荒海や佐渡に横たふ天の川

忘月忘日 夏の越路を訪れることにした。快晴で暑くなりそうである。7時前に家を出たが、渋滞のため圏央道に入るまでに2時間近くかかってしまった。高速道路に入ってからは頗る順調で、かなり遅れを取り戻すことが出来た。約11kmある関越トンネルを越えて越路に入ると交通量が少なくなった。越後湯沢の辺りの様子は以前とは全く変わってしまい、所謂リゾートマンションが林立しているのには驚いた。「こしひかり」の本場として知られている魚沼を走っていると、自然に呼ばれたので越後川口で小休止した。朝飯前で「餓」になったので、「越後こしひかりせんべい」とパンを購入して走り出した。関越道は魚野川と信濃川を相次いで渡る。「こしひかり」を育んでいる魚野川はここで信濃川に合流している。
 長岡で関越道を下りて、「千秋が原ふるさとの森」にある「米百俵の群像」を見に行った。随分気温が上がって暑くなっている。場所が分からないので新潟県立近代美術館に寄ってみたが、屋外にそれらしいものは見当たらない。駐車場の整理をしているオジサンに聞いてみたら、親切に教えてくれた。「群像」は美術館の直ぐ向側にある。「車はここに停めていけばいい」というので、駐車場の空いている場所を探して奥の方に進んでいったら追いかけてきて「車は近い方に停めた方がいい」と誘導してくれた。
 「米百俵」の故事は長岡市のホームページに次のように紹介されている。
 【小泉首相の所信表明演説(平成13年5月7日)で一躍全国的に有名になった「米百俵」。この「米百俵」の精神は、長岡市民がずっと受け継いできた大きな遺産である。
 明治の初め、戊辰戦争で焼け野原となった長岡藩に、支藩の三根山藩(現在の新潟県西蒲原郡巻町)から見舞いとして百俵の米が送られてきた。窮乏を極めていた藩士は、米が分配されるのを一日千秋の思いで待った。しかし、藩の大参事小林虎三郎は、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、その代金を国漢学校建設の資金に注ぎ込んだ。夜中、虎三郎のもとに押しかけ、「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かって、「この米を、一日か二日で食いつぶして何が残る。国が興るのも、滅ぶのも、町が栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。この百俵の米を元にして、学校を建てたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、計り知れないものがある。いや、米俵などでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日暮らしでは、長岡は立ちあがれないぞ。新しい日本は生まれないぞ」と諭した。国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子供も入学を許可された。ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥、・・・。
 この「米百俵」の故事は、文豪・山本有三の同名の戯曲によって広く知られるようになり、「国が興るのも町が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ」という小林虎三郎の思想は、多くの人に深い感動を与えた。小林虎三郎は佐久間象山の門下で、吉田松陰と並んで「象門の二虎」と呼ばれた逸材である。】

 「群像」は、いきり立つ藩士達と彼等を説得している虎三郎を表わしていて迫力十分である。「米百俵」は小泉首相が引用したことによって俄然有名になったが、小泉首相は虎三郎の精神を正しく引用していない。小泉首相は「今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか」と言っているが、虎三郎は「苦しい時だからこそ教育に重点投資すべきである」と主張したのであり、「皆で痛みを分かち合おう」とだけ言ったのでは断じてないのである。引用は正確にしなければならない。
