泉石の町に篆刻美術館

忘月忘日 久し振りに小さな旅に出ることにした。泣き出しそうな空模様である。8時半前に出発して稲城から中央道に入り、高井戸から環八に出て大泉まで行き、外環から東北道に入って久喜で下りた。桜が終わり、天気が怪しいせいかも知れないが、殆ど渋滞が無く順調に走ることができた。先ず、「将軍の間」や「左甚五郎の彫刻」があるという幸手の聖福寺を訪れようと思って、ナビゲーターに電話番号を入力して走って来たのだが、辿り着いたところは正福寺だった。寺は真新しいコンクリート造りで、「将軍の間」や「左甚五郎の彫刻」があるとは思えないし、併設されているはずの幼稚園も見当たらない。「正」と「聖」の2つの寺が並んでいるのかなと思って近隣を見渡してみたが、他に寺らしきものは見当たらない。境内には銀杏の巨木があり、史蹟幸手義賑窮餓之碑がある。天明3年の浅間山の大噴火による飢饉に際し、幸手宿の名主達が米や金を出し合って難民を救済したことが関東郡代伊奈氏の知るところとなり、この碑が建てられたという。石塔を100個以上積み上げた「石塔塚?」があるのが珍しかったが、「正」と「聖」の異同は確認できなかった。後日インターネットで調べたら、正福寺の近くに聖福寺があることが分かった。
 日光街道を通り、幸手の町を抜けて「内国府間」から国道4号線に入った。「内国府間」は「うちごま」と読む。少し北上したところに「外国府間(そとごま)」がある。更に行くと「小右衛門」「小右衛門北」という交差点がある。その昔この辺りには小右衛門という親分か大地主がいたに違いない。こういう歴史を彷彿させる地名を保存していることに敬意を表したい。
 利根川橋を渡って、古河市の歴史博物館へ行った。石畳の道を進んだところにある新しい立派な建物である。古河藩の家老で蘭学者・地理学者としても知られる鷹見泉石を渡辺崋山が描いた国宝の画(複製)が展示されている。鷹見泉石が作成した木版「新訳和蘭国全図」は現在の地図に負けない素晴らしい精緻なものである。古河藩は大老土井大炊守に始まるが、小笠原氏が松本から転勤してきたこともあり、些か身近な感じがする。ゆっくり見学した。古河藩主であり幕府の老中を務めた土井利位は、日本で最初に雪の結晶を観察し「雪華図説」を著わしている。藩主土井利位と家老鷹見泉石、幕末の古河藩は科学の最前線にあったといえる。
 向側にある鷹見泉石記念館に寄ってみた。鷹見泉石の屋敷を復元したものである。炉に火が燃えているので、暖を取り、茶を飲んだ。躑躅がきれいに咲いていた。
 少し離れたところにある篆刻美術館に行ってみた。大谷石造りの3階建てで、古河出身の篆刻家生井子華や岩手出身の篆刻家鈴木般山の遺作などが展示されている。篆刻関係の書物が備えられている中に『大漢和辞典』もあった。
 餓になったので昼食を食べることにして、博物館の案内嬢に聞いてみたら、鰻が良いという。近くに2軒あったが、校長先生に敬意を表して「増田屋」に入った。どうやら当地一番の鰻屋らしい。私は鰻重(上)、達磨大師は竹定食を食べた。竹定食は鰻重(並)と鯉の洗いである。鰻重は、重箱、鰻の大きさ、肝吸いに肝のあるなしなど「上」と「並」の違いがはっきりしていた。隣の石屋の店先に「長谷くわんおん」と刻まれた石があったのに因んで、待っている間に「観音開き」の語源について論じた。堂や厨子の扉の形が語源であるというのが通説らしいが、中にいるのが不動様でも閻魔様でも普賢菩薩でも堂や厨子の扉は大抵両開きであるというようなことを熟慮すれば、「観音開き」の語源は日本中至る所におわす「観音様」でなければならない、という結論に達した。
 古河には源三位頼政の首が葬られていると伝えられている。その頼政神社に寄ってみた。参道に由緒ある手水鉢、灯籠、狛犬が並んでいるが、灯籠は立派だった。頼政の首が葬られているかどうかは定かではない。「頼政はあやめを賜わって、太陽が黄色く見えただろう」などといいながら、参拝した。「文化十年」と刻まれたコンクリート製の鳥居があった。日本の工業技術は、定説よりも遙かに早く発展していたらしい。
