朝起きてみると外は素晴らしい青空である。9時に出発して松島へ向かった。芭蕉達は塩竈から舟で松島へ行ったが、私は車で行った。車を有料駐車場に止めて、先ず瑞巌寺に寄った。凝灰岩の岩に作られた数多くの巌窟や磨崖仏があり、全国33の寺の“エイリアス”が置かれている。ここで各地の主要な寺に参拝することが出来るネットワークシステムであろうか。瑞巌寺の中興雲居禅師は
縦横の五尺に足らぬ巌の庵結ぶもくやし雨なかりせば
と詠んだかどうか分からない。
芭蕉翁奥の細道松島の文碑は直方体で、正面に『奥の細道』の一節が刻まれ、左右と裏には12の句が記されている。他に句碑が多数あるが論評の対象にはならない。松島と象潟は「紅蓮尼と小太郎」の伝説により夫婦町の契りを結んでいる。「軒端屋」という土産物屋の前に「軒端の梅」があり、紅蓮尼の歌
植え置きし花の主ははかなきに軒端の梅は咲かずともあれ
咲けかしな今は主とながむべし軒端の梅のあらんかぎりは
と合歓の木がある。この店の庭にある柏槙(いぶき)の木は複雑に曲がりくねっていて面白い。
橋を渡って雄島へ行って見た。ここにも巖窟や磨崖仏がある。橋を渡って直ぐの所の岩に“摩羅仏”が並んでいるのを真剣に拝んでいるオジサンがいた。御利益があるのかしら。この島には実にたくさんの碑がある。芭蕉の句碑
朝よさを誰まつしまぞ片心
曽良の句碑
松島や鶴に身をかれほととぎす
をはじめとして、数え切れないほど句碑や歌碑がある。この芭蕉の句には季語がない。句碑、歌碑以外にも六角堂に納められている頼賢の碑などたくさんあり、戒名を刻した石塔や供養碑も多い。島は紅葉の盛りであった。
『奥の細道』には芭蕉が作った松島の句は載っていないし、松島では句を作らなかったことになっているが、実際には
島々や千々に砕きて夏の海
は松島で詠んだ句である。広く知られている「松島やああ松島や松島や」は、江戸時代後期に相模の国の田原坊という人が作ったもので「松島図誌」の中に見られる。正しくは「松嶋やさてまつしまや松嶋や」である。流石の芭蕉も眺めは素晴らしいけれど特段の故事来歴などがない松島を前にして、満足できる句が作れなかったのであろう。芭蕉の心境は
松島を目の前にして困るなり
だったに違いない。芭蕉が尾花沢で作った「涼しさを我が宿にしてねまるなり」「眉掃を俤にして紅粉の花」は幾らでも応用が利く。
先程来たときには幾らも人がいなかったが、今は大変な人出で、駐車場も満車になっている。早く出てきて良かった。
松島を後にして三陸道を走り、石巻の日和山公園に行った。ナビゲーターの指示に従って公園の登り口まで行ったが、もの凄い急坂で気後れがして別な道から登った。ここは石巻城趾といわれている場所である。シキザクラが咲いていた。ここも紅葉がきれいだった。斎藤茂吉の歌碑、芭蕉と曽良の像、宮沢賢治の碑に混じって新田次郎の歌碑
北上川の尽きるところのかすみにはなおとまどいの青き波かな
や、石川啄木が中学5年で修学旅行に来たとき詠んだという
砕けてはまたかへしくる大波のゆくらゆくらに胸おどる洋
の歌碑もある。伊達政宗の命で北上川改修工事の責任者を勤めた川村孫兵衛の像が立っている。ここからは北上川の河口や市の全景が一望できる。鹿島御児神社の境内には
雲折々人を休める月見かな
の句碑がある。先程登るのを躊躇った急坂を下って、北上川沿いに北上して登米(とめ)郡登米(とよま)町に向かった。北上川は流れているのが分からない位ゆったりとしている。途中で「桃生」という所を通った。「ももう」ではなく「ものう」と読む。登米は古い建物が残っていて興味深い所であるが、今日は時間がないので北上川畔にある「芭蕉翁一宿之跡」に寄るだけにした。かりんとうの大袋を買って、平泉へ向かった。若柳・金成から東北自動車道に入り平泉・前沢で下りて、中尊寺を訪ねた。