 長岡の生んだ偉人山本五十六の墓参りをするために、新幹線の線路の下にある立川総合病院の駐車場に車を停めて、普嶽山長興寺の墓地に行った。五十六の戒名は大義院殿誠忠陵大居士である。この墓地には当地出身の堀口大学の墓もある。教育を最重要視した虎三郎の政策は十分に成果を上げたといえる。
 山本五十六生誕の地は記念公園になっていて、生家が保存されている。2階建ての家で、1階に4畳半、6畳、7畳、2階に6畳と2畳の部屋があり、2階の2畳の部屋が五十六の勉強部屋だったという。大きな石膏の胸像がある。隈無く見学したが、大変な暑さだった。庭の奥の高い台座に乗っている五十六の胸像は、室内にある石膏像がその原型であろう。
 直ぐ近くにある山本五十六記念館には、ブーゲンビル島で撃墜された五十六搭乗機の左翼とその時の五十六の座席が展示されている。1984年に回収された物だという。五十六が14才の時に兄に宛てて書いたという手紙が展示されていたが、とても14才とは思えない位立派なものである。五十六の並はずれた資質と「米百俵」の精神による教育の成果に違いない。受付のオジサンが、今晩19時30分からNHKで「米百俵」の映画が放映されることを教えてくれた。御当地で見られるとは何たる幸運! これは見逃すわけにはいかない。
 大和デパートの角には米百俵の碑がある。虎三郎は米百俵を売った資金でこの場所に国漢学校を建てたという。長岡の教育の原点というべき場所である。
 市内にある二軒の有名な菓子屋「米百俵本舗」と「大和屋」に寄って、それぞれの代表的な銘菓である「米百俵」と「越の雪」を買った。
 大平山興国寺にある小林虎三郎の墓にお参りに行った。虎三郎は病弱ゆえに「病翁」と自称していた。何と虎三郎は明治10年8月24日に東京の谷中で没しているから、今日は彼の命日である。「病翁忌及び総会 小林虎三郎の遺徳を偲ぶ会」という看板があり、担当者が生花の用意をしているところだった。命日に墓参りが出来て良かった。しかも、今夜NHKで「米百俵」の映画が放映されることになっている。この上ない日程の設定だった。
 悠久山公園に行って「郷土資料館」を見る予定だったが、かなり歩かなければならないので省略して、長岡藩三代藩主牧野忠辰を祀った蒼柴神社に参拝してお茶をにごした。
 下田村にある「漢学の里」諸橋轍次記念館を訪れた。諸橋大漢和の崇拝者にとっては、ここを訪れることは「本山参り」といえるかも知れない。茶色い煉瓦造りの立派な建物で、1階が展示室、2階が研修室になっている。敷地内には轍次の生家と東京の諸橋邸から移築した編集室「遠人村舎」があり、孫悟空塔等もある。想像を遙かに上回る立派な記念館は、下田村が如何に轍次を誇りに思っているかを表わしている。
 三条市、燕市、吉田町を通って弥彦村へ向かった。途中、信号で停まったときに前を走っていた横浜ナンバーの軽自動車の人が下りてきて「吉田町の富士通にはどう行けばいいですか」と聞かれたので「地元の者ではありませんから分かりません」と答えた。県立近代美術館では多摩ナンバーを見て親切にされたが、今度はナンバーに気付かずに道を聞かれたらしい。進んで行くと、とんでもなく大きな鳥居をくぐった。1982年に上越新幹線開通を記念して建てられたという「日本一の大鳥居」で、高さ30m、「弥彦神社」と書かれた額の大きさは畳12枚分だという。先ず弥彦神社の隣にある宝光院に寄ってみた。芭蕉の句碑
   荒海や佐渡に横多ふ天乃河
や良寛の歌碑があり、「弥彦の鬼婆」伝説に縁の、樹齢1000年、幹回り10m、「婆婆杉」といわれる杉の巨木がある。
 弥彦神社は越後一宮である。本殿以下諸殿舎の屋根の葺き替えや祈祷殿・参拝控所・社務所の新築等々、八十五年ぶりの大修営事業を行っている。現在は随神門が改修工事中だった。神社の謂れなどを記した説明板が見当たらないので、「ここの祭神は誰か」と祢宜に聞いてみたら、即座に「アメノカゴヤマノ命で、天照大神の曾孫です」と答えた。明治末年に大火で焼けたが、再び芽吹いたという椎の巨木があり、良寛の讃歌が記されている。
