赤壁之賦に松江の鱸あり

 出雲の国は古代史の重要な舞台であり、大国主命、素戔嗚尊など数々の神々の活躍が神話として後世に伝えられている。戦前は神話が史実として教えられていたのに対して、戦後は一転して「神話は物語としては面白いが、創作であり、史実ではない」ということになったが、「史実である」にしろ「史実ではない」にしろ科学的に解明しなければならない。『旧約聖書』の記述が考古学などの手法によって解明されたのと同様な研究が『古事記』や『日本書紀』に対しても行われなければならないのである。何はともあれ、先ず神話の故郷を訪れることから始めるに如くはない。というわけで、出雲の国を訪れることにした。
 忘月忘日 小雨のぱらつく中を出かけた。空港は大して混んではいなかったが、厳重な荷物検査のために随分時間がかかった。毎度のことながらJASは冷遇されていて、空港の一番はずれに駐機しているために、バスで運ばれる羽目になった。機材はA300-600であり、出雲便としては大型であるが、満席だった。
 予め予約しておいたレンタカーに乗り、先ず出雲大社に参拝することにして、走り出した。概して道路がよく、驚く程交通量が少ない。出雲大社は曽遊の地である。駐車場に車を停めて、辺りを見回すとたちまちにして記憶がよみがえってきた。大社の西隣に大きな注連縄が掛かった立派な門構えの家があり、千家尊祐の表札が掛けられている。代々大社の宮司を勤める国造の家、即ち国造館である。国造が当初より現在まで宮司を務めているのは、出雲大社の他には日前神宮・国懸神宮の紀家と阿蘇神宮の阿蘇家だけらしい。千家尊祐氏は第83代の出雲国造である。写真を撮っていたら、通りがかりのオバサンがにこにこしながら「写しましょうか」といってくれたが、遠慮して「結構です」といった。そのオバサンは門をくぐって玄関から中に入ったところを見ると、国造令夫人だったかもしれない。
 新しく立派な神楽殿にはものすごく大きな注連縄が掛けられている。長さ9m、重さ3tだそうである。注連縄にコインを投げつけてうまく食い込めば御利益が期待できるということになっているらしく、コインが一杯突き刺さっていた。大きな額には「神光満殿」と書かれ、「一品親王熾仁之璽」と落款されている。友引の土曜日ということもあって、結婚式が行われていた。「始終御縁があるように」ということでお賽銭を45円あげて参拝するものらしい。神社の参拝は「二礼二拍手一礼」が通常の作法であるが、出雲では「二礼四拍手一礼」である。神楽殿の前に高さ47mの国旗掲揚塔を建てる工事が行われていた。
 大社造りの本殿は神楽殿の東に位置しているが、奥にあって直接参拝することは出来ない。我々庶民は八足門から拝むか、更にその前にある拝殿から拝むことになる。拝殿にも大きな注連縄が掛けられているが、こちらは長さ8m、重さ1.5tである。祭神は大国主大神であり、5月14日には天皇の使いを迎えて例祭が行われたばかりで、真新しい木札が立っていた。
 大昔の大社は現在のものよりはるかに大きく高かったと推定されているが、その根拠となる柱が発掘されている。直径140cmの杉を3本束ねて1本の柱にしたというからとてつもなく大きな社だったに違いない。その模型が展示されている。
 本殿の東西には十九社がある。これは「神在月」に全国各地から集まってくる神々の宿舎であり、神在月以外は八百万の神の遙拝所つまり「エイリアス」である。我が国における「長屋」の初めかもしれない。西十九社の前の杉はおみくじで幹が真っ白になっている。「白装束の杉」である。西十九社の先の本殿の真西に当たる所に小さな賽銭箱と立て札があり「本殿は南向きであるが間取りの関係で大国主大神は西向きに座っているので、本殿正面から参拝した後にこの場所から再度参拝するように」と書かれている。大社には知恵者がいるらしい。その知恵は評価したが、賽銭は省略した。更にその奥には大社に伝わる資料を収めてある彰古館があるが、こちらも省略した。