関山中尊寺は慈覚大師の開基と伝えられる天台宗東北大本山である。月見坂を登る途中の東物見台からは北上川や束稲山の素晴らしい眺めが見られる。ここに弁慶堂があり、弁慶の等身大の像が安置されている。直ぐそばに西行の歌碑
ききもせず束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは
がある。少し上の地蔵堂にも同じ歌の碑がある。坂を登り切ったところに本堂があり、その先に金色堂があり、その名の通り鞘堂の中で燦然と輝いている。金色堂の脇に句碑
五月雨の降残してや光堂
があり、その先にある旧鞘堂の脇に芭蕉の像がある。金色堂を詠んだ句としては芭蕉の句より
秋の日の暮れ残してや光堂
の方が優れているのではなかろうか。どうやら俳聖芭蕉を上回る句が出来たようだ。
山を下りて東北本線の踏切を渡ったところに「卯の花清水」と曽良の句碑
卯の花に兼房見ゆる白毛かな
がある。古来、この地に霊水が湧き、里人はこれを「卯の花清水」と名付け大切にしてきたという。兼房は、文治5年(1189年)4月30日、義経一家の最期を見届けた後、白髪を振り乱して敵の大将と戦い、大将諸共火の中に消え入ったとされる強者である。
隣にある丘が「高舘」である。高館は、その昔、源義経が藤原秀衡を頼って下向した時に居城したところで、秀衡の子泰衡によって家臣や妻子もろとも討たれたところでもある。坂を登ったところに義経堂と「奥の細道三百年平泉芭蕉祭記念句碑」
夏草や兵共が夢の跡
がある。ここからの北上川や衣川の眺めは絶景である。
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
衣川緑あふれて義経忌
是非初夏に再訪したいと思う。
駐車場に戻る途中で、中尊寺の登り口のそばにある弁慶の墓と句碑
色かへぬ松のあるじや武蔵坊 素鳥
がある。素鳥は中尊寺の僧である。
毛越寺に着いたときは16時15分だった。「本日の拝観は終了しました」と書いた看板が立てられていたが、聞いてみたら「いいですよ、どうぞ」ということで入ることができた。ここも慈覚大師の開基と伝えられている。山門を入った先の右側に
夏草や兵共が夢の跡
の句碑が2基ある。小さい方は、芭蕉の真筆を写したもので、高館に建てられていたが明和6年(1769年)に毛越寺に移されたという。左側には新渡戸稲造が翻訳した英文句碑がある。
The summer grass-It is all that's left of ancient warriors' dreams
大泉ヶ池は水が少なかった。かなり暗くなってきたので急いで庭園を一巡りして退出した。
一関から古川まで東北自動車道を走り、国道47号線に入って鳴子へ急いだ。途中、小黒崎観光センターに寄って芭蕉の像に敬意を表したが、既に真っ暗になっていたので小黒崎を見ることはできなかった。直ぐ近くにある「美豆の小島」も見ずじまいだった。次回に期待しよう。
小黒崎美豆の小島も見ずじまい
鳴子温泉の「ゆさや」に着いたのは18時30分頃だった。夕食前に軽く一風呂浴びた。内湯は「うなぎ湯」といわれるアルカリ泉で鰻のようにぬるぬるする。当館が管理している隣の共同浴場「滝の湯」は硫黄泉で樋から湯が落ちている。その隣には温泉神社と啼子之碑がある。最上の瀬見で生まれた義経の子がここで産湯を使って初めて泣いたことから「鳴子」といわれるようになったという。躑躅や松などの木に厳重な雪囲いがしてある。この辺りは積雪もさることながら地吹雪が凄いらしく、道路にも地吹雪除けの柵が立てられている。「ゆさや」は1632年から続いている鳴子最古の宿で、当主は17代遊佐勧左衛門である。当主の話によれば、遊佐一族は元々は上杉家の遊佐七騎であったが、最上を経てこの地に移り「湯守遊佐勧左衛門」として「ゆさや」を続けており、山形県の遊佐に端を発するもう一つの遊佐一族は「関守遊佐勘解由」として尿前の関を守ってきたという。
