知らざぁいって聞かせやしょう

 江の島には大学に入学して直ぐに、観光バスに乗って訪れたことがあるが、40年以上前のことであるから、随分変わっているに違いない。というわけで、忘月忘日江の島を訪れることにした。8時45分に出発して、小田急江の島線に沿って一路南下し、10時15分に江の島に着いた。前日の雨が嘘のように晴れ上がり、気温も高く、絶好の日和である。難を言えば、少々風が強いが、気にするほどのことはない。後で聞いたニュースで「栃木県内で強風のため家屋が倒壊した」と報道されていたから、相当な強風だったらしい。
 絶好の日和であるが、早く出かけてきただけあって、一番便利な駐車場に車を停めることが出来た。青銅の鳥居をくぐると、土産物屋などが軒を連ねている。江の島といえば「弁天小僧」であり、三浦洸一の唄が頭に浮かぶ。
  ♪牡丹のような お嬢さん
   しっぽ出すぜと 浜松屋
   二の腕かけた 彫り物の
   桜に絡む 緋縮緬
   知らざぁいって 聞かせやしょう
   おっとおいらは 弁天小僧菊之助

  ♪以前をいやぁ 江ノ島の
   年季づとめの お稚児さん
   くすねる銭も 段々に
   とうとう島を 追われ鳥
   噂に高い 白浪の
   おっとおいらは 五人男の切れ端さ

  ♪着慣れた花の 振袖で
   髪も島田に 由比ヶ浜
   だまして取った 百両も
   男とばれちゃ 仕方がねえ
   突き出しなせえ どこへなと
   おっとどっこい 晒は一本切ってきた

