業平も三河へ来ればかきつばた

忘月忘日 中馬街道の足助という宿場町へ行ってみようと思い、名古屋で開催される学会のついでに寄るように日程を組んだ。午前中学会に出席してから、有松へ向かって走り出した。汗ばむほどの陽気である。有松は東海道五十三次の宿場町であり、絞で有名である。有松・鳴海絞会館や専門店を覗いてみた。絞会館の隣の舛屋では「有松で作った絞を売っているのはうちだけで、他で売っているのは中国産やインド産等です」といっていた。絞会館の向の井桁屋は「うだつ」があがっている。建物の前の看板に説明が日本語と英語で書かれていて「うだつ」に当たる英語はudatsu roof-extensionsとなっているが、udatsu wall-extensionsの方が適切ではないだろうか。有松は町並保存地区に指定されていて江戸末期の町屋がかなり残っている。餓になったので喫茶店に入っておはぎを食べた。
 桶狭間の古戦場が直ぐ近くにあるので行ってみることにした。藤田保健衛生大学の裏に桶狭間古戦場跡があり、今川義元の墓がある。横浜ナンバーのバイクに乗ったおじさんが親切にカメラのシャッターを押してくれた。このおじさんは125ccのバイクで東海道を歴訪しているらしい。隣の高徳院に桶狭間合戦資料館があるので入ってみたが、合戦に直接関わりがありそうなものはこの近くから出土したという錆びた槍の穂先位しかなかった。然し、今川義元が田楽ヶ窪で討たれたとき、毛利新助が後ろから抱えて服部小平太が前から刺したことを知ったのは収穫だった。服部小平太がもっと勢い良く突いていれば義元と新助が田楽刺しになったかも知れない。
   新助が抱え小平太槍で刺し
 よく考えてみれば、合戦の資料等というものはたいしたものが残っていないのが当然であろう。
 有名な史跡にしてはこぢんまりしている感じだが、ここは豊明市栄町であり隣に有松町桶狭間という所があるので、もしかして“本家”に気を使っているのかも知れない。近くに合戦の折の戦死者を祀ったといわれる戦人塚があるので寄ってみた。
 知立市は昔の池鯉鮒宿である。旧東海道の松並木を通って、在原業平の
   唐衣きつつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
で知られる三河八橋へ行ってみる。無量寿寺の境内には大小の池が幾つもあり全てかきつばたが一杯に植えられている。5月にはさぞかし見事に咲くことであろう。
   業平も三河へ来ればかきつばた
そんな筈はない、この地には業平に振られて身を投げた姫の伝説があるではないか、おっと話がそれた。本堂の前には「業平竹」と「ひともとすすき」がある。「業平竹」は男女竹ともいって縁結びの御利益があるとされ、「ひともとすすき」は謡曲「筒井筒」の伝承に因む縁結びのすすきで、片手で結べば願いが叶うと書かれていて、殆どの葉が既に結ばれていた。試しに挑戦してみたら意外に簡単に結ぶことができた。三河名勝図絵に
   八橋のひともとすすき穂に出でてはるばる来ぬる人招くらむ
とあるとのこと。
 業平の供養塔がある在原寺へ行ってみたら、小さなお寺で、小さなかきつばた池が一つだけあり、「業平竹」と「ひともとすすき」の小型のものがあった。無量寿寺に比べて経営が苦しいらしい。
 直ぐ近くにある「根上がりの松」を見に行く。3m程に盛り上がった土の上に蛸の足のように根がむき出しになった大きな松の木が生えている。「鎌倉街道跡」と書かれた石が立っているが、業平の時代にはここを街道が通っていたらしい。名鉄の線路を挟んだ反対側に在原業平の墓があり、更にその少し先の道端に「落田中の一松」という業平が「かきつばた」の歌を詠んだと伝えられる場所がある筈であるが、「落田中の一松」がある筈の場所には真新しい住宅が並んでいる。「業平の旧跡も住宅にされてしまったか」と諦めて引き返しながら注意して見ると、道路から少し入ったところにそれらしいものがある。行ってみると「住宅建設のためにこちらへ移した」と書かれているではないか。ろくでもない家を建てるために業平の旧跡を移すとは何事か!!
