夜半から雨になり、夜が明けても降っている。「観月」の「はぎ」の間に案内されて朝食を食べた。朴葉焼きねぶか味噌、納豆のなめたけ添え、卵焼きと蒟蒻の煮しめ細切り、ししゃもと大根の細切り、湯葉とひじき、海苔、漬物、御飯と味噌汁。 明治時代の玄関には恵比須・大黒が飾ってあり、囲炉裏に自在鍵が提げられている。先程まで降っていた雨があがって晴れ間が広がったかと思ったら又降り出したり止んだりめまぐるしく天気が変わる。玄関で女将に写真を写してもらい、車を回してもらって出発した。
荒城川の対岸にある本光寺に寄ってみた。親鸞聖人の大きな像や「ああ野麦峠」の碑があり、信州の製糸工場へ行った女工達の名を刻んだ玉垣がある。寺の前には標高493.6263mの一等水準点がある。
寺に車を置いて古い街並みを見て歩いた。「蓬莱」の渡辺酒造、「白真弓」の蒲酒造、三嶋蝋燭店等がある。渡辺酒造の前には杜氏の像があり、原料の米が堆く積まれていて仕込み作業が行われていた。三嶋蝋燭店には1mを越す道鏡蝋燭が飾られていた。
古川の視察を終わりにして次の目的地白川郷へ向かうことにした。町外れに出ると山々の黄葉が美しい。一人が思わず「錦秋の秋」と叫んだ。山に大きな虹が懸かっていたので、車を停めて写真を撮った。
河合村に入るとあまごの養殖池があちこちに見られる。沿道の電柱には「久寿玉」「蓬莱」「白真弓」の看板が掲げられているが、「久寿玉」圏、「蓬莱」圏、「白真弓」圏がはっきりと区分けされているのが面白い。この辺りでは「蓬莱」の勢力が強いように見える。
白川郷まで後20kmばかりの所に来たら「天生峠通行止 白川方面は回り道」と表示されている。冗談ではない、回り道をすれば細長いUの字を描くことになり80km以上ある! 然し、他に道がないのだから如何ともし難い。小鳥川沿いに南下する道は実に寂しい間道(寒道というべきか)で、東海北陸自動車道建設工事の車以外は殆ど走っていないが、工事の車が落とした泥のお陰で車が泥だらけになってしまった。夏厩から国道に入りほっとしたが、それにしても長い道のりである。荘川村役場から庄川沿いに北上して白川方面に向かい、やっと御母衣湖に出た。御母衣ダムは昭和36年に完成した高さ131m幅405mのロックフィル式ダムである。ロックフィル式ダムというのは岩石を積み上げて粘土や砂で固めるとのことだが、よく水圧に絶えられるものだと思う。湖岸に水没記念碑が建っている。このダムの建設によって学校が3校水没し1206人が移住したとのことで、水没した照蓮寺と光輪寺から移植した荘川桜の巨木2本が天然記念物に指定されている。1本が土もろとも40トンだったという。巨木の脇に2代目が植えられているのが面白い。この地に来て浄土真宗を広めた嘉念坊善俊上人(後鳥羽天皇の第12皇子で親鸞の弟子)の像や佐佐木信綱の歌碑がある。
御母衣湖沿いに走る国道156号線は至る所に現代版「木曾の桟」が設置されている。ダムを過ぎて少し行った所に重要文化財旧遠山家民俗館がある。160年程前に建てられたもので高さが15m程あり内部は5階になっている。中に入って上まで登ってみたが、囲炉裏の煙で真っ黒になっているが何とも寒そうである。
遠山家から少し行くと平瀬という集落があり、近郷が「蓬莱」圏か「白真弓」圏である中でここだけは「久寿玉」圏である。平瀬酒造はここの出身かも知れない。
庄川沿いに更に北上しやっと白川郷に辿り着くことができた。荻町の合掌集落に行き、農協に車を停めて先ず最古といわれている和田家を見た。合掌造りの家は現在白川郷全体で112棟あり、荻町には59棟あるとのことだが、歩いてみた感じでは合掌造りでない家の方が多く雑然とした印象を禁じ得ない。集落の外れにある明善寺の本堂と庫裏は白川郷最大の合掌造りである。然し、合掌造りの家は漠然と想像していたより小さかったし、集落が雑然としているのも「世界遺産」に相応しくない。飛騨牛の串焼きとみたらし団子を食べて昼食の代わりにした。飛騨牛の串焼きは大変美味しかった。白山の山頂は既に真っ白に雪を冠っているし、殆どの家は冬囲いを済ませている。もうすぐ白川郷は雪景色になることだろう。
遠回りさせられたお陰で大分時間が遅くなったので先を急ぐことにして、五箇山へ向かった。先ず上平村の菅沼集落を訪れた。ここは9棟の合掌造りの家があるだけでこじんまりとしていて如何にも合掌集落らしい。集落の入口に「五箇山民俗館」と「塩硝の館」が並んでいる。この辺りでは養蚕が盛んで、蓬、麻、蚕糞等を原料として塩硝を作っていた。明治の中頃まで米が穫れなかったので、粟や稗、栗や栃の実等が常食であり、年貢は塩硝で納めたという。
平村に入ったところにある村上家に寄って、もう一つの合掌集落である相倉へ急いだ。相倉集落は国道から少し入ったところにあり、荻町集落と菅沼集落の中間の規模である。集落にある地主神社には「森」の題で作った皇太子の歌
