日出づる処の天子黄砂舞ふ

 筑紫は古代史の博物館である。主要な史跡を訪ねるだけでも何日かかるか分からない。今回は博多近辺を回ることにした。前日仕事の都合で久留米に泊まったので、久留米から出発した。数年前からこちらに勤務している甘木君が愛用のスポーツカーで迎えに来てくれた。
 九州自動車道を走り出して暫く行くと、「水城」を横切った。水城は長さ1.2km、幅は80m、高さ13m の土塁で、『日本書紀』によれば、663年の白村江の敗戦により唐・新羅軍の来襲に備えた防衛体制整備の一環として、大野城や基肄城などとともに天智天皇によって造営されたことになっている。しかし、最近の発掘調査で、水城の土塁の内部にもっと古い時期に造られた「本来の水城」が見つかり、放射性炭素による年代測定の結果5世紀中頃の構築であることが明らかになった。我国の古代史の教科書は戦前、戦後を問わず「5世紀までに大和朝廷が日本を統一した」を大前提として記述されている。しかし、この前提が正しくないことは、国内外のあらゆる資料から明らかであり、「倭の五王」も「日出づる処の天子」も「白村江への出兵」も大和朝廷とは無関係である。更に、「天皇は万世一系」というが、継体が武烈から天皇位を簒奪したことは紛れもない史実である。従って、「天皇位」は万世一系ではない。しかし、当然のことながら全ての人は万世一系である。自国の歴史を正しく解明しようとしない我国は、いまだに文明国の域に達していないといわざるを得ない。怒りを覚えながら「水城」を通過した。
 宗像市田島にある官幣大社宗像大社辺津宮を訪れた。宗像大社は、沖ノ島にあって田心姫を祀る沖津宮、筑前大島にあって湍津姫を祀る中津宮と市杵島姫を祀るここの辺津宮の3社から成る。3姫は全て天照大神の娘である。
   天照らす光宗像辺津宮
 本殿の裏にある神宝館には沖ノ島からの出土品が多数展示されている。その多くが国宝に指定されているが、「この島では4世紀から大和朝廷により対外交渉に関わる重要な国家的祭祀が執り行われ、その際鏡、金指輪、龍頭、唐三彩、馬具、織機、奈良三彩などの豪華な品々が奉献されました」と説明されているのは頂けない。なぜ「この海域は天照大神に代表される一族の勢力圏であり、朝鮮半島や中国との交流が盛んであったことが裏付けられる」と素直な解釈をしないのか理解に苦しむ。この地域に大和朝廷の勢力が及んだのは7世紀後半か8世紀になってからのことである。境内の裏の外れに「神木相生の樫」があるので行ってみたら、2本の細い樫の木の枝がつながっているだけのものだった。「連理の榊」「夫婦椿」などと同断である。
 次に志賀島に行き、官幣小社志賀海神社を訪ねた。「龍の都」「海神の総本社」といわれ、阿曇族によって海の守護神として崇拝された式内社で、祭神は伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊をして生まれたという仲津綿津見神、底津綿津見神、表津綿津見神である。『古事記』に登場する阿曇氏の子孫が代々宮司を務めている。社伝によれば、神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を要請し、磯良は熟慮の末承諾して皇后を庇護したという。また、この神社に伝わる「山嘗祭」の神事の中で、阿曇族が「我が君」を讃える歌として「君が代」が歌われている。そこでは「千代」は「我が君」がいた場所を表わしているらしい。「千代」は福岡県庁所在地近辺に現在も残っている地名である。話が出来過ぎているようにも思うが、「君が代」が九州王朝の讃歌である可能性があるとすれば実に興味深い。禰宜に訊ねてみたら、その筋に対して非常に気を遣っているらしく、「神社から申し上げることは出来ませんが、そのようにいわれる学者もいらっしゃいます」といって、資料をコピーしてくれた。どこの神社にも他社の「エイリアス」があるが、ここには「御祭神 八百萬神 往時に祀られていた三百七十社あまりの末社を一社に合祀」という巨大エイリアス集団がある。境内に万葉歌碑
   ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神
がある。
 島の外周道路を右回りに少し進んだところに金印公園がある。道路脇に「漢委奴国王金印発光之処」と書かれた碑が建っていて、道路から5mほど石段を登ったところに金印の拡大文字が飾られている。正面にある能古島は淤能碁呂島かも知れない。金印の文字は、教科書では「漢の委の奴の国王」と読むことになっているが、漢が金印を委国の中の一小国に与えることなどあり得ないのであり、委奴国が当時日本列島を代表する国と認定されていたことを示している。金印は1784年にこの地で発見されたことになっているが、何故この場所にあったかは依然として謎である。
   金印が春風を呼ぶ志賀島
 500mほど先に「蒙古塚」がある。文永の役の際に処刑した元軍の捕虜を供養するために大きな碑が建てられていて、張作霖による讃がある。海岸には万葉歌碑
   志賀のあまの塩やく煙風をいたみ立ちは昇らず山にたなびく
がある。
 本物の金印を見るために福岡市博物館へ行った。早良区百道浜にあるが、百道を「ももち」と読むのは難しい。博物館は広大な敷地に建っているが、建物の大きさにも驚いた。実に広々としている。餓になったので食堂で腹ごしらえをした。2200m^2もある総合展示室には、対外交流史をメインテーマに、福岡の歴史を展示している。教科書の記述はともかくとして、史実としては、国際的に我国を代表する政権は7世紀まではこの地域にあったことは確実である。金印をはじめとして、そのことを裏付ける豪華な出土品が多数展示されている。しかし、展示されている本物の金印は「新品同様」、無疵で実にきれいである。田圃の中から発見されたというにしてはきれい過ぎないかしら。それにしても、これほど立派な市立博物館は他にはない。九州では「福岡の一人勝ち」といわれているが、十分に説得力がある。
 平和台球場跡地にある鴻臚館跡を見に行くことにした。発掘調査中で「鴻臚館跡」と書かれた碑が建っているだけだと思って行ったら、「鴻臚館」と書かれた真新しい立派な建物が建っているではないか。野球場の跡地だから武道館でも建てたのかと思って覗いてみたら、何と中は遺跡だった。発掘した遺跡を建物で囲った、兵馬俑方式である。入場無料である。最終入館時間の16時30分ぎりぎりだったが、見学時間は17時までだから慌てる必要はなかった。説明書には「鴻臚館は古代における我国の外交施設であり、・・・、7世紀後半から11世紀にかけてこの地にあった」と書かれていて、例によって大和朝廷が設置したものということになっているが、科学的な年代測定の結果によればこの施設は400年代から使用されていたことが判明している。『隋書』の記述「都の郊外で隋使裴清を歓待した」はまさにこの場所だったに違いない。歓待した主人は勿論大和朝廷の聖徳太子ではなく、九州王朝の多利思北狐である。
   日出づる処の天子黄砂舞ふ
   ニイハオと春風招く鴻臚館
 球場跡では発掘調査が続けられているから、兵馬俑のように2号館、3号館が建てられるかも知れない。
 今回も史跡を回ってみて、古代史が科学的に解明されていないことを身をもって実感した。教科書や史跡の説明板の記述が改訂される日が一日も早いことを願って已まない。