 隣の岩室村にある岩室温泉の綿綿亭綿屋が今夜の宿である。薄暗くなった道を走って18時半頃に綿屋に着いた。19時半からテレビを見なければならないので、早速新館5階にある風呂に入りに行った。誰もいない湯船に悠々と浸かり、露天風呂にも入って部屋に戻ると食事の用意が出来ていた。雲丹ととろろの先付け、口取りとして無花果の生ハム巻き・エビ・きんとん・烏賊・鮹・たらこ・枝豆、間つなぎのおしのぎとして混ぜ御飯、胡瓜と鰻の皮の酢の物が並べられていた。「御料理は旬の命を大切に、天然調味料のみで調理致しております。御夕食は懐石料理です。1時間程かけてお出しさせて頂いております」と書かれている。次に、鯛の吸い物、刺身(鮪・はまち・甘海老・おきゅうと)、炊き合わせとして豚の角煮と茄子の煮付け、鰻の蒲焼き、素麺などが順次運ばれてきた。御飯、味噌汁、漬物が出されて、最後はフルーツパンチだった。フルーツパンチに入っていた小粒の物が何であるか思い出せなくて仲居さんに聞いた。彼女が「タピオカです」と答える直前に思いだしたが、タッチの差で間に合わなかった。予約の時に「食事の量は多くなくて結構です」と伝えておいたのがちゃんと了解されていたらしかったが、コシヒカリの御飯が美味しかったのでつい食べ過ぎた。
 食事をしながら「米百俵」の前編を見た。中村嘉葎雄が小林虎三郎を演じている。1993年の作品である。虎の命日に墓参りをして、「米百俵」の番組を地元で見ることが出来た。帰宅してから分かったのだが、これは新潟だけのローカル番組だった。何たる幸運! 十分満ち足りた気分で寝た。

 分水町にある良寛縁の国上寺、五合庵を見ていこうと思ったが、かなり歩かなければならないので省略して、寺泊港へ行った。ヨネックスレディーズオープンを見るために続々と車が集まっている。ヨネックスというからテニスかと思ったらゴルフだった。ここから会場まではバスで運んでもらうのだという。ゴルフを見物するというのは何とも物好きな限りである。海水浴に来た人もかなりいる。寺泊の漁港は東京からもバスを仕立てて来る位だから、こんなに小さい筈がないと思ったが、しかし、港の脇には「寺泊漁業協同組合」のビルがある。「支部」と書かれていないところを見ると、ここが本部であろう。だとすれば、ここが有名な寺泊漁港に違いない。何となく承服し難かったが、出雲崎に向かって海岸沿いに走ってみて、他に漁港がないことを確認してようやく納得した。新潟県に入ってから合歓の木が多いと思っていたが、この辺りにもたくさんある。合歓といえば象潟を連想するのであるが、越後路では至る所で目に付く。
 ヨネックスカントリークラブは寺泊から出雲崎に向かう途中にある。国道402号線には所々に臨時バスの乗り場が設けられ案内要員が待機していた。出雲崎に入る直前に「おけさ源流の碑」がある。佐藤継信・忠信兄弟の母「音羽の前」がこの地で出家して尼僧になり、義経のために立派な最期を遂げた我が子達の活躍を喜んで袈裟を着たまま踊ったのが起源であると説明されている。
 出雲崎は良寛の出身地である。海岸から急な坂を登った丘の上に「良寛記念館」があり、遺墨や遺品などが展示されている。この丘は「にいがた景勝百選一位当選の地」であり、眼下に出雲崎の町を見下ろし、眼前に佐渡が望める(筈である)。残念ながら、雲一つ無い晴天にも拘わらず、佐渡は全く見えない。
   雲も出ず佐渡も望めず出雲崎
出雲崎の街を見下ろすと、良寛堂や妻入りの家並みが手に取るように見える。「妻入り」というのは「妻」に出入り口を設けて正面とする建築様式のことであり、間口が狭く奥行きが長い。屋根が道路と直角な方向を向いているので、「うだつ」をあげることが出来ない。良寛記念館の前にある池では小さな魚たちが大騒ぎをしている。よく見ると、蛇が泳ぎ回っていた。
 出雲崎の街並は旧北国街道に沿って並んでいるが、今は海岸沿いに国道が通っている。丘を下りて北国街道沿いにある第四銀行出雲崎支店に車を停め、良寛和尚生誕の地に建つ良寛堂を見に行った。安田靫彦画伯の設計によって1922年に建てられたというこの堂は、良寛にピッタリの雰囲気を持っている。良寛堂の裏には海に向かって座っている良寛の像がある。
 良寛堂の少し西に、芭蕉が泊まったという宿の跡に建っている家があり「旅人宿「大崎屋」の跡」という説明板がある。ここで「荒海や」の句を作ったと言われている。「大崎屋」の少し西に「芭蕉園」があり、芭蕉の像と「銀河の序」の碑がある。良寛は芭蕉を「是の翁以前此の翁無く 是の翁以後此の翁無し 芭蕉翁、芭蕉翁 人をして千古此の翁を仰がしむ」と評している。平成元年に芭蕉像を建立した際の除幕記念献句が11句あったが、何れも論評の対象にはなり得ないものばかりだった。大きな看板に、この街道を通った人々のリストが掲示されていた。音羽の前、日蓮、遊行上人、上杉謙信、秀吉、中山安兵衛、伊能忠敬、十返舎一九、大前田英五郎(島破り)、吉田松陰、・・・、等の他、「イギリス人2人通行す」「イギリス人1人、ドイツ人1人来泊す」等というのもあって、なかなか面白い。芭蕉がこの地を訪れたのは今の暦で8月18日のことであるから、私は芭蕉と殆ど同じ時期にここを訪ねたことになる。
