淺野家の菩提寺であり義士の寺である台雲山花岳寺へ行った。曹洞宗の寺である。門前に「淺野公霊廟義士木像」と書かれた石柱が立っている。門を入ると目の前に二代目大石なごりの松がある。昭和2年に松食い虫のために樹齢310年で枯れたという初代の直径1m以上ある枯れ木が保存されている。側に小さな松の木があるが、三代目の候補かも知れない。松の隣に「鳴らずの鐘」がある。四十七士切腹の知らせを聞いた人々が寺に集まり、冥福を祈って鐘を打ち続けたという。寛政9年に改鋳された鐘には「爾来音韻を失すること五十年」との銘がある。本堂の正面には細井広沢書の額があり、天井には大きな虎の図が描かれている。淺野家の系図と吉良家の系図が並べられているのが可笑しい。本堂から先は300円の拝観料が必要である。先ず義士の墓参りをした。淺野公の両脇に大石父子が並び、周りに四十七士がコの字に並んでいる。案内のオバサンに「泉岳寺には遺骨、こちらには遺髪を納めてあります」といわれて淺野公の墓石を見て驚いた。「冷光院殿前朝散太夫吹毛玄利大居士」と刻まれているではないか。泉岳寺の墓石には「冷光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利大居士」と刻まれている。オバサンに「この戒名は間違っている」といったらビックリしていた。淺野公の戒名は本邦最長であるが、花岳寺の墓石では2文字が省略されたのであろう。因みに、京都山科の瑞光院の墓石は中の7文字を省略して「冷光院殿吹毛玄利大居士」となっているという。義士宝物館煮は、大石内蔵助の刀、内蔵助がとどめを刺した刀、武林唯七の鎖鎌、千馬三郎兵衛の刀、岡島八十右衛門の刀、不破数右衛門の甲冑、堀部弥兵衛の槍、大野黒兵衛の算盤、復讐奉告文、書状、掛け軸など四十七士縁の品が多数展示されている。内蔵助好みの杯には小さな字で「定 一、喧嘩口論の事 一、下におくべからず 一、おさへ申すまじき事但し相手によるべし 一、したむべからず 一、すけ申すまじき事但し女中は苦しからず」と書かれている。大石内蔵助は儒学を伊藤仁齋に習い、軍学を山鹿素行に習っている。赤穂にいながらにして素晴らしい師に恵まれたものである。義士木像堂には、右側に表門組23人、左側に裏門組24人と萱野三平の木像が安置されている。大石神社の兵馬俑義士と違ってこちらはそれらしい姿をしている。笠間城主長重公、初代赤穂藩主長直公、二代藩主長友公の墓が並んでいる。赤穂淺野家は三代で断絶したのである。大高源五子葉の大きな句碑
こぼるゝを許させ給へ萩の露
がある。観光バス2台の団体が到着して急に騒がしくなった。
赤穂事件は余りにも有名であるが、
条件1:内匠頭が殿中で刃傷に及んだ(藩主の短慮)
条件2:梶川与惣兵衛が内匠頭を抱き留めた
条件3:四十七士が処刑された
が全て満たされなければ、内匠頭や四十七士が後世まで名を残すことにはならなかったのである。「条件2」は特に重要である。あそこで梶川が抱き留めなければ、吉良上野介は御名御璽になり、万事休したのである。梶川こそが「忠臣蔵」誕生の功労者である。条件1だけを満たす殿中刃傷事件は他にもあったが、知名度はまるで低い。
大石神社の義士宝物殿や赤穂市立海洋科学館・塩の国など見るべきところがまだあるが、次回の楽しみに残して、先を急ぐことにした。山陽自動車道を赤穂から和気まで走り、少し戻って備前市にある閑谷学校を訪ねた。岡山藩主池田光政が1670年から1671年にかけて造営した庶民教育のための学校である。重要文化財に指定されているかまぼこ型の石塀に囲まれたキャンパスには、備前焼の赤瓦がきれいな建物が点在している。300円の入場料を払って希望すれば、テープ案内のラジカセを貸してくれる。入母屋造りの講堂は国宝に指定されているが、世界遺産への登録を目指して推進委員会が出来ているらしい。講堂の脇には藩主が来校した際に休憩する「小斉」と呼ばれる茶室風の簡素な建物がある。「文庫」は独立した小さな建物である。当時設置審議会があれば「図書館の充実が望まれる」と指摘されたかも知れない。本校の目的は四書五経を主な教材として儒学を教授し、中堅的な人材を輩出することにあった。全寮制で「学坊」と呼ばれた寮の跡には資料館が建っている。庶民教育のための学校としては実に立派である。キャンパス内には池田光政公を祀る閑谷神社と、金ぴかの孔子像を安置している聖廟がある。聖廟の前には2本の楷の巨木があり、秋にはきれいに紅葉するという。
和気町へ行き、和気清麻呂と和気広虫を祀る和気神社を訪れた。社前には朝倉文夫作の大きな和気清麻呂像が建っている。1.8mの台座の上に4.63mの青銅製の清麻呂像が乗っているから、相当に巨大な銅像である。後ろにさざれ石が置いてある。宇佐八幡へお詣りする清麻呂を300頭の猪が護ったという故事に因んで、この神社の狛犬は猪である。「狛猪」というべきか。和気清麻呂は「道鏡が天皇になるのを阻止した人物」として高く評価されているが、見方を変えれば「天皇を世襲制から選考制に変えることを阻止した人物」である。もっともあの場合は選考基準が悪かったというべきであろう。あの選考基準には私も賛成しかねる。
