かけはしや命をからむつたかづら

忘月忘日 木曽路と伊那谷を訪ねてみようと思い、朝6時に出発して中央道に入った。紅葉シーズンの連休だから渋滞があると予想して早起きした甲斐があって、朝靄の中を快調に走り、甲斐の国では白雪を戴いた富士山を眺めることも出来た。
 塩尻で中央道を出て国道19号線に入り、桔梗ヶ原の葡萄畑の中を走り、洗馬、本山、日出塩と順調に過ぎた。この辺りでは古来「洗馬はさんずい、塩尻ゃ土偏、何故か本山偏がない」といわれている。日出塩を過ぎる辺りからだんだんと山が近くなり、間もなく木曽路の北口楢川村に入る。
 平沢の町外れにある「木曾くらしの工芸館」に寄ってみた。9時20分で本日の来訪者第一号だった。木工品の数々が展示されているが、中でも高級漆器の工程の複雑さと値段の高さには驚いた。出るときには駐車場がほぼ一杯になっていた。
 楢川村役場に寄ってみた。樹齢数百年の板谷楓の巨木の下に芭蕉の句碑
  送ら連ツをくりつ者てハ木曾の秋
がある。落ち葉を掃除しているおばさんの信州弁による説明を懐かしく聞いた。
 平沢の街をゆっくりと走り抜けたが、平沢はすべて漆器屋である。町外れにある店に寄ってみたが、天然木を使った漆器は高価で、お椀が2万円以上する。安いものはチッブ材を使っているとのことである。
 奈良井の駅前に車を停めて、奈良井宿を歩いてみた。以前来たときとは随分変わっているが、古い家が並んでいて、全ての家にえちごや・みのわや・伊勢屋・田中屋・よろずや・かなめや・中村屋・信州屋・・・等と屋号が掲げられている。田中屋・中村屋・信州屋等同じ屋号の家が二軒あるものもあるから、屋号だけでは区別がつかない。奈良井宿の特徴は、殆どの家に小さなうだつがあがっていることと、庇を支える洒落た形の腕木である。更に、隣家との間に全く隙間がないから、万一火事が出れば延焼を阻止することは至難ではないだろうか。平沢ほどではないがここにも漆器屋が多い。柳屋漆器店という店に入ってみた。木目が見えるお椀に興味を惹かれ、インテリ風の感じのいい主人の説明を聞いて益々気に入って、十種類程ある中から桜・樫・胡桃・栃・楓の5個を買った。底に木の名前が書かれている。樫は他と比べて随分重い。値札は2000円と2200円になっていたが「200お引きします」といい、実際には全て1800円にしてくれた。オマケにもらった薄の穂にバッタがとまっている飾りが可愛い。一見同じ様に見える品を400円位で売っている店もあるが、中国製で全く似て非なる物である。
 餓になったので徳利屋という店に入って、五平餅定食を食べた。山椒味噌・胡麻・胡桃の三色五平餅、蕎麦、冷奴、大根・油揚・菜・煮干しの煮物、キャベツとナメコ、漬物、柿でなかなか美味しかった。室内には古い懐かしい高級な電蓄ラジオやBaldwinのピアノ等が置かれていて、廊下にはナメコやシメジが干してある。偶然入ったこの店は脇本陣でかつては奈良井宿の帝国ホテルであり、島崎藤村・幸田露伴・正岡子規等が泊まったという。大きな囲炉裏には火が熾されていて、神棚には繭玉が飾られていたが、繭玉の蔭に鎮座している木彫りの道鏡形が目に付いた。
 街の中程に明治天皇行在所上問屋史料館があり入場無料らしいから入ろうとしたら、衝立の蔭におじさんが隠れていて入館料を徴収しているので止めにした。
 木曽最大の宿だったというだけあって街並みが延々と続いている。突き当たりが見えてきたのでそこで終わりかと思ったら、鍵の手でその先に更に街が続いていて、高札場があり鎮神社があってやっと町外れであった。通りのあちこちに共同井戸の水場が保存されていて、現在でも使われている。