朝起きてみると雨が降っている。
空白み時雨しと降る山の宿
「蚤虱馬が尿する枕元」よりは余程きれいな句である。芭蕉を凌いだといっていいだろう。今回の旅は11月末とあって雪を心配したが
初雪の降り残してや光堂
初雪や旅人共が下駄のあと
とならなくてよかった。朝風呂に入り、17代遊佐勧左衛門、17代遊佐勧左衛門夫人の美人女将、18代遊佐勧左衛門予定者達に見送られて出発した。国道47号線を少し走ったところに尿前の関跡があり、門と柵が建てられている。門前に
蚤虱馬が尿する枕元
の句碑があり、下の公園には芭蕉の像や尿前の関の碑がある。傘を差しながら見物した。芭蕉達はパスポートを持ってこなかったためにここで関守遊佐勘解由に油を絞られたという。今ここで「関の茶屋」を経営している遊佐さんは関守遊佐勘解由の子孫であろうか。
47号線に戻り、暫く行って中山峠を越えて最上町に入ったところの右側に「封人の家」がある。これは旧有路家の住宅で、「封人の家」とは国境を守る役人の家のことである。11月一杯で閉めるということだったので幸運だった。この建物は1973年に3030万円かけて改修したという。雪囲いをする作業をしていた。庭に小宮豊隆の書になる句碑
蚤虱馬が尿する枕もと
がある。芭蕉達はここで雨に降られて2泊3日の滞在を余儀なくされ「三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す」と記している。『奥の細道』を当主が見たら怒ったのではないかと思うが、この家は枕元ではないけれども家の中に厩があるので、馬が尿する音は聞こえたであろう。国道の向側にある「封人の家資料展示室」に寄ってみた。芭蕉真跡の短冊や句碑の拓本などが展示されている。猟師や農民のかぶる「なたぎり」という帽子が展示されているのが興味を引いた。これから越える山刀伐峠の名前がこの帽子に由来するとは知らなかった。
柴つ希し馬のもと里や田植たる
の句碑が最上町向町所在と説明書きにあるが、教科書には載っていないのでオバサン(室長?)に聞いてみたら、「国道を行って最初の信号を右折した先に五十嵐ガス店があり、その傍にあります」と教えてくれた。半信半疑で国道を走って行ったが行けども行けども信号がない。「いい加減なことを教えられたらしい。諦めた方がいいかな」と思っていると、やっと信号があった。右折してみると直ぐに五十嵐ガス店があるではないか。然し、句碑は見当たらない。車を停める場所を探してもう少し先迄行って見たら、もう一軒もっと大きな五十嵐ガス店があった。その隣が最上町商工会館だったので、そこに車を停めて中に入って聞いてみた。隣の五十嵐ガス店に電話して聞いてくれたところ「うちの前にある」ということだった。この電話のやりとりは生粋の最上弁らしく殆ど分らなかった。前に回ってみると、「湯殿山」の大きな碑と並んで先程の拓本の句碑があった。あの室長は実に正確に教えてくれたのだ。感謝感謝。ここは最上町のど真ん中だった。因みに、この句は「馬に柴を付けて、売りに来た農夫が、田植えの振舞酒を詰めた樽を付けて帰って行く」という意味である。帰りに見たら、小さな五十嵐ガス店の近くにも大きな「湯殿山」の碑があったが、句碑はなかった。
