伊豆の山々月淡く

忘月忘日 小田原厚木道路から国道1号線で箱根を越えて三島から韮山へ行こうと思ってナビゲーターをセットするが、どうやっても小田原厚木道路を通るルートを表示してくれない。何としても東名高速を通らせようとする。小田原厚木道路に恨みがあるのかも知れない。自力で厚木から小田原厚木道路に入ろうとしたが、間違えて東名に入ってしまった。道路まで我々を馬鹿にしているらしい。仕方なくあきらめて東名で沼津まで行くことにした。途中自然に呼ばれて足柄に立ち寄っただけで頗る快調に沼津まで走った。勿論「沼津食わず」である。ところが、驚いたことに、沼津の出口が渋滞している。清水エスパルスのサッカーの試合を見に行く人達の車に違いない。予定通り小田原厚木道路で来ればこの渋滞に巻き込まれずに済んだのに恨めしい。やっと国道136号線(下田街道)に入れてほっとした。
 最初に韮山町の「江川邸」を訪問する。江戸時代の代官屋敷がそのまま残されている重要文化財である。江川家の当主は代々「太郎左衛門」を名乗っているが、韮山の反射炉を建造して大砲を作り、パン祖としても知られるのは36代の太郎左衛門英龍である。パンと大砲を作った人は世界に類がないかも知れない。
   大砲と麺麭を作りて名を残し
である。
 屋敷は立木を利用した大黒柱や天井の骨組み等建築学上興味深い建物として評価されている。母屋の裏にある倒壊寸前と思われる蔵のような3棟の建物を修築する資金をカンパしていたので1口寄付した。1口は100円である。外に出てみたら、大きな「パン祖の碑」が建っていて、碑の脇の楓が綺麗に紅葉していた。この屋敷は現在でも江川家が使用していて、歴史的に価値の高い部分を一般公開しているのである。屋敷の裏手に郷土資料館があったが省略した。少々「餓」になったので昼食を食べようと思ったが適当な所が見当たらない。見ると江川邸の脇に小さな“店”が並んでいる。これはガイドブックにも載っている“観光名所”であるが、店といっても幅1m、高さ50cm位の棚に野菜等を並べてあるだけで、店番のオバアサンがいる所もあるが無人の店の方が多い。中の一軒に「ふかし芋」のパックが並べてあるのが目に付いた。「これで間に合わせよう」と衆議一決、3パック購入した。1パック4個入りで100円だから随分安上がりな昼食である。「これは美味しいけれど後が恐ろしい」「ガス中毒になったら大変だ」等といいながら食べてみたらなかなかの味である。私は4個食べてしまったが、全体で2個だけ残った。これが後に珍騒動を引き起こすことになる。
 直ぐ近くの田圃の中にある「蛭が小島」を見に行く。歴史的なものは何もなく、新しい大きな碑が建っていた。「小島」といっても海に浮かぶ島ではなく狩野川の“川中島”だったらしい。頼朝は流されてここで20年間過ごしたが、彼の監視役の北条時政の娘と怪しくなってしまったことになる。
 「北条政子産湯の井戸」を見に行こうと思って看板を頼りに脇道に入ってみたが、それらしいものは見当たらない。「そんな筈はないこの辺りだ」と必死で探したら、建て売り住宅の建築現場の片隅に埋もれかかっていた。これでは簡単には見つからないし、第一「政子」殿に失礼である。この分では、そのうちに住宅に入居した人達が壊して駐車場にしてしまわないとも限らない。是非とも保存に努めなければならない。「政子」は今では「まさこ」と読むのが当たり前になっているが、「政所」を「まんどころ」と読むように、本来は「まんこ」であった。然し、後世の関東の人々が尼将軍に“敬意”を表して普通名詞として使うようになったために、固有名詞の読み方を変えざるを得なくなってしまったのである。よく見たら道端に五島慶太寄贈の「尼将軍政子産湯の井戸」という細い石柱が建っていた。然し、この程度では全く不十分である。
 続いて、願成就院へ行って北条時政の墓を見た。
 韮山から下田街道を南下する間、しばらく渋滞が続いた。やがて渋滞も解消し、修善寺を過ぎてから右折して西海岸の土肥へ向かう。土肥から海岸沿いに走って松崎に着いたときには4時半近かった。明治初期の呉服商だった中瀬邸を見学し、東京帝国大学薬学部教授近藤平三郎先生の生家で薬問屋だった近藤家のなまこ壁が連なる「なまこ壁通」を歩いてみた。中瀬邸の案内板には「明治初期、呉服商を営んでいた依田家はわずか数代のうちに財をなした大地主で・・・」と書かれていて、暖簾にも「橘」の家紋が染め抜かれていた。この町にはなまこ壁が実に多いが、中瀬邸や近藤邸のように壁全体がなまこ壁になっている「総なまこ壁」は数軒しかないという。町の中は明日の町長選挙の“最後のお願い”で賑やかだった。