 更に西に行くと、妙福寺境内に「俳諧伝灯塚」がある。1755年に建てられた碑は磨り減ってしまって全く読めないが、1922年に建てられた新しい碑には
   五月雨の夕日や見せて出雲崎  東華坊
   荒海や佐渡に横たふ天の川   芭蕉翁
   雲に波の花やさそうて出雲崎  蘆元坊
の3句が刻まれている。
 町外れにある「北国街道尼瀬獄門跡」を見てから、石油産業発祥地記念公園にある石油記念館に寄ってみた。今日の入場者は私だけだったのではないだろうか。公園の中には赤い実を付けたハマナスがたくさんあった。
 海に突き出た観光ブリッジ「夕凪之橋」には絵馬代わりのキーチェインがたくさん括り付けられていた。橋の突端で4人組の若い男女が「シャッターを押して下さい」といったので、こちらもお願いした。海岸にある芭蕉像に並んで写真を撮った。
 ここまで来て田中角栄先生に敬意を表さずに帰るわけにはいかないだろう。西山町へ行ってみた。田中角栄記念館を訪問しようと思ったが、新しいのでナビゲーターに登録されていない。所番地を頼りに「坂田」という交差点に辿り着いたが案内板らしきものは何も見当たらない。歩いているお婆さんに聞いてみたら直ぐに分かった。途中「田中」という表札が出ている家の前を通ったので「これが生家かしら」と思ったがそうではないことが後で分かった。記念館は小高い丘の上にある。入館して先ずビデオを見た。生家で食事をしながら故郷のことなどを語る“角さん”が紹介されている。“角さん”の健康の源は「熊の胆」と「マタタビ」だという。展示室には机と椅子が置いてあり、椅子に座ってみたが、素晴らしい座り心地である。「館内撮影禁止」となっているが、椅子に座って写真を撮った人がいたのをいいことにして真似をした。写真で見ると田中真紀子外務大臣は母上に瓜二つである。ビデオで見たところでは生家はかなり大きな家であり、「敷地が3角形」といっていたから、先程目星を付けた家ではなさそうである。記念館を出て「折角だから生家も見て行こう」と思い、先程目星を付けた家の近くまで行き、歩いている農家のオジサンに「田中角栄先生の生家はどちらでしょうか」と聞いてみた。「ああ、角さんの家はね、その先を曲がった一軒目の家ですよ」といとも簡単に、しかし親しみを込めて教えてくれた。大きな門があり「田中直紀 真紀子」と表札が出ている。その向にある3角形の敷地の家が生家らしい。観光バスが来て路肩に停車した。
 大分予定より遅くなってしまったが、柏崎迄行って見ようと思い、柏崎コレクションロードにある「とんちン館」を目指した。新潟県は何処に行っても道路が立派である。残念ながら、長野県の道路とは雲泥万里の違いである。今更ながら、角栄先生の実力に感服せざるを得ない。「とんちン館」には石黒敬七旦那が集めた時計、カメラ、遠眼鏡、パイプ、キセル、写真等々約22000点が展示されている。よくぞこれだけ集めたものと感心する。「殆ど金をかけていない」と説明されているが、それにしても恐れ入谷の鬼子母神である。「とんち教室」で知られる敬七旦那の本業は柔道である。九段を贈られることになったとき「九段は靖国神社があるから」と遠慮して、十段になったという。「とんち教室」の折り込み都々逸で「たいふう」が出題されたとき「Tigerは虎、Eagleは鷲、Foolish馬鹿だよ、Woodは木」と答えたことなど今でもよく覚えている。ゆっくりと見物していたら閉館時間の18時になってしまった。本日の予定はこれまでということにして、柏崎から北陸道に乗り、長岡から関越道に入った。越後川口で燃料を補給し、途中少し夕立に遭ったがたいしたことはなく、渋滞にも遭わずに帰宅することが出来た。買ってきた長岡の銘菓を味わってみた。上品な味ではあるが、どうも甘過ぎる嫌いがある。特に「越の雪」はひたすら甘い。
 今回は、小林虎三郎の命日に「米百俵」の史跡を訪問し、芭蕉と同じ時期に越後路を訪れることが出来た。偶然ではあるが、素晴らしい企画だった。