国道を少し引き返して、県道28号線に入り、赤倉温泉を通って山刀伐峠に向かった。山刀伐トンネルの入口から旧道に入ったら、「27曲がり」といわれるだけあってヘアピンの連続する大変に狭い急な坂道だった。万一対向車が来たら進退谷まるところだったが、幸にして一台も出会わなかった。今頃雨の中をこんな所に来る物好きはいないだろうと思ったが、頂上の駐車場に着いてみると4台も停まっているではないか。芭蕉達が通った旧出羽街道は「歴史の道」として保存されている。駐車場から「歴史の道」を少し登ったところが峠の頂上で、加藤楸邨書の「奥の細道碑」と子持地蔵、子持杉があった。芭蕉は「今日こそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。・・・高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜行がごとし。・・・」と記しているが、あの時代にこの峠を越えるのは並大抵のことではなかったと思われる。
山刀伐の子宝地蔵初時雨
尾花沢側に下りる道は楽だった。一方の坂が急でもう一方がなだらかな形が「なたぎり」に似ていることからこの峠の名前が付けられたという。県道28号線に合流して尾花沢へ向かった。道路沿いには地吹雪除けの柵が続いていたし、殆どの家が雪囲いをしている。これからこの地方では長い厳しい冬を迎えることだろう。それにしても、この辺りの庭木の雪囲いは何とも厳重である。
先月来たときに大石田の寺で工事のために芭蕉の句碑を毛布に包んであったが、流石にもう完成しているだろう。確認していこうと思ったが、寺の名前を思い出せない。大石田町の役場によって聞いたら直ぐに分かった。西光寺である。勝手知ったる道を通って西光寺へ行って見ると、こは如何に。完成しているどころか殆ど跡形もなくなり、新たにコンクリートの土台が作られている。何か新しい建物を建てるらしい。句碑は前と同じ場所に毛布にくるまったまま鎮座している。この分では来年までかかりそうである。
山寺に向かう途中で、天童にある旧村山郡役所資料館に寄った。庭に
行く末は誰が肌触れむ紅粉の花
と
古池や蛙とびこむ水の音
の句碑がある。
いよいよ今回の西の横綱「山寺」である。芭蕉記念館に行ってみたら「本日休館」だったので、登り口の近くにある駐車場に車を停めた。見上げると実に高い。
山寺を目の前にしてびびるなり
まだ雨が降っているので傘を差しながらの山登りである。登り口にある根本中道の隣に
閑さや巌にしみ入蝉の声
の句碑があり、大銀杏や亀の甲石などもある。その少し先に「閑さや」の句を刻した芭蕉顕彰碑と芭蕉と曽良の像がある。山門をくぐって石段を登り始めた。ここからが大変である。道沿いには墓石や供養碑、卒塔婆などが密集している。中には下手な句を刻した碑も見られる。
石塔に駄句を刻みて成仏し
随分登ったと思う所に「せみ塚」があった。ここで大体半分だという。登り詰めたところにある五大堂からの眺めは素晴らしかった。
閑さや岩にしみ入る雨の音
といいたいところであるが、工事用のロープウェイの音がうるさかった。五大堂の展望台で景色に見とれていたらアメリカ人らしいカップルが登ってきた。展望台の欄間に名刺が一杯挟んである。中には市会議員などというのもあった。この辺りは既に紅葉は終わっていたが、一本だけきれいな紅葉があった。小さな三重の塔が岩屋に納められていた。奥の院の前に郵便ポストがあるけれど、毎日集めに来るのかしら。山頂付近にはたくさんの「院」や「堂」があり、坊主が修行のために住み込んでいる。狭い畑を耕している所もあった。こんな山の上で飲み水はどうしているのかしら。
雨水を飲み水にして暮らすなり
下山する頃にはほぼ雨が上がっていた。飢になったので茶店に入って腹ごしらえをした。食べ終わって外に出てみると真っ暗になっていた。山形北から山形自動車道に入り、東北自動車道、外環、首都高速と全く渋滞がなく、ノンストップで帰ることが出来た。山寺から家まで5時間だった。
今回は全行程1179kmの大旅行だったが、『奥の細道』の重要な所を訪ねることができて、実に有意義だった。