腕と度胸じゃ負けないが

 今回は山住総長の病気平癒と邪気退散の祈願に山住神社へ代参するのが目的である。山住神社のある水窪町は遠州森町に近い。遠州森町といえば森の石松縁の地であり、石松の養家が今でも割烹旅館を続けているので、是非泊まってみたい。更に、水窪町から県境を越えて信州に入れば老朋友Lincolnの産地である天龍村の大河内があるので、そちらにも寄ってみたい。
 曇っていて富士山は全く姿を見せなかったが、「旅姿三人男」を聴きながら快調に走って掛川で下り、袋井市にある法多山尊永寺へ行った。高野山真言宗別格本山で行基上人の開基といわれている。古い山門を入ると長い参道が続き左側に建物が配置されている。本坊の前には「東照神君徳川家康公御手植之松」があり、なかなかの風格を具えている。その先には、法多山名物だんご企業組合の売店がある。だんごチケット売場の自動販売機で券を買ってから店に入って厄除け団子を受け取る仕組みになっている。子供の小指程の団子に小さい串を刺した物が5個くっついていてそれにあんこが乗せてある。大きな無患子の木があるが実が付いていない。本堂との間の坂の途中に行者窟岩屋観音がある。なだらかな石段を登ったところに真新しい本堂が建っている。何故か三つ葉葵と五三の桐が並んでいる。今ここに登ってくるとき、団子屋の裏から来たので些か「変だな」と思っていたが、上に来てみて驚いたことには、本堂正面の参道の大きな石段が完全に崩れ落ちているではないか。掃除をしていたおばさん達に聞いてみたら、先日の台風で土砂崩れが起きたのだという。正面の参道が通れないので嫌でも団子屋の中を通ることになり、だんご企業組合は秘かに喜んでいるに違いない。
 餓になったので門前で昼食にしようと思い「割烹 山田」と書かれている店に入ってざるそばを食べた。先日来風邪を引いているせいかも知れないが、ざるそばは最近食べた中では際だって不好吃だった。
 次に、「目の霊山」といわれている医王山油山寺へ行ってみた。真言宗智山派の寺で孝謙天皇勅願所であり、ここも行基上人の開基といわれている。大きな注連縄が掛けられていて変わった山門だと思ったら、元掛川城の大手門だったものを移築したと書かれている。山門を入ったところに樹齢1100年の「天狗杉の根」が飾られていて割れ目にたくさんの1円玉が差し込まれている。これは枯れてしまって根だけであるが、境内には大きな杉がたくさん生い茂っている。お参りする時に鳴らす鈴と並んで大きな数珠が滑車に吊されていて、引くと玉がぶつかる音がするようになっている。驚いたことには、長さ120m、重さ250kgという「世界最大の念珠」が廊下の鴨居にめぐらされていて、拳大程の玉には一つ一つ名前が書かれている。「瑠璃の瀧」といわれる高さ4m程の細い瀧があり、その水で洗顔したら孝謙天皇の眼病が全快したと伝えられている。水しぶきがかかって効き所を間違えることがないように念じつつ写真を撮った。この寺の本尊は薬師瑠璃光如来である。
   世を照らす瑠璃の光のともしびは油の山の嶺の月影
 境内で重度知的障害者の団体と一緒になったが、彼等は歩くのが実に早いのに感心した。
 我々も遠州森町へ急ぐことにした。森町といえば森の石松である。
  ♪腕と度胸じゃ 負けないが
   人情からめば ついほろり
   見えぬ片目に 出る涙
   森の石松 森の石松 良い男

 先ず、石松の墓がある橘谷山大洞院へ行くことにした。寺の前に「侠客石松之墓」と「清水次郎長翁碑」が並んで建っている。御利益を期待して墓石を欠いていく人が多く、現在の墓石は3代目だそうだが、既に字の周囲はかなり削られている。「金比羅大権現」の碑は金属の柵で厳重に囲んである。墓の前で仁義を切る格好をして写真を撮った。
 次に遠江国一宮小国神社へ行ってみた。「国幣小社」と書かれている。大国主命を祀る神社で境内には大きな杉の木が多く、樹齢1000年を越える大杉の根が飾られている。徳川家康が敗戦の後この石に座って再起したと伝えられる「家康公立ち上がりの石」に座ってみた。バイアグラストーンというべきか。
 「萩の寺」として知られる八形山蓮華寺へ行ってみた。ここも行基上人の開基と書かれている。寺の前に歴史民俗資料館があり「16時30分まで」と書かれている。時計を見たら16時25分だったので「駄目かな」と思ったが玄関まで行ってみたら、館長らしきおじさんが「どうぞどうぞ、時間は気にしなくて結構ですから」といって歓待してくれた。この建物は明治18年に建てられた旧周智郡役所で玄関には「所役郡知周」の看板が掛けられている。館内は所狭しと資料が展示されている。三州瓦と遠州瓦の違い、不思議な圧力釜のこと、隣の寺にあった黒塗りの飯櫃は実は首を容れた物ではないか、・・・、等色々と説明してもらい、明日の行程に関するアドバイスまでしてもらった。私の観察では、この館長は学校の先生を定年になった後嘱託としてここで働いているのではないかと思う。萩の寺はその名の通り、境内一杯に萩の木が植えられている。残念ながら既に花は終わっている。「萩には猪が似合う」と思ってよく見たら、小さな猪の置物があった。境内の一角には、石を彫って作った小さな五輪の塔が沢山並べられている。今では小さな寺だが全盛期には36の坊舎をもっていたという。