  ♪素肌に燃える 長襦袢
   縞の羽織を 南郷に
   着せ掛けられて 帰りしな
   にっこり被る 豆絞り
   鎌倉無宿 島育ち
   おっとどっこい 女にしたい菊之助
 鳥居をくぐって直ぐ右側に、その弁天小僧が稚児をしていたといわれる岩本院の跡がある。「岩本院の稚児あがり、普段着なれし振袖から、髷も島田に由比ヶ浜」の台詞で有名な、河竹黙阿弥の「白浪五人男」の舞台であり、現在は岩本楼という旅館になっている。土産物屋が並ぶ坂を登っていくと、田寸津比売命が祀られている赤い鳥居の江島神社(辺津宮)があり、その先に弁財天がある。奉安殿は入場料300円で「秘宝 八臂弁財天像 妙音弁財天裸像」と書かれている。銭洗い池で100円玉を洗い、銭が貯まるように祈った。大銀杏のまわりには絵馬が鈴なりに掛けられている。
 江島神社(中津宮)には市寸島比売命が祀られている。朱塗りの社殿の前庭には菊五郎、菊之助父子の手形、菊五郎手植えの枝垂れ桜、菊之助手植えの枝垂れ梅、梅幸手植えの枝垂れ梅など歌舞伎に縁のものが並んでいる。法政大学工学部建築学科古川研究室の学生達が、教科書に載せるための資料作りだといって、本殿の測量をしていた。
 江の島フォトミュージアム「片野写真館」には昔懐かしい写真が飾られていた。島の一番高い所は海抜60.4mであり、富士山を目の前に望むことが出来る。一片の雲もなく晴れ上がっていて、素晴らしい眺めである。伊豆大島もはっきりと見える。頂上の直ぐ下に大きな丸い屋根の江の島大師があり、少し離れた所に展望灯台のタワーが建っているが、どちらもこの島に似つかわしくない。「一遍上人成就水道」と書かれた石柱が立っていて、水が湛えられている。一遍上人が水に窮する島民を助けるために掘り当てた井戸ということである。新庄の「柳の清水」の例もあるので、水道管がないかと注意深く覗いてみたが、見当たらなかった。群猿奉賽像庚申塔という石柱があり、4面に36匹の猿が様々な姿で刻まれている。
 多紀理比売命が祀られている江島神社(奥津宮)の神門の天井には酒井抱一原画の八方睨みの亀が描かれている。頼朝寄進の鳥居があるがコンクリート製ではないかと疑った。かつて訪れた古河の頼政神社に「文化十年」と刻まれたコンクリート製の鳥居があり、日本の工業技術は定説よりも遙かに早く発展していたらしいのに驚いたことがあったのを思い出したからである。ここにも大銀杏があり、亀石、力石などがある。江島神社は宗像大社のミニチュア版である。
 海岸に下りると稚児ケ淵に
   疑ふな潮の花も浦の春
という芭蕉の句碑がある。因みに、この句は二見浦の夫婦岩を描いた絵の画賛である。海は満潮で、うち寄せた波が白い泡となって岩を洗い迫力ある光景であった。右手に波飛沫を受けながら進んで、「岩屋」に入った。入場料500円である。入って直ぐの所に与謝野晶子の歌碑
   沖つ風吹けばまたたく蝋の灯にしづく散るなり江の島の洞
がある。渡された手燭を持って窟内を探索した。
 ルートは岩屋で行き止まりになっているので、来た道を引き返さなければならない。山頂にある「魚見亭」に登楼してサザエの薄切りを玉子でとじた江の島丼と味噌汁で腹ごしらえをした。日当たりがよく暑いので、窓を開けて風を入れた。目の前を鳶がピーヒョロロと美しい声で啼きなが飛び交っている。帰り道は人が多くて、銀座、新宿並みの混雑であった。展望灯台の下に生えている樹木が風のために地にへばり付くようになっているのが面白い。
 児玉神社があるので「おや、児玉先生は神様になったか」と思ったが、そうではなく、児玉源太郎大将を祀る神社だった。青銅鳥居の外には海産物を売る土産物屋が並んでいる。「地さざえ」「活はまぐり」と書かれているのを見ると、さざえは地元産で、はまぐりは輸入品らしい。水の中で活きているはまぐりに「焼きはまぐり」と書いてあるのが可笑しかった。四十数年ぶりに江の島を訪れたことになるが、前回訪問の記憶は全く蘇らず、曽遊の地という感慨はない。覚えているのは、観光バスに乗ったこと、太陽生命鹿児島支社のオバサン達と一緒だったことだけである。
 江の島見物を終えて走り出したが、来たときとは違って大変な渋滞である。先程来た道を引き返して、藤沢の白旗神社に行った。かなり大きな神社で、寒川比古命と源義経が祀られている。拝殿に掛けられている鈴が変わっていて、小さな鈴を40個ほど集めて大きな鈴の形にしてある。義経藤、弁慶藤、弁慶松などがあり、芭蕉の句碑
   草臥亭宿かる比や藤乃華
がある。境内には源義経公鎮霊碑がある。
 鎌倉に送られてきた義経の首が首実検の後片瀬の浜に捨てられ、それが潮に乗って境川を遡ってこの辺りに漂着し、それを里人が拾い上げて洗い清めた井戸であると伝えられている「源義経首洗い井戸」がこの近くにあるはずだが、場所が分からないので近くのローソンに寄って聞いてみた。実は、インターネットで「ローソンによって聞いた」という記述があったのを見てそれに倣ったのであるが、ローソンでは迷惑に思っているかも知れない。白旗交差点の直ぐ脇の横道を入った所に、井戸と首塚があった。首塚は武蔵坊と亀井、片岡、伊勢、駿河の四天王も一緒である。随分温かく、気温は18度になっていた。
 直ぐ近くにある時宗の総本山遊行寺を訪れた。一遍上人を開祖とする時宗は、4代呑海上人の時にこの地に総本山を開いた。この寺の正式な名称は清浄光寺である。大銀杏がある境内には紅梅と白梅が咲き競っている。本堂裏手にある小栗堂の裏には、小栗判官と照手姫の墓や名馬鬼鹿毛の墓がある。板割浅太郎の墓があると書いてあったので是非お参りしたいと思ったが、墓地が広すぎて見つけられなかった。
 横浜市栄区にある田谷の洞窟へ急いだ。ここは真言宗定泉寺で、洞窟は正式名称を田谷山瑜伽洞という修験道場だった。入洞料400円を払い、手燭を持って洞に入った。一人が楽に通れる程度の洞窟が実に複雑に堀巡らされている。説明によれば、上下3段、延長1km余りであるというが、よく鎌倉時代から江戸時代にかけてこんなものを掘ったものだと感心する。壁や天井に様々な仏像が刻まれている。一番奥と思しき辺りに弘法大師が祀られている。大師像の脇には「金剛水」が流れ落ちていて、右手の人差し指で病む所に付ければ治るというので、取り敢えず頭に付けた。洞内は湿度が高く、壁面は湿っていて、下を水が流れている。電灯の回りには羊歯が青々と生えているのが印象的だった。
 「戸塚」の名前の元となったといわれる富塚八幡に行ってみた。駐車場が見当たらないので、レストランサイゼリアに車を停めた。石段の下に芭蕉の句碑
   鎌倉を生きて出けむ初松魚
がある。真新しいと思ったら、嘉永2年に当地の俳人達が建立したものを平成12年に再建したと書かれていた。ここの祭神は誉田別命と富属彦命である。例によって、土地の神が中央の神に首座を譲ったのであろう。
 最後に護良親王首洗いの井戸を訪ねてみたいと思ったが場所が分からない。護良親王の弔いをしたという成正寺に寄って聞いてみたら直ぐに分かったが、井戸ではなく、首を祀るために4本の杭を打って祭壇を作ったといわれる「四つ杭跡」だった。既に暗くなっていたので、残念ながら首洗い井戸は割愛して帰路に就いた。