 大社の西南、徒歩3分ほどの所に出雲阿国の墓がある。「出雲阿国歌舞伎発祥400年」と書かれた幟がたくさん立てられていた。阿国の墓は以前のままであったが、周辺の墓石が新しくなっていたり記念碑が建てられたりしていた。ここの墓石には「○○家総廟」と書かれたものが多い。墓地はきめ細かい砂地である。
 外交交渉の初めである「国譲り」の交渉が行われたといわれている稲佐の浜を通って、日御碕へ行ってみた。ここも曽遊の地である。朱塗りの山門をくぐった先に、天照大神を祀る下本社(日沈の宮)と素戔嗚尊を祀る上本社(神の宮)がある。くにびき国体の折りに昭和天皇が作った歌
   秋の果の碕の浜のみやしろにをろがみ祈る世のたひらぎを
の碑がある。岬のすぐ先に浮かぶ経島は海猫の繁殖地として有名である。猫のような鳴き声を発しながらにぎやかに飛び交っている。今は産卵・繁殖の季節だから、夏には数が増えて島が糞で真っ白になるだろう。宣伝のビデオ撮りをしている4人組がいた。
 少し遠いが佐田町にある須佐神社へ行ってみることにした。出雲といえば、大国主命と素戔嗚尊(須佐之男命)である。大国主命は本社詣でをしたのに、素戔嗚尊は日御碕の支社で済ますというわけにはいかない。レンタカーを利用することによってこういうことが可能になる。しかも、出雲は道路事情がいいから助かる。と思っていたら、ナビゲーターが山道を教えてくれたらしい。当然国道を通るものと思っていたら、かなりの山道に誘導された。お陰で、高い樹のてっぺんまで絡みついて咲いている藤の花などを楽しむことが出来たけれども、折角楽に走れる国道があるのだから、わざわざ酷道を選ぶことはなかろう。4時過ぎに神社に着いて、きょろきょろしていたらベンチに座っていたオジサンが「これをどうぞ」といって神社の説明書をくれた。「地元の方ですか?」「ここの神職です。もう帰ろうと思って、こんな格好をしていますが・・・」・・・。社務所を締めて、ベンチに座って一服していたところだったらしい。80歳を過ぎているという神職は、いったん閉めた社務所を開けて資料などを出してくれ、小一時間話を聞くことが出来た。祭神は須佐之男命、稲田比売命、足摩槌命、手摩槌命であり、足摩槌命と手摩槌命が宮司須佐国造家の祖神であるという。現在の宮司は78代、オジサンはその分家5代らしい。『出雲国風土記』によれば、須佐之男命がこの地に来て「この国は小さいけれども良い国である。我が名を石木にはつけず田につける」といって、大須佐田、小須佐田と命名したのが「須佐」の始まりだという。ここの本殿は、出雲大社に比べれば小さいけれども、大社造りである。大社と違って、間近で見ることができるので建築学科の学生などの見学者が多いらしい。昔はこの倍位あったが、1554年に尼子晴久が再建するときに現在の大きさになったという。本殿の前の左右にミニ十九社があるので訊いた見たら「これは宿舎ではなく、うけいの時に生まれた五男三女の社です」とのことだった。須佐之男命がその水を汲んでこの地を清めたといわれている「塩井」は、稲佐の浜とつながっていて、潮の干満に合わせて塩を吹いたけれども、隣に温泉が掘られてから吹かなくなったという。確かに右の「宿舎」の柱の根本に塩が吹いている。この神社には「八岐大蛇の頸骨」があるといってパンフレットの写真を見せてくれた。実物は中皿ほどの大きさだという。本殿の裏には樹齢が1300近いという大杉がある。雷に打たれた痕跡があり、避雷針がつけられている。出雲の言葉は朝鮮語に近いといわれるが、それは当然かもしれない。実際に聞いた感じでは何となく東北弁の雰囲気がある。参道が「く」の字に曲がっているのが面白い。本殿にお参りしたときに反対側にある「天照社」にお尻を向けないようにとの工夫だそうだ。何故か姉上の神社の方が小さい。「く」の字の参道を通ってオジサンが帰っていった。