 薄暗くなってきたので天宮神社へ急いだ。宗像神社の祭神を遷して祀ったと書かれているが、それ以外にも随分大勢の神々の名前が書き連ねられている。樹齢約1000年という竹柏の巨木があり、天然記念物に指定されていて、佐佐木信綱先生の歌碑
   天の宮神の見前をかしこみと千歳さぶらふ竹柏の大樹は
がある。
 今夜の宿「割烹旅館 新屋」は天宮神社の隣にある。早速「石松」の間に案内された。二階の裏手にある6畳間である。「石松」と書かれた小さな部屋札とは別に「森乃石松部屋」と書かれた大きな看板が掲げられ、清水28人衆の名前を染め抜いた暖簾も掛けられている。九州出身だという65才位の仲居さんが色々な話をしてくれた。「この建物は安政3年に建てた」「石松はこの部屋に7才から14才まで住んでいて、その後次郎長に引き取られた」「この部屋で博打をしていた」「手入れがあったとき直ぐに逃げられるように昔は床の間がどんでん返しになっていたが20年程前の“七夕台風”のときの土砂崩れで潰れて修復したときになくしてしまった」「屋根を伝って逃げたこともよくあったらしい」「階下の声はこの部屋に聞こえるが、この部屋の声は階下に聞こえない」「部屋の前の柱に刀傷が残っている」・・・。部屋の前の柱には確かに刀傷がある。喉が渇いたのでお茶を入れて飲んだ。常滑焼の急須に極上の茶葉だったが、変な臭いがする。
 森町は秋葉神社の参道で町内には今でも多数の常夜灯が残っているというので、落ち着く前にそれを見に行きたいと思い、若旦那から道を教えてもらって、少し先の城下という集落まで行ってみた。2m角で高さが3m程の立派なもので、御前崎にある寛永年間に作られたという日本初の行灯灯台「尾見火燈明堂」の半分よりは大きい。常夜灯というには余りにも大きく立派なのに驚いた。

 雨の音で目が覚めた。雨は一向に止む気配がない。気温は高くないが湿度が高くむしむしするのでずっとエアコンを除湿にして付けておいたが旧式な機械のせいか一向にカラッとしない。シャワーを浴びてから朝食を食べた。今朝は瀬戸物の急須で変な臭いもなく当地自慢の「森のお茶」が美味しく飲めた。食事をしている間に雨は小降りになってはいたが、スーパー林道水窪森線を通って山住神社へ行く道は危ないからやめることにして「急がば回れ」で天竜市、佐久間町経由の国道152号線で行くことにした。国道ならば林道と違って安心である。森町は「遠州の小京都」を自称しているが走りながら見た限りでは何故「小京都」なのか分からない。柿の多い所だと思ったら「次郎柿の原木」という看板があった。
 国道152号線は天竜川に沿っている。雨続きのせいで濁った水が川幅一杯に流れていてなかなか迫力がある。秋葉山に通じる道の橋詰めにある「正一位秋葉神社」と書かれた巨大な灯籠が目に留まったので車を停めて写真を撮った。従七位上の身にとっては正一位は遙か雲の上である。
 初めは立派だった国道が天竜市を過ぎる辺りから段々とセンターラインのない1車線の“国道らしからざる”所が多くなった。典型的なV字谷だから道路を作るのが難しいのは分かるが、これが国道とは情けない。国道152号線を走っていると、相月駅の近くの水窪川に20m程の立派な橋が架けられていて山に突き当たったところで終わっている不思議な物があった。その近くの飯田線のトンネルに扉が付いているのも不思議だった。「昔はトンネルの入口にカーテンが付けられていた」という話をしたが誰も信用しなかった。
 水窪町に入り向市場駅のところから県道389号線「水窪森線」に入ったが、これは大変な“酷道”である。狭い上に至る所に石や木の枝が転がっている。先日の台風のなせる業だろうと思うが恐ろしい。更に、あちこちの崖から水が溢れ出て道路に流れてきている。昨夜来の雨で山全体が水膨れになっているのだろう。途中に布瀧という瀧があったが雨が降っているので車の中から写真を撮っただけで先を急いだ。何時落石に見舞われるか分からない緊張感で12〜3kmの道が実に遠く感じられた。