 近くに日本三大長谷観音があるらしいが、そんな大きな観音には興味がないから、割愛した。街路樹のハナミズキが満開の4号線を北上して、栃木県の野木町にある真言宗法音寺を訪ねた。ここには芭蕉の句碑
   道ばたのむくげは馬に喰連けり
がある。これは小夜の中山辺りで作られた句で、「道のべの」となっている。この寺は、平成4年に興教大師850年遠忌と開山600年を記念して2億7000万円の寄附を集めて大改修したという。筆頭寄付者は当寺の住職で1000万円である。これでは「坊主丸儲け」を自白しているようなものではないか。
 少し戻って野木神社に行き、坂上田村麻呂が蝦夷討伐から凱旋する途次当地に立ち寄って植えたと伝えられる樹齢1200年の銀杏の巨木を見た。巨大な気根が多数伸びている。乳牛の乳房を連想させる形のものが多いが、中には、先がふくらんで亀の頭のような形になっているのもある。米糠を白布で包んで乳房の形にした物を奉納して、乳が出るようにと祈願する風習があるという。絵馬と並んで6組12個の乳房が奉納されていた。宝暦十年建立と書かれた小さな芭蕉墳があり
   一疋のはね馬もなし河千鳥
の句が刻まれている。「芭蕉句碑」と書かれているが、これは芭蕉の句ではないらしい。境内の池の辺に二輪草がたくさん咲いていた。川中美幸が歌う「二輪草」という歌があるが、花を見たことがなかったので、見聞を広めることができた。
 直ぐ近くに古めかしい煙突が聳えているので、寄ってみることにした。行って見ると「ロイヤルホースライディングクラブ」と書かれている。下野煉化製造会社のあった敷地は、現在は乗馬クラブになっており、中に入ってみると、乗馬をしている人達、つまり「馬家」達がいるが、奥の方に先程見えた煙突がある。通称「シモレン」のホフマン式輪窯で、国指定の重要文化財である。16個の窯を備えた16角形の建物の屋根の上に8角形の煙突が立っていて、高さが31mある。補修工事をしている最中で、中には入れなかった。この地に煉瓦製造工場がつくられたのは、隣接する渡良瀬川から豊富で良質な煉瓦の原料となる粘土や川砂が採取できたことや、製品としての煉瓦の輸送に渡良瀬川の水運を利用できたことによるという。1890年から1971年まで82年間操業された。
 次に佐野厄除大師惣宗寺へ行った。境内にある朱色と紫色の大きな躑躅が素晴らしかった。鐘楼には金ぴかの鐘が吊るされている。厄除大師は「厄除元三慈恵大師」であるから、中国文化の研究に灼かな霊験が期待される。お札を買おうかと思ったが、1000円は高いのでやめた。家に帰ってから見たら、以前深大寺で買ったお札の方が安くて立派だった。境内には田中正造の墓がある。「嗚呼慈侠田中翁之墓」と書かれ、戒名は竣徳院殿義玄厳徹玄大居士である。盛岡中学の3年生だった石川啄木が、田中が明治天皇に足尾鉱毒の件で直訴したのに感動して詠んだ歌
   夕川に葦は枯れたり血にまとう民の叫びのなど悲しきや
が記されている。
 岩舟町の星宮神社に日本最古の算額があるというので行ってみたが、神社はかなり荒れていて、それらしいものは見つからなかった。欠け落ちている屋根瓦に七つ星の紋が付いているのを見て達磨大師が「由緒ありそうだ」というのに対して「それ程古くもなさそうだし・・・」といったが、鞄に入れて大切に持ち帰った。帰り道で「慈覚大師誕生の郷」と書かれた小さな標識が目に付いたので寄ってみたが、こちらでもそれらしいものは見つからなかった。町のホームページには「慈覚大師は名を円仁といい、794(延暦13)年に下津原の手洗窪で生まれました。やがて唐に渡って修行し、帰国後の854年に、日本の天台宗を大成させました。誕生地には円仁が産湯を使った古井戸があります。」と書かれているから、探せば見つかったのだろう。慈覚大師誕生の地は、近くの壬生町にもある。どちらが本当の誕生の地であろうか。
 佐野・藤岡から東北道に入り、外環、首都高速、中央道と順調に走り、帰宅した。我々は行いが良いので全く雨に遭わなかったが、道路が濡れているところを見ると、東京では雨が降ったらしい。