日野富子の墓参りをするために熊山町を訪ねた。教科書に「熊山町沢原(そうのはら)にある小川山自性院」とあるので、近くのK-martに寄って聞いたら「さわはらですね。それならこの先の橋を渡って・・・」と教えてくれた。どうも教科書は当てにならない。天台宗の小さな寺で小川山常念寺であるが、昔は小河山慈照院といっていたらしい。案内板がなくそれらしいものも見当たらないので、恐る恐る裏手に回ってみたら、きれいに区画された一角に足利義政公供養塔と御台所富子の墓があった。熊山町教育委員会の説明板には「沢原(そうのはら)」と書かれている。元々「そうのはら」だったが最近になって「さわはら」と読まれるようになってしまったということらしい。「月寒」を「つきさむ」と読むようになってしまったのと同断であり、言語道断である。足利義政がこの地に隠居して病没し、富子がこの寺を建てて菩提を弔った云々と記されていて、「足利将軍義政供養塔」「小河御所富子之墓」と伝えられる2基の小さな塔があり、富子の戒名は妙善院慶山大禅定尼である。富子の辞世の歌は
偽りのある世ならずはひとかたにたのみやせまし人の言の葉
といわれている。住職に話を聞くことが出来た。
和気清麿公墳墓之地を訪ねた。分骨が納められているというこぢんまりした墓の前には、清麻呂の小さな像が建っているが、和気神社にある銅像とは比べるべくもない。
対向車が来たらどうにもならないような山道を6km登って、熊山神社に辿り着いた。「天莫空勾践 時非無笵蠡」で知られる児島高徳は、建武3年4月に新田義貞と謀ってこの地に兵を挙げ、尊氏方の赤松軍と戦ったと伝えられている。腰掛け岩や旗立岩がある。大社造りの社殿の前には数十本のローソクが立てられる大きなローソク立てがある。こんな山の上の神社に一度に大勢の参拝者が来るのかしらと不思議に思った。境内には日吉、天神、祇園、伊勢など各地の神社のエイリアスがある。樹齢1000年といわれる杉があるが、取り立てて驚くほどのものではない。
海抜508mの熊山山頂近くには国指定の史跡「熊山遺跡」がある。方形3段の石積みで、奈良時代に造られた仏塔といわれている。山頂の展望台からは小豆島などがきれいに見える。大きなスズメ蜂が近付いてきたが、死んだふりをしていたら何処かへ行ってしまった。登山者のグループが来ているところを見ると、手頃な登山コースになっているのであろう。
先程登ってきた道を戻らずに反対側に下りることにした。こちらの方がずっと楽に走れる道だった。山陽から山陽自動車道に入り、岡山で下りて国幣小社備前一宮吉備津彦神社へ向かった。吉備津彦命を祭神とする社殿は、本殿、渡殿、祭文殿、拝殿の4つが縦に並んでいる。ダブル大社造りというべきか。本殿前にある平安杉は昭和5年の本殿火災によって幹の半分以上が枯れている。境内には1年に2回花が咲く桜があり、ちょうど見頃だった。5時が門限で追い出されたので、急いで官幣中社吉備津神社へ向かった。
こちらも祭神は吉備津彦命である。案内には「当社は三備(備前、備中、備後)の一宮であり、山陽道の総鎮守である。吉備津彦神社は備前一宮である」と書かれている。どうやら本家争いらしい。吉備津造といわれ2つの破風を持つ本殿は国宝に指定されている。昭和61年1月場所の千代の富士の優勝額が置いてある。国指定重要美術品の銅鐘が無造作に置かれているが、神社に鐘があるのは神仏習合時代の名残であろう。境内には大銀杏がある。絵馬を掛けるトンネルが面白い。頤和園を偲ばせる長廊があり、キンモクセイの香りが漂っていた。社前に「吉備津彦命が矢を置いた」といわれる岩がある。
最上稲荷の大きな鳥居を右手に見ながら、暮れかけた道を高松城跡へ急いだ。高松城は沼地に造られた平城であり、織田信長による天下統一の一環として、羽柴秀吉が水攻めによって落城させたことで知られている。秀吉は城の周囲に12日間で堤防を築き、折からの梅雨で増水した足守川の水を引き入れて水攻めにした。落城寸前に本能寺の変が起きたために、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に毛利と和睦し、「中国大返し」によって明智光秀討伐に向かった。現在は本丸跡や築堤の一部が残り、公園として整備されている。清水宗治の辞世の歌
浮世をば今こそ渡れもののふの名を高松の苔に残して
の歌碑があり、首塚がある。「水攻音頭」という歌もある。
すっかり暗くなった道を岡山駅へ急ぎ、19時過ぎにトヨタレンタリース岡山西口店に辿り着いて車を返し、駅の地下道を通ってホテルグランビアにチェックインした。
歩いて相生橋を渡り、古京町にある内田百間先生の生家跡を訪ねた。たいした距離ではないと思ったのが大間違いで、片道小一時間かかった。既に生家跡は全く変わってしまい、
木蓮や塀の外吹く俄風
の句碑があるのみである。直ぐ近くに内田百間記念碑園が造られている。1m足らずの高さに積まれた石垣のようなものがあるだけで記念碑らしきものは見当たらないので「まだ記念碑は出来ていない」と思ったが、そうではなく、その石垣が記念碑で、「春風や川浪高く道をひたし」という句と、「私は古京町の生れであって 古京町には後楽園がある 子供の頃から朝は丹頂の鶴の けれい、けれいと鳴きわたる声で目をさました」という文が読み難い字で彫られているそうである。夜だから分からなかったが、昼間でも気が付かないだろう。