 古代出雲は鉄の産地であった。その名残の「たたら」跡があちこちで見つかっている。佐田町にも「朝日たたら」があるので寄っていくことにした。国道184号線から「朝日たたら」に至る道に入ろうとしたら、「工事のため通行禁止」となっているではないか。已んぬる哉。引き返しかけたが、ナビゲーターは「あと500mで目的地」といっている。たった500mなら何とかなるだろう、ダメ元で行ってみることにしたのが正解だった。「朝日たたら」までは何の工事も行われてはいなかった。古代の製鉄所が復元されている。
 6時を過ぎているので本日の見学はこれまでということにして、宿へ向かうことにしたが、またもナビゲーターが国道でなく酷道に誘導してくれたので、余計な苦労をする羽目になった。
 今夜の宿は宍道町にある「八雲本陣」である。途中から電話して「いま佐田町にいますから少し遅くなります」といったら「和歌山県ですか」という。「須佐神社のある佐田町です」「それなら7時半には着くでしょう」・・・。
 途中出雲市で斐伊川を渡った。須佐之男命が上流から流れてきた箸を見つけた川であるが、この辺りでは随分大きな川である。
 出雲平野といえば「築地松のある家」であるが、以前に比べると随分少なくなったように思われる。島根県の資料によれば、現在は築地松のある家が4000戸程度になってしまったという。家屋構造の近代化に伴って築地松の「防風」としての役割が低下したことと、松食い虫による被害が築地松減少の原因らしい。この地域の特徴である美しい景観がいつまでも見られることを望みたい。またこの地域の家には立派な石州瓦が使われている。色は黒か茶であるが、超高温焼成のせいかぴかぴかに光っている。
 宿は空港の近くで、宍道湖にごく近い。着いたのは7時15分だった。「八雲本陣」は江戸時代に歴代松江藩主の本陣宿を務めた木幡家の住宅を開放した割烹旅館であるが、旧本陣というだけあって立派な構えの大きな建物である。既に薄暗く、灯籠に灯がともされていて、女将が玄関に出て待っていてくれた。今夜は他に客がなく、貸し切りだという。敷地1200坪、建坪800坪という広大な屋敷に貸し切りで泊まるのはまさに殿様気分である。道路に面した部分は1733年の建築で、国の重要文化財に指定されている。ずーっと奥に案内されて、「ふじ」の間に通された。間取りは3畳プラス6畳であるが、実感としてはずいぶん広く感じられる。少し涼しいので暖房を入れて待っていてくれた。特製の銘菓「夕鶴」でお茶を飲んで落ち着いた。
 遅くなったのですぐに食事にすることにして、表に近い部屋に案内された。ここの食事は年中「鴨の貝焼」である。直径20cm位の大きな鮑貝を七輪に乗せて持ってきた。勿論炭火であり、火加減を調節する土製の栓と小さな団扇、熱い貝を掴むための布、貝を乗せる木枠などが珍しい。煮立っているタレに砂糖と醤油を入れ、先ずつくねと肝を入れ、次にロースをしゃぶしゃぶ式に食べる。重箱一杯に詰められている大根、ネギ、ゴボウ、シメジ、糸こんにゃく、白菜、豆腐、ジャガイモを適宜貝に入れて煮て食べるという趣向である。豆腐をすくって貝に入れるために小さなホタテ貝のしゃもじがついている。あとは、もずくと漬け物。御飯はおじやにして食べた。よく考えてみれば、この料理は殆ど手が掛かっていない。しかし、この大きな鮑貝を揃えるのは大変ではなかろうか。炭火で焦げるので、一つの貝を何回も使うわけにはいかないと思う。
