着いたときには日が落ちていた。畑の中の道に車を停めて塀を乗り越えて墓地に不法侵入してみると、助五郎の墓は一等地にあった。「笹川繁蔵の墓に比べればみすぼらしい」といわれていたが、何と立派に新築されているではないか。助五郎の名誉回復に奔走している郷土史家伊藤実氏の貢献ではないかと推察される。法名は「発信院釈断流居士」である。これなら助五郎も浮かばれるだろう。
 すぐ近くにある玉崎神社へ急いだ。暗くなりかけてはいたが大きな飯岡助五郎之碑を確認することができた。これで天保水滸伝は双方に義理立てができ一安心である。境内に1998年5月建立の竹久夢二文学碑もあった。