 引き返して線路を横切り、奈良井川に架かる総檜造りの木曽大橋を見に行った。これは新しく造られたもので歴史的遺産ではない。
 奈良井から国道19号線を南下すると直ぐに新鳥居トンネルに入った。この上は分水嶺の鳥居峠であり、このトンネルが出来るまでは、すれ違うのが大変な位の狭いトンネルだった。トンネルを出た先には木曽川が流れている。
 薮原を過ぎて日義村に入り、国道からそれて旧街道に入った所に巴淵があり、蛍石色のきれいな水が淵をなしている。ここに棲む龍神が化身して巴御前になったとという伝説があるが、巴がここで泳いでいれば黒山の人だかりだったに違いない。森川許六の句碑
  山吹も巴もいでて田うえ哉
と、千村春潮の慕情之碑
  粟津野に討たれし公の霊抱きて巴乃慕情淵に渦まく
がある。
 旗挙八幡宮に行こうと思って案内に従って進んだがそれらしいものが見当たらない。国道に出たところに神社があったが、旗挙八幡宮ではなく南宮神社だった。これも義仲に縁のある神社ではあるが、旗挙八幡には是非行ってみたいと思い、仕事をしているおじさんに聞いてみたが、教えてくれた場所は地図とは全く違う所だった。そんなはずはないと引き返してみたら、何と先程通り過ぎた所にあるではないか。樹齢800年と推定される元服の大欅があり、落雷で傷つき頑丈な鉄製の支柱が立てられているが、義仲が元服したときには苗木だったことになる。神社は無人で、「旗挙八幡宮御守」と書かれたお札が蓋付きの箱に入っている。霊験あらたかならんことを祈り、通常はお賽銭は「御縁があったら宜しく」ということで5円と決めているが、この時ばかりは大枚をはずんでお札を戴いた。
 義仲の菩提寺である日照山徳音寺へ行ってみた。以前来たときに比べると周辺の様子が随分変わっているのに驚いた。立派な道路が出来、義仲館が出来ている。山門を入ったところに馬に乗った少女の頃の巴の像があるが、丸顔の田舎娘で長じてからの凛々しい巴御前の片鱗を窺うことが出来ない。裏手にある墓所には、従四位下征夷大将軍左馬頭伊豫守朝日将軍(徳音寺殿義山宣公大居士)の墓の前に、御母堂小枝御前、巴御前(龍神院殿真厳玄珠大姉)、樋口次郎兼光(心光院天院信高大禅定門)、今井四郎兼平(浄室信戒大禅定門)の墓が並んでいる。境内にある宣公郷土館に入ってみたが、たいしたものはなかった。
 徳音寺の門前に義仲館ができてこの辺りの様子が一変した。玄関前に義仲と巴の立派な像が建てられている。金馬が「義仲の四天王は樋口、今井、たて、ねのい」といっていて、樋口と今井は中原兼遠の息子で巴の兄と知っているが、「たて」と「ねのい」が分からなかった。然し、ここに来て疑問は氷解した。玄関を入ったところに義仲、巴と並んで四天王の等身大の人形が飾られている。「たて」は楯六郎親忠、「ねのい」は根井大弥太行親であった。物の本を見てもインターネットで探しても分からなかったものがここに来て分かったことは実に嬉しい。ここには義仲関係の資料が豊富に揃えられている。これで、産湯の井戸から終焉の地まで、義仲に関する主要な所は、倶利伽羅峠を除いて、訪問したことになる。是非とも倶利伽羅峠にも行ってみよう。
 義仲の墓があるもう一つの寺、木曽福島町の興禅寺へ行ってみた。木曾家12代の信道公が再興した寺で、東洋一の広さの枯山水の庭が自慢らしいが工事中で入れなかった。不思議なことに山門に寺号が掲げられていない。墓所には義仲の墓と木曾家12代、18代、19代の当主の墓が並んでいる。隣にある木曽営林署の建物を写真に撮って、福島の町を抜けて国道に戻った。