 残念ながら今回は予定していないが、宍道湖の名物の一つに鱸がある。「巨口細鱗 状如松江之鱸」と『赤壁之賦』にあり、それが松江の名前の起こりであるという。
   赤壁之賦に松江の鱸あり
   神々の国に鱸の奉書焼

 800坪の建物は流石に広い。70畳敷きの大広間、大正天皇(当時は皇太子)のために明治40年に新築した10畳2間続きの「飛雲閣」、土井晩翠の書、・・・。木幡家は大正頃までは女性達が長裾を引いて屋内を歩いたので「宍道木幡は箒がいらぬ。嫁や姑の裾で掃く」と里謡にも歌われたという。この家は記念切手にもなっている。いろいろ見ているうちに9時になった。
 少し戻って荒神谷遺跡へ行ってみることにした。宍道湖を右に見ながら国道9号線を走り、左折して日本3美人の湯の一つである「湯の川温泉」を通った。他の2つは「川中温泉」と「龍神温泉」である。
 斐川町神庭にある荒神谷遺跡は、1984年に358本の銅剣、1985年に6個の銅鐸と16本の銅矛が出土したことで知られている。敷地内には2000年前の大賀ハスの池などもある。
 次の訪問地は大東町須賀にある須我神社である。「日本初之宮 和歌発祥之遺跡」と書かれている。祭神は須佐之男命、奇稲田比売命夫妻とその子清之湯山主三名狭漏彦八島野命の3神である。八俣遠呂智を退治した須佐之男命が奇稲田比売命との新婚の居を構える場所を求めてこの地に至り「吾此地に来まして、我が心須賀須賀し」といって新居を造営したところ、美しい雲が立ちのぼるのを見て
   夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀伎 都麻碁微爾 夜幣賀伎都久流 曽能夜幣賀伎袁
と詠んだ。即ち、この地に造営したのが「宮」の初めであり、ここで詠んだのが「和歌」の初めであるということで「日本初之宮 和歌発祥之遺跡」ということになる。この歌がこの地域の地名「出雲」の起源となった、ということと併せて、この神社の重要性は計り知れない。大きな歌碑がある。近衛文麿書の「須我神社」の額が掛けられている。和歌発祥の地だけあって、200円払えば参拝者が献詠出来るようになっている。御神酒を飲んで参拝し、500円の色紙(お札というべきか)を2枚買った。社務所に座っている宮司の令嬢と思しき巫女が色紙に日付を書き入れてくれた。奥の宮に行く道を教わり、2kmほど登ったところに車を停めて、八雲山文学碑の径を歩いて登った。駄歌碑が8つ、駄句碑が20並んでいる小径を400m登ったところに須我神社奥宮がある。大、中、小岩があり、それぞれ命岩(須佐之男命)、比売岩(奇稲田比売命)、御子岩(清之湯山主三名狭漏彦八島野命)ということである。更に駄句碑が10あったが、省略した。
 次は八雲村にある出雲国一之宮熊野大社である。入り口に「さざれ石」がある。熊野大社は出雲大社と共に代々千家氏が宮司を務めてきた。元来は熊野大社が出雲の中心的な神社であったが、平安時代に主役の座を出雲大社に譲ったという。祭神は神祖熊野大神櫛御気野命で、須佐之男命の尊称であるという。土地の神が須佐之男命に敗れ、勝者である須佐之男命が敗者をここに祀ったということではないだろうか。菊の紋がついている。十数人の男達が集まっているので何が始まるのかと思ったら、境内の草刈りをする人達が作業前のお祓いを受けていたのだった。宮司がお祓いをして「事故のないように、宜しくお願いします」といっていた。木俣修書の
   八雲立つ出雲八重垣つまこみにやへ垣作るその八重垣を
の歌碑がある。