 空を見ると満月が昇っている。
  ♪伊豆の山々月淡く灯りにむせぶ湯の煙・・・
すっかり暗くなった道を大沢温泉に向かった。宿に着いたら番頭さんが出てきて「車は川向こうの駐車場に入れて下さい」というのでそれに従った。既に駐車場はほぼ満車であった。なまこ壁の土蔵にある客室「天保の間」に案内された。1階が資料展示室になっていて2階が客室であるが、洗面所と浴室は1階に付いている。客室は8畳と3畳の和室で炬燵が用意されている。エアコンが入っているが少し寒い。「良い部屋ですね」「皆さん一度は泊まってみたいとおっしゃいます」「この土蔵には何部屋ありますか」「一部屋だけです」、というわけで大いに感激。御茶請けは繭の形をした「まゆの里」という自家製の最中で、山百合の根を加えた小豆餡と柚の香りの白餡の2種類。「店頭では一切販売しておりません、今晩御注文頂いた分だけお作り致します」とのこと。
 梁が一抱えもある程太い。夕食を6時半にしてもらって、先ず風呂に入ることにした。風呂は、内風呂が3槽と露天風呂が1槽で、内風呂2槽が男性用、内風呂1槽と露天風呂が女性用になっていて、朝は男女が入れ替わるとのこと。ここの内風呂は天井が高く草が生えていたり飛び石があったりで露天風呂風に作られている。頗る快適。
 部屋に戻ったら食膳が用意されていた。食前酒が「黒豆ワイン」、先付が「白胡麻豆腐すだち風味仕立て」、前菜は「鱒の博多巻、手綱さより巻、青味大根、菜の花からし和え、なめこおろし和え」、造里は「鯛、鰆、烏賊」勿論地元産の山葵をすりおろして使う、焚合せが「金目鯛桜葉蕪蒸し」、強肴は「駿河の軍鶏鍋」、油物は「黒豆納豆のかき揚げ」、酢物は「桜海老、蓮根、胡瓜、若布、レモン」、止椀が「あじうす葛仕立て」、御飯は中秋の名月の夜に一族が集まって開いた酒宴の席に出されたという当家縁の「桶寿司」、澄まし汁、水菓子は「温州みかん天草寄せ」、献立表には料理長 桜井保の署名捺印がある。
 8時から餅つきをするというので玄関の広間に行ってみる。一斗つけるという道鏡臼があり、既に準備が整えられていた。見本を示して「どうぞおつき下さい、杵は軽くできています」といわれたので真っ先に杵を受け取って参加した。杵は桐でできていて軽すぎる位である。4人一組でついたが、なかなか面白い。何時の間にか100人近い人が集まっている。今夜は大きな団体もあり満室らしい。たった1室しかない土蔵の間を確保できたのは幸運だった。
 餅つきが終わると「お餅が出来上がるまでの間に当館の説明をさせて頂きます」といって大沢温泉の故事来歴と館内説明をしてくれた。ギャル達はそんなことには全く興味を示さず姦しい限りであったが、我々にとっては実に興味深い話だった。武田勝頼の重臣で信州の依田城主であった祖先が天目山の戦いに敗れてこの地に逃れて来て、この地方一番の庄屋として江戸時代を経過し、その時代の建物をそのまま使用して昭和36年以来旅館を経営しているとのこと。依田家の当主は、この地区に学校を作ったり松崎町長を勤めたり有能な人材が多い。
   依田城を追はれて伊豆に逃れ来て橘開く松崎の里
 母屋は一番古く300年以上経っているが、道鏡大黒柱を中心として実に重厚な造りでびくともしていない。古い道具類も興味深く見ることが出来た。祝い酒を容れる「角樽」は庶民用で高貴な向きには「袖樽」という四角い箱形の容器が使われたことを初めて知った。なまこ壁の作り方や名前の由来も面白い。富岡の製糸工場へ行って技術を習得してきてこの地に製糸工場を作り、その建物を改築して当館の一棟「絹屋」にしているという話も興味深い。かつて製糸工場で使用した繭を煮る半円形をした陶器製の鍋の底がそこかしこに埋めてある。説明を聞かなければとてもそこまでは気が付かない。説明の途中で先程ついた餅が黄粉餅と辛み餅になって配られた。

 鶏の鬨の声に目が覚めたら6時半だった。町長選挙の投票を呼びかける町内放送も聞こえていた。風呂に行ってみると、昨夜とは男女が入れ替わっている。誰も入っていないのをいいことに、転失気学の浴中実験をしてみた。気泡が膨らみながら上がって来るのが面白い。2発試した。