 「木曾の桟」はてっきり木曽川に架けられていたと思っていたが、そうではなかった。標識が出ているので場所は直ぐに分かったが、どれが桟かさっぱり分からない。「桟は対岸から見て下さい」と書かれているので、対岸に行ってみたが一向にそれらしいものは見つからない。国道側の山の中腹で工事をしている所がそれにちがいないということにして、写真を撮った。芭蕉の句碑
  かけはしや命をからむつたかづら
が2つあり、子規の句や短歌の碑もあるが芭蕉の名句とは比べるべくもない。念のためと思ってよくよく説明書きを読んでみたら「国道の下に石積みが残っている」と書かれているではないか。確かに国道の下にそられしきものがある。桟は川を渡るのではなく、川沿いに伝って歩くためのものだったのだ。先程写真を撮った山の中腹の工事現場とは違って「命を絡む」というほど川面から高くはないが、それにしても昔の旅人は大変だったと思う。改めて本物の桟跡の写真を撮った。危うく「木曾の桟」を誤認するところだった。
 薄暗くなりかけた桟を後にして、国道を南下し、寝覚ノ床を過ぎ十二兼の駅を過ぎた所を右折して柿其温泉へ向かう道に入った。ナビゲーターには「柿其温泉」が登録されているが道案内をしてくれないので、地図を頼りに山道を登って行った。所々に看板が出ているので心配はなかったが随分山奥に入ったと思う頃にやっと辿り着いた。今日の宿は民宿「いち川」である。
 台所にいた女将が顔を出して「お風呂を先にする、御飯を先にする、どっちでもいいよ。悪いけど自分で部屋に行ってくれない」といって鍵を渡してくれた。実に威勢がいい、江戸っ子に違いない。暫くすると電話で食事が用意できたと知らせてきたので、下の食堂へ降りていった。
 馬刺・黄しめじ・アケビの芽のお浸し・岩魚の燻製スープ(長芋と銀杏入り)・醤油を絞った豆・里芋・舞茸の天麩羅(白と黒)・蕎麦サラダ・芋がらの酢の物・杉ひら茸の吸物・御飯・沢庵・リンゴ。全て山の幸であり、自家製又は自分で取ってきたものを使っているという。茸が多い。馬刺が美味しいので追加を頼んだら「この馬肉はアメリカ産です。松本辺で食べる馬刺は国産でこれよりこわい。霜降りの肉もあるが高くてうちでは出せない」という。確かに軟らかくて脂気のない美味しい馬刺である。当主兼板長は木曽弁丸出しで話すので懐かしい。
 誰も入っていない檜風呂に悠々と入り、すっかり暖まって部屋に戻って寝た。

 9時半頃に寝て目が覚めたら5時だった。寒いのでオイルヒーターをつけた。うとうとして目が覚めたら8時を過ぎていた。朝食を8時半にしてあるのでそろそろ起きなければならない。
 朝食は、五加のお浸し・栗茸・蕗の甘露煮・蕗味噌・梅干、生卵、海苔、漬物(はやと瓜の芥子漬と山牛蒡)、味噌汁(シバモチとズボというナメコの親分のような茸が入っている)。食材や料理法等の話を聞いていると、女将は江戸っ子ではなく名古屋弁に近い。聞いてみたら、地元の生まれだが十年以上中津川にいたという。宜なるかな。
 「うちは民宿としては高い方だ」といっていたが、料理に手間暇をかけているのが売り物で、旅館のようなサービスを一切しない代わりにサービス料も取らない。彦根八景亭の御老女様の手厚いもてなしとは対照的である。殆ど民宿に泊まったことがなかったが、ここは料理はうまいし建物は新しいしなかなかのものである。
 10時前に出発して、山を下った。明るいところで見ると途中に随分人家がある。昔はここは柿其村だったが、与川村、三留野村と合併して読書村となり、更に近郷と合併して南木曽町になった。よかわ、みどの、かきぞれの3村が合併してよみかき村というのはなかなか面白い。子供の頃不思議に思った村の名前の由来が分かった。というわけで、昔は独立した村だったから、ある程度人家があっても不思議ではない。