 松江市に入って、八雲立つ風土記の丘資料館を訪れた。銅剣、銅鐸、埴輪、土器、石器、三角縁神獣鏡など様々な出土品が展示されている。銅剣や銅鐸は荒神谷遺跡出土の現物である。「見返りの鹿」が可笑しい。
 直ぐ近くに国宝神魂(かもす)神社がある。祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊であるが、出雲国造の祖といわれる天穂日命が創建したといわれ、出雲大社より400年も古く、現存する最古の大社造り社殿である。小泉八雲もここを訪れている。
 近くにある八重垣神社に寄ってみた。祭神は須佐之男命と稲田姫である。本殿は改修工事中で仮殿で参拝するようになっている。2本の椿を2mほどのところでくっつけた「夫婦椿」があちこちにある。境内に山神神社という小さな神社があり、大小の男根が飾られている。先ほど訪れた須我神社と同様にここも須佐之男命新婚新居の地といわれている。「結婚式発祥の地」ということで、平安閣が結婚式場を経営している。縁結び占いをする「鏡の池」がある。
   出雲八重垣鏡の池に写す二人の晴れ姿
社務所で占用紙を100円で買い、その占用紙に100円玉又は10円玉を乗せて池に浮かべて祈り、早く沈めば良縁が早いという。うまい商売を考えたものである。竹林にはタケノコが生えている。出雲は竹林が多い。小泉八雲はここも訪れている。
 松江城に行き、市営城山駐車場に車を停め、ヘルン橋を渡って塩見縄手通にある小泉八雲記念館へ行った。玄関の前に、島根県尋常中学校(現在の松江北高)の礎石や遺髪塔がある。館内には、八雲の遺品、写真、資料などが展示されている。八雲の長男一雄氏が彫った肖像の拓本を八雲本陣の木幡修介氏に贈ったものが展示されていた。八雲は松江の名誉市民である。従四位で、戒名は正覚院殿浄華八雲居士、セツ夫人は本覚院殿浄慧貞節大姉である。隣に旧居があるが省略した。この通りには武家屋敷が並んでいる。
  ♪関の五本松一本伐りゃ四本 あとは伐られぬ夫婦松
少々時間がきついが、美保関まで行ってみようと思ってナビゲーターをセットしたら、またまた最善ならざる道を指示したので、大慌てになったが、とにかく行ってみようと思って走り出した。市内を抜けるのに時間がかかったために、美保関まで行って来るのはとうてい無理であると判断し、中海を見て引き返した。途中島根大学の前を通ったが、以前はなかった立派な建物が建っているのに驚いた。
 宍道湖畔の白潟公園で青柳楼の高さ6mの大きな石灯籠を見たり、嫁が島や大社方面に傾いた夕日を眺めているうちに、岡山行きの最終列車の時間が迫ってきたので、レンタカーを返し、その車で駅まで送ってもらった。弁当とお茶を買って18時49分発の1040M「やくも30号」に乗った。3両編成である。山陰本線は「本線」であるにも拘わらず、未だに電化されていない区間が多く、ディーゼルカーが使われているが、「やくも30号」は電化されている出雲市・伯耆大山間を走り、その先は伯備線に入るので電車である。夕暮れの中を安来、米子と進み、伯耆大山ではすっかり暗くなって、残念ながら大山を見ることが出来なかった。伯備線に入って新見、備中高梁、倉敷と快走し、5分遅れて岡山に着いた。弁当は、宍道湖七珍(鱸、もろげ、鰻、あまさぎ、白魚、鯉、蜆)の内、四珍(もろげ、あまさぎ、白魚、蜆)が入っていたが、山陰本線で買ったにもかかわらず、東北本線「沼宮内」だった。宍道湖七珍は頭文字を並べて「スモウアシコシ」と覚えるそうである。
 出雲路はどこもかしこも田植えが済んだばかりであった。神々の国の旅は実に収穫が多かったが、神社などの案内板や説明書を見る限り、神話の科学的な研究が進んでいるようには見えない。出雲神話の科学的な研究が進んで、教科書や案内板などの記述が書き改められる日が待ち遠しい。