 今日の目的地足助宿へ向かって走り出すと、間もなく豊田市に入った。走っている車は軽自動車以外は殆ど全てトヨタである。外車も極めて少ない。流石は世界に冠たる自動車の町である。そのうちに我が愛車の生まれ故郷である元町工場にさしかかり“彼女”も大いに懐かしがっていた。豊田市の中心を抜けて国道153号線に入った辺りで餓極了になったので“つなぎ”に何か補給することにして、7−11に寄ってみつけた磯部餅は実に美味しかった。
 だんだんに暗くなり山道に入って6時半近くに足助の宿に着いた。今夜の宿はインターネットで見つけた江戸時代から続いている旅籠「玉田屋」である。歩いているおじさんに聞いて玉田屋は直ぐに分かった。家の前に「玉田屋」と書かれた提灯が下がっていて、赤坂宿の大橋屋に似ている。店の前に若旦那が出迎えてくれた。彼がホームページの作者である。案内された部屋は表通りに面した2階の2間続きである。「風呂が小さいし、他の客が未だ着いていないので先に風呂に入って下さい」といわれたので早速風呂に入ることにした。用意されているタオルは十分に使い込んだ代物で、雑巾に近い。風呂は1階の廊下の先にあり、檜風呂でジェットバスである。石鹸の泡立ちが悪いところをみると鉱泉かも知れない。
 食事は1階の部屋に用意されている。行ってみると3組客があることが分かった。並べられた御馳走は、枝豆・葱ぬた・天麩羅(甘草の若芽・あまご等を緑色の塩で食べる)・鮎の塩焼・虹鱒の甘露煮・岩魚の刺身(赤身)・零余子・イクラ(小粒だから子鮭の卵だろう)・豆腐・漬物(牛蒡・胡瓜)・味噌汁等であるがどちらかといえば質素である。食べている中に残りの2組の客が到着し、間もなく食事にやってきた。2人は若いカップルで4人はおじさん1おばさん3という組み合わせである。
 部屋と廊下との仕切は障子だけで勿論鍵はかからない。食事が済んで2階に上がってきた様子では、4人組が階段を上がって直ぐの部屋で、若いカップルが奥の部屋である。4人組の話し声は手に取るように良く聞こえる。時々不思議な音を立てたりしながら賑やかにおしゃべりをしていたが、11時半頃「お休みなさい」という声が聞こえて2部屋に分かれたらしい。暫くして鼾が聞こえ出した。先程までの話し声よりずっと近くに聞こえるので気になって仕方がない。そのうちに寝てしまったが、時々目が覚めると必ず鼾が聞こえる。

 夜が明けたのでうがい手水に身を清めて待機していたら7時半前に「御食事の用意が出来ました」といわれた。朝食は、鰆の照焼・薇の煮付け・温泉卵・海苔・漬物(沢庵と牛蒡)・味噌汁のごく簡単なものだった。
 宿に車を置いて足助の町を歩いてみた。足助は三河から信州へ通じる中馬街道の要所で、特に塩の中継地点として栄えた。萬屋林右衛門の名前をとった「マンリン小路」は幅2m程の狭い道の両側に簓子で押さえた黒板壁と白漆喰壁の家が並んでいる。現在は小路の入り口に萬屋林右衛門の新家が経営する「マンリン書店」があり看板に「典籍」と書かれている。マンリン小路を抜けて坂を登った所にある足助山宗恩寺からは足助の町がよく見える。境内に見事なしだれ桜が咲いていた。車を愛知県足助事務所に移動して、足助中馬館に寄ってみた。旧稲橋銀行足助支店の社屋で県指定の文化財になっている。入場は無料であるにもかかわらず、足助町の金融・商業関係の資料がよく整理されていて親切に説明をしてもらうことができた。あちこちの家の軒先に藁を束ねた丸い大きな箒のようなものが掛けられているのが気になっていたが、元は鉄砲の飾りで今は魔除けになっていると教えてもらった。
 中馬館から出た所で手押し車を押したお婆さんが「この先にお釜稲荷があるから行くように」と薦めてくれたので行ってみた。直径2m程の大釜の中にお狐様が鎮座している。3円賽銭をあげた。「お釜の稲荷に3円あげてこれが御縁になればいい」我ながら新鮮味がないね。
