雨の音で目が覚めた。雨は一向に止む気配がない。気温は高くないが湿度が高くむしむしするのでずっとエアコンを除湿にして付けておいたが旧式な機械のせいか一向にカラッとしない。シャワーを浴びてから朝食を食べた。今朝は瀬戸物の急須で変な臭いもなく当地自慢の「森のお茶」が美味しく飲めた。食事をしている間に雨は小降りになってはいたが、スーパー林道水窪森線を通って山住神社へ行く道は危ないからやめることにして「急がば回れ」で天竜市、佐久間町経由の国道152号線で行くことにした。国道ならば林道と違って安心である。森町は「遠州の小京都」を自称しているが走りながら見た限りでは何故「小京都」なのか分からない。柿の多い所だと思ったら「次郎柿の原木」という看板があった。
国道152号線は天竜川に沿っている。雨続きのせいで濁った水が川幅一杯に流れていてなかなか迫力がある。秋葉山に通じる道の橋詰めにある「正一位秋葉神社」と書かれた巨大な灯籠が目に留まったので車を停めて写真を撮った。従七位上の身にとっては正一位は遙か雲の上である。
初めは立派だった国道が天竜市を過ぎる辺りから段々とセンターラインのない1車線の“国道らしからざる”所が多くなった。典型的なV字谷だから道路を作るのが難しいのは分かるが、これが国道とは情けない。国道152号線を走っていると、相月駅の近くの水窪川に20m程の立派な橋が架けられていて山に突き当たったところで終わっている不思議な物があった。その近くの飯田線のトンネルに扉が付いているのも不思議だった。「昔はトンネルの入口にカーテンが付けられていた」という話をしたが誰も信用しなかった。
水窪町に入り向市場駅のところから県道389号線「水窪森線」に入ったが、これは大変な“酷道”である。狭い上に至る所に石や木の枝が転がっている。先日の台風のなせる業だろうと思うが恐ろしい。更に、あちこちの崖から水が溢れ出て道路に流れてきている。昨夜来の雨で山全体が水膨れになっているのだろう。途中に布瀧という瀧があったが雨が降っているので車の中から写真を撮っただけで先を急いだ。何時落石に見舞われるか分からない緊張感で12〜3kmの道が実に遠く感じられた。
霧が薄くなったと思ったら山住峠だった。海抜1107mと書かれている。車から降りてみたら大変に寒い。気温は15度だった。社前にある土産物屋は店を閉めている。鬱蒼とした杉の大木の林の中に山住神社がある。特に樹高40mと41mという巨大な杉が2本並んでいて何れも樹齢1300年という。山住神社の祭神は大山祇神で、元明天皇の時に伊予の国の大山祇神社から遷祭したという。大山祇神は「山の神」であるが、物の本によれば、「酒の神」でもあるらしいから山住総長とは浅からぬ縁の神といえる。参道に直角に配置されている立派な本殿にお参りして総長の健康回復と邪気退散を祈願した後お札を買いに行ったら、先程まで炬燵で居眠りしていたおじいさん(禰宜?)がいない。開けっ放しておかしいなとは思ったが「御用の方は控室まで」と書かれているので本殿の奥にある控室に行って声を掛けたら出てきてくれた。お札を2種類6枚、お守り2個と掛け軸を買ったら、老禰宜が計算するときに掛け軸の分を忘れたらしく随分安く上がった。因みに掛け軸は5000円である。掛け軸を包んである紙が虫に食われて穴だらけになっているところをみると、殆ど売れていないらしい。今日は生憎の天気ではあるが、そうでなくてもここまで来るのはそう簡単ではないから、それ程参拝客が多くはないだろう。ともあれ、これで今回の主たる目的を果たすことができてほっとした。
水窪に過ぎたるものがふたつあり杉の林と山住の宮
先程の道を引き返したが、帰りは随分近く感じられた。佐久間町まで戻り、佐久間ダムに寄ってみた。かつては日本最大のダムだったが、黒四ダムが出来てからは影が薄くなった感がある。
佐久間湖沿いに天龍村に抜けようと思ったがこの天気ではやめた方がよさそうである。折角のお札を届ける前に土砂崩れに遭って佐久間湖の藻屑と消えるわけにはいかない。
飯田線沿いに東栄町まで下って国道151号線に入り北上した。餓になったのでパンとソーセージを買って食べながら走った。151号線も酷道である。天竜川は切り立ったV字谷だから止むを得ないとしても、この地域は酷道ばかりである。今日は幸いにして交通量が少ないからいいけれども、紅葉のシーズン等にはどういうことになるのか心配である。
やっとのことで新野峠に辿り着くことが出来た。ここまで来ればLincolnの故郷天龍村大河内は目と鼻の先である。如何にもそれらしい貧相な道を下って行くとキャンプ場があった。その先にLincoln家の茸畑がある筈だが、それが見つからないうちにLincolnの伯父上が経営する養魚場に出た。恐らく大河内最大の企業であろう。その先に西開土百貨店がある筈だがと注意しながら徐行していると看板が目に付いた。2階建ての大きな家であるが一見しただけでは普通の住宅である。フイルムがなくなりかけていたので寄ってみた。Lincolnの後輩である社長は「フイルムはあったかなあ」等といいながら暫く考えて「こんなものしかありませんが」といって4本パックを出してきた。実に立派な百貨店である。
Lincolnの生家は現在は空き家になっているから、そのつもりで一軒一軒注意深く見ながら下って行くと分教場跡に来てしまった。「天龍村立西方小学校大河内分教場跡」と書かれた立派な石碑が建っていて、寄付者の一覧が刻まれている。Lincolnの伯父上3万円、長兄平八2万円、次兄宗光1万円、Lincoln1万円!!、・・・。早速Lincolnに電話をしたら「まさかあんな物を見に行く奴がいるとは思わなかった。そうと分かっていたら10万円寄附しておいたのに、不覚だった」と悔やむことしきりだった。Lincoln家では長男には東郷平八郎、次男には陸奥宗光に肖って立派な名前を付けたにもかかわらず三男には平凡な名前を付けたのは何故だろう。分教場跡には公民館が建っている。
ここまで来てLincolnの生家を確認しないで帰るわけにはいかないので、もう一度一軒一軒注意深く見ながら引き返した。位置的にこれ以外にはあり得ないと思われる家は横の窓が開いているので空き家ではなさそうだが、表札を見ると間違いなくLincolnの生家である。廃墟寸前のあばら屋を想像していたから随分新しいのに驚いた。大河内は漠然と想像していたよりはずっと豊かそうである。
急な坂道をかなり下ったところに「おきよめの湯」があった。「信州最南端の秘湯」と書かれている。自動販売機で入浴券を買って入ってみると、天龍村の村営とは思えない素晴らしい施設である。これで500円は安い。室内には一般浴、気泡浴、圧注浴と3種類の浴槽があり、露天風呂もある。各浴槽の温度がラウンジの壁に表示されている。風呂からあがって五平餅を食べた。横浜ベイスターズの野村投手の色紙が飾ってあったので聞いてみたら、夫人がこの近くの出身だとのことだった。
武田信玄終焉の地や歌枕として知られる園原等を訪ねた後伊那の越後屋で馬刺を食べて帰る予定をたてて来たが、酷道続きで予想より遙かに時間がかかってしまったので、帰路につくことにした。