道灌や智恵伊豆がゐて時の鐘

忘月忘日 東京近郊で昔の街並みが見られる所としては川越が代表的であるから、訪ねてみようと思う。文字通りの日本晴れで雲一つなく風もなく暖かい小春日和である。師走とあって道路は混んでいるが別に急ぐ旅ではないから気にしない。入間を通るので達磨大師の別荘に寄ってみようと思って国道16号線からそれた。ベンツなら通れそうもないような道を進んだ所に、伸び放題になった樹木と生い茂った雑草に埋もれて廃屋が建っている。濡れ縁は朽ち果て、障子は破れ、・・・
   里は荒れて人は古りにし宿なれや庭も籬も秋の野良なる   遍昭
の“歌枕”かと思えるような有様である。その上、洗面所の水が漏れていて床が濡れて腐りかけている。一通り中を見て帰ろうと思ったら、玄関の鍵が閉まらない。中にはろくな物はないが、大枚を投じて購入した中国文化研究会の研究用の備品だけは盗まれては困る。悪戦苦闘してみたが閉まらないので達磨大師に電話したら「そりゃ閉まらない話だ、今から行ってみる。」というので、後事を託して先を急ぐことにした。
 再び16号線に戻って川越に向かった。城跡にある市立博物館に車をおいて町を見て歩こうと思ったが、教科書の地図の縮尺が間違っていてとても歩けそうにないので、市役所前の市営駐車場に停めた。市役所の前に川越城を築いた太田道灌の像が建っている。右手に山吹の枝を持っているところが芸が細かい。像の前でポーズをとって写真を写していたら学校帰りの小学生の女の子が近付いてきて「そこに入ってはいけないよ」と注意された。川越は「小江戸」と呼ばれていたが、ここの説明には「江戸の母」と書かれている。
 藏造りの街並みを見に行こうと歩いていたら、知的障害の高校生に親しく話しかけられた。
   知恵伊豆の町に魯鈍の男子かな
 川越は「知恵伊豆」として知られる松平信綱が城主であった。藏造りの商家が集まっている一番街を歩いてみた。見るからに耐火性の高そうな黒塗りの土蔵造りが今でもかなり多く残されている。
一番街から多賀町の通りを東に入ったところに「時の鐘」がある。多賀町は桶屋が開いた町で、元は箍町といわれていたという。鐘は高さ16メートルの鐘楼の上にあり、現在は電動式で6時、12時、15時、18時の4回市民に時を知らせている。
   道灌や智恵伊豆がゐて時の鐘
 「時の鐘」の隣にある「右門」という茶店に入って「芋強飯膳」を食べた。680円である。川越は青木昆陽先生直伝の芋の産地である。芋菓子を売っている店がやたらと多い。こんなに芋を食べると川越の大気汚染は深刻な事態になっているのではないかと気懸かりである。然し、美味しそうなので芋菓子の元祖といわれる「芋十」で芋を輪切りにした甘納豆のような菓子「唐」を買った。これが大変美味しかったが、効果もなかなかのものであった。
 少し歩いて星野山無量寿寺喜多院まで行った。平安時代の創建といわれる古い寺であり、天海僧正の時に家康の信頼を得て大いに栄えたという。江戸城から移築した家光誕生の間や春日の局化粧の間等がある。境内にある五百羅漢は540体あるそうだが、全て表情や仕草が違っていて面白い。殆どは首が折れて修理してある。「羅漢」は「仏教の修行の最高段階に達した人」を指すそうだが、中には行儀の悪いのもいる。鼻をほじっている羅漢の真似をして写真を撮った。
 再び一番街に戻り「まちかん」という刃物屋に入った。店にある鼻毛切り鋏を全て検討した上でドイツ製の立派な品を購入した。この店の技術は全国的に知られているらしい。
 「藏造り資料館」は、煙草の卸商を営んでいた小山家が1893年の大火の直後に建設した建物である。4棟ある藏の中には人間一人がやっと通れるほどの狭い急な階段が付いているものもあった。
 菓子屋横丁を歩いてみたが、芋菓子と「ふくれせん」といわれる空気煎餅が名物らしい。芋と空気を食べれば結果は自ずから明らかである。
 ゆっくり見物して歩いていたら既に4時を過ぎている。急いで市立博物館へ行って、川越の歴史や文化を概観した。
 薄暗くなった川越を後にして、川越線に沿って日高市まで行き、西武線に沿って国道299号線を秩父まで走ったが、結構渋滞があり秩父市に入る前に6時を過ぎてしまったので、宿に電話をしたら「後30分かな、いや40分位でしょう。」ということだった。秩父から国道140号線を走ると荒川村である。ナビゲーターは国道を曲がるところで案内を停止してしまったが、大きな看板が出ていたので直ぐに分かり、白久駅を通って狭い山道を登ったところに今夜の宿谷津川館があった。別館の「やまゆり」の間に案内された。バス・トイレ付きの10畳間でゆったりしている。「お風呂とお食事とどちらを先になさいますか」と聞かれたが、既に7時近くなっていたので先に食事をすることにした。