 次に紅葉の名所として知られる巴川の香嵐渓へ行ってみた。今は紅葉が芽吹いたばかりであるが、とにかく紅葉の数が多いので、秋にはさぞ綺麗だろう。吊り橋を渡って向こう岸にある三州足助屋敷へ行ってみることにした。足助屋敷は町営で、機織り・木工・竹細工・紙漉き・炭焼き・鍛冶屋等の職人がかつての暮らしと手仕事を再現している。鍛冶屋の槌音が「天下取る天下取る」と聞こえたから何か良いことがあるかも知れない。特別展示の雛人形も面白かった。弁慶の人形を前にして「弁慶は1回だけだったというのを知ってるかい」「「弁慶と小町は馬鹿だなあかかあ」というのがあるから弁慶は0だろう」「いや「かのところ武蔵武蔵と一度きり」というのもある」「?・?・?・?・?・、がはははっ」・・・。黒牛が木に繋がれていた。
 再び吊り橋を渡って元に戻り、足助村の川見茶屋で昼を食べた。道鏡五平餅、山菜御飯、黄粉餅、田楽と実に盛り沢山である。
 3月最後の休日で天気が良く汗ばむ程の陽気で桜が満開とあって足助は大変な人出になった。次に、徳川家康の出身地岡崎へ行ってみようと思う。目的地を岡崎公園にセットして走り出した。昨日来た時と大体同じ道を通ったが豊田市内ではトヨタ本社の前を通ったから少し違っていたようだ。
 岡崎に着いてみると町中車だらけで駐車場案内板は殆どが「満車」の表示になっているし、国道1号線から岡崎公園に入る道は全て閉鎖されている。花見の真最中に来てしまったのだから仕方がない。公園に行くのは諦めて、八丁味噌の「カクキュー」に寄ってみることにした。城から八丁の所にあるからこの名前が付けられたとのことである。随分大きな工場で見学者のバスが3台来ている。お土産付き案内付きで見学することが出来た。1本6トンの桶450本に仕込まれているのは壮観である。八丁味噌をお土産に買った。
   城の西八丁味噌の美味さかな
 家康に関連する名所旧跡で見たい所が沢山あるが、次回の楽しみにして、鳳来寺山へ急ぐことにした。岡崎から豊川まで東名高速で行き、そこから飯田線沿いに走る国道151号線に入った。暫く走って行くと「新城市」という所に出た。「シンジョウ等と下らない名前を付けたものだ。どうも愛知県は市の命名が上手くない、西尾市と尾西市が同一県内にある等最悪だ」と気炎を上げながら新城市を通っていると「武田信玄が最後に攻めた城 野田城」という看板が目に付いた。武田信玄は1573年野田城攻めの最中に病に倒れ甲府へ帰る途次伊那の駒場で死去したと伝えられているが、鉄砲で撃たれたという説もあり、その方が信憑性があるように思われる。新城市を過ぎて鳳来町に入ると、直ぐに長篠城趾である。ここは長篠合戦の地であり、鳥居強右衛門の武勇が有名であるが、城は1576年に現在の新城市に移築して以来築かれていないと書かれている。「新城は新しく城を造ったからシンシロと呼ばれたのか、それならば十分由緒ある名前ではないか」ということで、前言を取り消すに憚る事はない。
 鳳来寺山へ登る有料道路の料金所に辿り着くと「もう時間がないからだめです」という。仕方がないから無料道路を登ってみようということになり、地図を頼りに鳳来寺高校を過ぎて細い道を登って行くと鳳来寺山自然科学博物館があり既に時間が過ぎていて入れなかったが「仏法僧の声が聞かれる」と書いてある。細い道に沿って旅館や硯の店等があり、これが表参道である。かつて芭蕉も訪れたが持病のため参道の石段の途中で引き返したと書かれている。芭蕉の句
   木枯らしに岩吹きとがる杉間かな
   夜着ひとつ祈出して旅寝かな
の碑がある。芭蕉の顰みに倣って石段の途中で引き返した。鶯は啼いていたが残念ながら仏法僧の声は聞くことができなかった。
   鶯は啼けど声無き仏法僧
   鳳来寺月が鳴いたか仏法僧