 国道に近いところに不思議な大きな橋が道路の上に架けられていたが、福沢桃介が造った柿其水路橋である。
 国道を南下して妻籠宿へ向かった。着いて驚いたことには、大変な人出である。町営駐車場に車を停めた。500円である。昨日の奈良井宿も随分人が多かったが、ここはそれより一段と賑やかである。ここは原則として通りには車を入れないから、街並みの写真を撮ったりするのには具合がいい。脇本陣に入ってみた。現在の建物は明治10年に建て替えられた総檜造りである。床の間に芭蕉の句の掛け軸があったが読めないので説明のおばさんに聞いてみたが分からなかった。後で調べたところ、許六への挨拶の心をこめて発想したという
  けふばかり人も年寄れ初時雨
である。隣接する資料館を見て、道を挟んではす向かいにある本陣を見学した。本陣は島崎藤村の母の実家であり、藤村の兄が跡を継いだ。奈良井宿では極少数ではあるが現代風の建物が混在していたが、妻籠宿は徹底していて一切現代風の建物はない。奈良井に比べて新しい建物が多いように思われるが、如何に新しくとも昔風の様式で建てられている。寺下の通りといわれる街の南半分には古い建物が多く残っている。お焼きを買って車に戻り、馬籠宿に向かった。
 馬籠峠を越えて馬籠宿に着いてみると人と車の洪水である。ここの村営駐車場は無料であるが、満杯で置く場所が見つからない。やっと一台分のスペースを見つけて停めることが出来た。馬籠宿はかなりの坂道である。ここは妻籠宿より更に新しい建物が多いが、全て古風な建築に統一されている。馬籠の本陣である島崎藤村宅跡に建てられている博物館相当施設藤村記念館に入ってみた。藤村関係の資料がふんだんに展示されている。中に藤村が所有していた一茶真筆の掛軸
  しほらしや蛇も浮世を捨衣
が目に付いた。博物館の隣には藤村の子孫が居住しているらしい。
 餓になったので五平餅を食べて腹ごしらえをして出発した。藤村は「木曽路はすべて山の中である」といっているが、天竜川沿いの急峻な谷間に比べればなだらかなものである。
 神坂峠を越えて園原へ抜けてみようと思い、山にさしかかる所で「園原方面は工事中のため11月30日まで通行止」の表示に出くわした。已んぬる哉。引き返して高速道路で行くに如くはない。引き返そうとしてふと見ると「兼好法師の墓」という案内がある。直ぐ近くらしいからと思って行ってみたが辿り着けない。諦めて引き返したが、馬籠方面からの帰りの車で国道への合流に時間がかかった。
 4時少し前に園原に着き、勝手知ったる道を登って広拯院に行った。芭蕉の句碑
  この道や行く人なしに秋の暮
がある。「義経駒つなぎの桜」や「箒木」を通り越して、前回行けなかった神坂神社に行ってみた。入口に万葉集東歌巻一四の三三九九の歌碑
  信濃路は今の墾り道刈りばねに足ふましむな沓はけわが背
がある。境内には樹齢千年以上という巨大な日本杉が一本と、樹齢数百年の栃の巨木が数本ある。日本武尊腰掛石に座って天下を睥睨する気分を満喫した。本殿の脇には「日本武尊駐蹕之舊跡」の碑が建っていて、万葉集防人の歌碑
  ちはやふる神の御坂に幣まつり斎ふ命は母父がため
が建っている。引き返して、美しい紅葉に映える暮白の滝を眺め、箒木を見に山を登った。すっかり暗くなった園原を後にして、国道153号線を飯田まで走り、中央道に入って、駒ヶ根で人間と車の両方に燃料を補給して帰ってきた。天気が良かったせいで車が多かったが、予報より渋滞が緩和されていた。