 霧が薄くなったと思ったら山住峠だった。海抜1107mと書かれている。車から降りてみたら大変に寒い。気温は15度だった。社前にある土産物屋は店を閉めている。鬱蒼とした杉の大木の林の中に山住神社がある。特に樹高40mと41mという巨大な杉が2本並んでいて何れも樹齢1300年という。山住神社の祭神は大山祇神で、元明天皇の時に伊予の国の大山祇神社から遷祭したという。大山祇神は「山の神」であるが、物の本によれば、「酒の神」でもあるらしいから山住総長とは浅からぬ縁の神といえる。参道に直角に配置されている立派な本殿にお参りして総長の健康回復と邪気退散を祈願した後お札を買いに行ったら、先程まで炬燵で居眠りしていたおじいさん(禰宜?)がいない。開けっ放しておかしいなとは思ったが「御用の方は控室まで」と書かれているので本殿の奥にある控室に行って声を掛けたら出てきてくれた。お札を2種類6枚、お守り2個と掛け軸を買ったら、老禰宜が計算するときに掛け軸の分を忘れたらしく随分安く上がった。因みに掛け軸は5000円である。掛け軸を包んである紙が虫に食われて穴だらけになっているところをみると、殆ど売れていないらしい。今日は生憎の天気ではあるが、そうでなくてもここまで来るのはそう簡単ではないから、それ程参拝客が多くはないだろう。ともあれ、これで今回の主たる目的を果たすことができてほっとした。
   水窪に過ぎたるものがふたつあり杉の林と山住の宮
 先程の道を引き返したが、帰りは随分近く感じられた。佐久間町まで戻り、佐久間ダムに寄ってみた。かつては日本最大のダムだったが、黒四ダムが出来てからは影が薄くなった感がある。
 佐久間湖沿いに天龍村に抜けようと思ったがこの天気ではやめた方がよさそうである。折角のお札を届ける前に土砂崩れに遭って佐久間湖の藻屑と消えるわけにはいかない。
 飯田線沿いに東栄町まで下って国道151号線に入り北上した。餓になったのでパンとソーセージを買って食べながら走った。151号線も酷道である。天竜川は切り立ったV字谷だから止むを得ないとしても、この地域は酷道ばかりである。今日は幸いにして交通量が少ないからいいけれども、紅葉のシーズン等にはどういうことになるのか心配である。
 やっとのことで新野峠に辿り着くことが出来た。ここまで来ればLincolnの故郷天龍村大河内は目と鼻の先である。如何にもそれらしい貧相な道を下って行くとキャンプ場があった。その先にLincoln家の茸畑がある筈だが、それが見つからないうちにLincolnの伯父上が経営する養魚場に出た。恐らく大河内最大の企業であろう。その先に西開土百貨店がある筈だがと注意しながら徐行していると看板が目に付いた。2階建ての大きな家であるが一見しただけでは普通の住宅である。フイルムがなくなりかけていたので寄ってみた。Lincolnの後輩である社長は「フイルムはあったかなあ」等といいながら暫く考えて「こんなものしかありませんが」といって4本パックを出してきた。実に立派な百貨店である。
 Lincolnの生家は現在は空き家になっているから、そのつもりで一軒一軒注意深く見ながら下って行くと分教場跡に来てしまった。「天龍村立西方小学校大河内分教場跡」と書かれた立派な石碑が建っていて、寄付者の一覧が刻まれている。Lincolnの伯父上3万円、長兄平八2万円、次兄宗光1万円、Lincoln1万円!!、・・・。早速Lincolnに電話をしたら「まさかあんな物を見に行く奴がいるとは思わなかった。そうと分かっていたら10万円寄附しておいたのに、不覚だった」と悔やむことしきりだった。Lincoln家では長男には東郷平八郎、次男には陸奥宗光に肖って立派な名前を付けたにもかかわらず三男には平凡な名前を付けたのは何故だろう。分教場跡には公民館が建っている。
 ここまで来てLincolnの生家を確認しないで帰るわけにはいかないので、もう一度一軒一軒注意深く見ながら引き返した。位置的にこれ以外にはあり得ないと思われる家は横の窓が開いているので空き家ではなさそうだが、表札を見ると間違いなくLincolnの生家である。廃墟寸前のあばら屋を想像していたから随分新しいのに驚いた。大河内は漠然と想像していたよりはずっと豊かそうである。
 急な坂道をかなり下ったところに「おきよめの湯」があった。「信州最南端の秘湯」と書かれている。自動販売機で入浴券を買って入ってみると、天龍村の村営とは思えない素晴らしい施設である。これで500円は安い。室内には一般浴、気泡浴、圧注浴と3種類の浴槽があり、露天風呂もある。各浴槽の温度がラウンジの壁に表示されている。風呂からあがって五平餅を食べた。横浜ベイスターズの野村投手の色紙が飾ってあったので聞いてみたら、夫人がこの近くの出身だとのことだった。
 武田信玄終焉の地や歌枕として知られる園原等を訪ねた後伊那の越後屋で馬刺を食べて帰る予定をたてて来たが、酷道続きで予想より遙かに時間がかかってしまったので、帰路につくことにした。