 今晩の主役は「猪鍋」である。薄い円盤状に切られた猪の赤い肉が鍋の中にきれいに並べられている。猪鍋は「馬すき」とよく似た味で実に美味しかった。刺身(まぐろ・甘海老・サーモン・蒟蒻)、鮎の甘露煮・帆立・蟹鮨、酢の物(烏賊・海老・胡瓜)、天麩羅(海老・舞茸・練り物)、むつと舞茸、山芋の千切りといくら、京芋のあんかけ、茶碗蒸、胡桃の鰹節合え・こごみの胡麻合え・舞茸、・・・。飽死了になった。 別館から本館の玄関を通り、長い廊下を渡って風呂に入りに行った。広間では宴会をやっているらしく賑やかである。風呂は内風呂と露天風呂があり、なかなか快適である。途中で湯冷めしないように十分に温まって部屋に戻った。

 ぐっすり寝て、目が覚めてみるとまだ暗いようだったが、風呂に行って帰って来た頃には少し明るくなっていた。窓の外を見ると曇っていて少し雨が降ったらしい。
 予告通り8時に朝食が運ばれてきた。とろろと鶉の卵、温泉玉子、蕨の煮物、ハムとサラダ、岩海苔、味付け海苔、やまめの甘露煮、白菜の漬け物、御飯、味噌汁。食後に入浴し、浴槽の中で転失気学の実験をして、出発した。
 国道140号線を走り、秩父鉄道の終点三峰口駅を過ぎると間もなく大滝村に入る。大滝村役場から中津川沿いの狭い道に入ると「落石注意」の標識と落石防止の網が続いているが、これでもバス通りである。然し、人家は殆どない。この道とは別に、最近開通した雁坂トンネルに通じる新しい国道が川の反対側の斜面に出来ている。大滝村はすべて山の中である。
 教科書によれば、中津峡の奥に「源内居」があり、「出合」というバス停下車直ぐとなっている。バス停があったので見たら「出合」の次の「農林センター」であるから行き過ぎてしまったことになる。「出合」まで引き返して見たがバス停の付近には人家は一軒もない。この辺りで人家のあるところは「農林センター」付近しかなさそうだったので、もう一度「農林センター」まで行って店に寄って聞いてみたら直ぐに分かった。「煙草」「塩小売」の看板がかかっている家であったが、商売をしている様子はなかった。玄関を開けて訪ねてみると「今は公開していない、外から見て下さい。」ということだった。「源内居」は、明和年間に平賀源内が設計・施工して名主の幸島家の敷地内に建てた家で、鉱山開発と「心霊矢口渡」等を執筆をしたという。それにしても、車で来ても随分山奥だと思われるこの地に、あの時代に風来山人先生は何を求めてやってきたのだろうか。
 引き返して三峰山へ登ろうとしたが、道を間違えて栃本の方へ行ってしまったので、再び140号線に戻りナビゲーターをセットして出直した。驚いたことには、駒ヶ岳トンネルは1車線だけの狭いトンネルで、常時片側交互通行になっていて、トンネルの中で栃本方面と三峰方面とに分岐している。三峰方面に進んでトンネルを出ると秩父湖のダムの上で、その先で対向車が信号待ちをしている。この道は国道140号線で、その先に雁坂トンネルがあるのだが、この片側交互通行区間があり拡幅不可能なので、新しい迂回ルートを作ったのだということが分かった。秩父湖は埼玉県の水瓶だろうと思うが、現在は底の方に少し水があるだけである。
 葛折の道を登って三峰山に辿り着いた。餓になったので三峰お犬茶屋「山麓亭」でラーメンを食べ、ついでに中津川芋田楽と味噌おでんを食べた。三峰山博物館は既に季節外れで休館だった。三峰神社の山道には無数の板碑が並んでいる。殆どが檜苗木の寄付を記している中に、星野敏郎の句碑
   杉襖なせるあたりか時鳥
がある。明治維新100年記念で建てた日本武尊の大きな像があるが、周りが青垣で囲まれていて近付くことは出来ない。山口青邨の句碑
   巫女下るお山は霞濃くなりて
や斉藤茂吉の歌碑、井上山人の句碑、富安風生の句碑等があり、大きな檜が切り倒されて横たわっている。
 三峯神社の由緒は古く、景行天皇が日本武尊を東国に派遣した折、当地の山川が清く美しい様子を見て、当山に伊弉諾尊、伊弉冊尊の二神を祀ったのが始まりと書かれている。なかなかに格調がある春日造りの本殿である。
 昨日来た道を秩父市に戻るときに見ると、昨日は暗かったので見えなかったが、武甲山が石灰岩採取のために随分削り取られている。この分では何十年か後には「武甲山跡」になってしまいそうである。
 遅くなったが折角だから長瀞を見ていこうと思い、140号線を北上して、暮れかかった頃に長瀞に着くことが出来た。埼玉県立自然史博物館の脇に車を停めて川に出てみたら、「岩畳」がきれいである。長瀞付近の代表的岩石は、緑泥片岩という結晶片岩の一種で、付近にはこのほか各種の片岩類があり、総称して長瀞式変成岩といわれているが、まるで畳を敷き詰めたように見えることから「岩畳」と呼ばれている。岩畳の陰で子供達が焚き火をして遊んでいた。子供達に聞こえないように川越の芋の効果を披露した。