 風呂から出て館内を歩いてみた。昼間見ると一層建物の時代がよく分かる。至る所に「橘」の紋所が付いているが、土蔵の壁には入江長八作の直径1mもあろうかという大きな橘が付いている。中庭に軍鶏が数羽いたので「仲間が昨夜の軍鶏鍋になったに違いない、可哀想に」と話しかけた。先程の鬨の声はこの軍鶏だった。8時といっていた朝食が出たのは8時半だった。「昨夜の軍鶏鍋は中庭にいる軍鶏ですか」「いいえ、あれは駿河から食べられるようにして持って来た物です。昨夜そこのお客様方がお泊まりでした」
 お膳に並べられた朝食を見て驚いた。夕食並の品数である。烏賊の刺身、温泉豆腐、海苔、鰺の干物、サラダ(南瓜・トマト・薩摩芋・玉葱・大根・レーズン)、煮物(白菜・油揚)、巻焼き卵、煮物(蓮根・筍・人参・寒天)、酢の物、漬け物、バナナ、梅干し、味噌汁。白菜と油揚の煮物は昨夜の軍鶏鍋の残りではないかと思われる。
 玄関の前には左近の橘と右近の檜がある。前庭にある大きな水車の写真を撮って出発した。
 松崎へ引き返して「伊豆の長八美術館」を見学した。漆喰芸術・こて絵の名工、入江長八の作品が展示されている。富士山・天鈿女命・達磨大師・飛天・牡丹の絵が多い。入り口で「細部を見て下さい」といって天眼鏡を渡された。こて一つで描いたとは思えない細かい技術に驚かされる。
 次に「岩科学校」を見に行く。明治12年に建築されたなまこ壁と入母屋造りの建物で、開智学校等に比べると和風である。ここのなまこ壁は漆喰の部分が丸味を帯びて海鼠に似た形をしているのが特徴。玄関の「岩科学校」の扁額は太政大臣三条実美の書で、長八作の龍や千羽鶴も見事である。校長室には髭の校長が執務している像があり、その後ろの壁に「忠」「孝」の大きな軸が掛けられている。
 再び松崎、大沢を通って下田へ向かう。「お吉が淵」を通過して「宝福寺」に着いた。境内にある「唐人お吉記念館」では和服のオバサンが2人客の呼び込みをしていた。お吉に関係ありそうな資料が新旧取り混ぜて展示されていて、裏にお吉の墓がある。
 次になまこ壁の「豆州下田郷土資料館」へ行ってみる。お吉・吉田松陰・黒船等下田に関する資料が沢山集められている。萩市生まれの川柳作家井上剣花坊の
   黒船が見えて日本の夜が明ける
   松陰とお吉下田の裏表
が面白い。
 昼を食べようと思ったが適当な所が見当たらないので、省略して、日米和親条約が締結された場所として知られる了仙寺へ行ってみる。狭い道を通って裏にある駐車場に車を停め、餓極了になったので昨日食べ残したふかし芋を食べた。少し喉につかえる感じだったが、一切れ半食べたところで胸に激痛が走ってどうにもならなくなった。目を白黒させながら何とかしようとするけれど、食道の下の方につかえたままびくともしない。皆が心配して「何か飲み物を買ってこようか」といってくれたが、そうこうする中に何とか治まった。それにしても苦しかった。五臓六腑七転八倒九死一生を実感した。安代温泉に
   芋は今喉元辺りろくろ首
という句碑があったが今は冗談をいってはいられない。
   芋食へば喉につかへる了仙寺
   芋は今喉元辺り四苦八苦七転八倒九死一生
 了仙寺からペリー上陸記念碑まで歩いてみた。川沿いに昔の花街の面影を残す建物が並んでいる。一軒の店に飾ってあった人形の鼻の先が欠けている。「“おいらん”という字を知っている?」「花に魁だろう」「どうしてその字を使うか分かる?」「???」「花魁のところに通うと鼻の先が欠けるようなことになるから、花の魁」・・・。 ペリーの胸像と錨がある上陸記念碑まで行って引き返した。
 日本初の米国総領事館として使われた「玉泉寺」へ行ってみる。時間が過ぎていて「ハリス記念館」は見られなかったが、境内を見学することが出来た。カーター大統領もここを訪れている。その時聴いた「お吉物語」が気に入ってテイチクからレコードを贈られたという。
 吉田松陰が金子重輔と共に密航を企てたが上手く行かず疲れ果てて眠り込んでしまったという祠がある弁天島に行ってみた。2人の像が海に向かって立っている。
   下田にて松陰芯まで疲れ果て
 薄暗くなってきた下田を後にして、国道135号線、県道14号線、国道414号線、国道136号線を走り、途中三島で夕食を食べて帰宅した。