五箇山をおとづれし日の夕餉時森に響かふこきりこの唄
の碑がある。
国道に戻って、入口が合掌の形をしている五箇山トンネルを抜けると礪波平野が見えてきた。道路脇の展望台にある松村謙三の碑に敬意を表して、暮れかかった道を急ぎ、城端町を過ぎ福光町の銀座を抜けて山に入りかけた所に今日の宿法林寺温泉があった。
近くの華山温泉や川合田温泉が一杯で、一番安い法林寺温泉しかなかったので予約した。「一泊二食で6050円〜9100円」という値段からオンボロな湯治場を想像していたが、着いてみると3階建てのしっかりした建物である。駐車場に車を停めて荷物を取り出していると「鮮魚 仕出し 中川」と書かれた自動車が入ってきて玄関前で停まった。小一時間経ってから「お食事をお持ちしました」といって大きな重ね箱を持って仲居さんが入ってきた。見ると箱に「中川」と書かれているから、先程我々と同時に着いた車で運んできたに違いない。料理は仕出し屋から取り、御飯と味噌汁だけここで用意して各部屋に配膳しているのだろう。料理は、刺身(ハマチ・鮪・甘海老)、蟹と水母、鮎の塩焼、海老フライ・ハム・サラダ、茶碗蒸、粽・海老・大つぶ貝・泥鰌の串焼・メロン、煮物(椎茸・蕗・筍・鶏肉・卵豆腐)、寄せ鍋、漬物、御飯、味噌汁であるが、御飯と味噌汁以外はすっかり冷え切っている。然し、十分に飽極了になった。風呂に入って、大広間の騒々しいカラオケの音を聞きながら、ぐっすり寝た。
7時半に「朝食の用意ができましたので1階の中広間へおいで下さい」という放送が入ったので、降りて行った。玄関には「中川」の車が昨夜の食器を引き取りに来ていた。食卓の上に部屋番号を書いた札が置かれている。食事は、半熟卵、カワハギの一夜干、菜の花の胡麻和、海苔、漬物、御飯と味噌汁。
チェックアウトが9時で早いと思ったら、もう入浴客が来始めている。勘定書を見たら1人8550円で確かに安い。これなら仕出し屋の冷えた御馳走でも文句はいえない。
国道304号線から県道42号線を通って小矢部市に入り、北陸自動車道を横切って、源平ラインを登って行くと、道路から少し入った林の中に巴塚と葵塚があった。巴塚の碑には「巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる 晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」と書かれているが、一行目が削られている。塚の直ぐそばの木に栗鼠が遊んでいた。葵塚の碑には「葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す 屍をこの地に埋め墳を築かしむ」と書かれているが、碑文は殆ど削られている。
更に源平ラインを登って行くと源氏が峰に物見櫓のようなものが作られていたので登って義仲の気分で辺りを睥睨した。その先が倶利伽羅峠の猿が馬場源平古戦場跡である。芭蕉の句碑
あかあかと日は難面もあきの風
の裏面には
くりからのほととぎすなく夢の跡
の句が記されているが、作者不明である。
冬枯れや兵どもが夢の跡
木下順庵の詩碑
砺並山
聞昔源平氏
角雄各屈強
白旗翻鷲瀬
赤幟立猿場
光兜甲兵勇
火牛策最良
越山一奇捷
宇内播芬芬
大伴家持の歌碑
雲公鳥夜喧をしつつわが夫子を安宿な寝しめゆめ情あれ
宗祇の句碑
もる月にあくるや関のとなみ山
その裏面には
名月や法螺の音も無し砺波山
十返舎一九の歌碑
商ひに利生ぞあらん倶利伽羅の不動の前の茶屋の賑はひ
芭蕉の句碑
義仲の寝覚の山か月かなし
源平盛衰記と平家物語の大きな碑もあり、倶利伽羅峠は文学に満ちている。一昨日、昨日とさっぱり文学らしいものに接しなかっただけに、実に豊かな心地がする。火牛の像が2頭ある。
平家の本陣には軍議に使われたという大きな石のテーブルがあり、維盛、忠度等の配置がまことしやかに図示されている。それにしても立派なテーブルがお誂え向きの場所にあったものである。大きな源平供養塔があり、その前に「平清盛縁の松」という高さ1mばかりの松の木が植えられているのは何としたことだろう。後ろには為盛塚、「蟹谷次郎由緒之地」の碑、源氏太鼓の由来記等があった。倶利伽羅峠は標高200mそこそこであるが、谷は急峻で一万八千の死者で埋まったという話は頷ける。
これで、木曾義仲については、産湯の井戸から始まって旗挙げの地、戦勝の地、最期の地、お墓まで全て訪れたことになる。
峠の石川県側にある倶利伽羅不動寺に寄ってみた。元正天皇の時にインドの高僧が来て云々、「倶利伽羅」はサンスクリットで「黒い龍」を意味する云々と説明があった。倶利伽羅不動明王は剣に黒い龍を巻いているそうである。
朝来た道をそのまま引き返すことにして走り出した。小矢部市には変わった建築の学校が多いと聞いていたが、北陸自動車道の近くには東大の安田講堂そっくりの学校があった。
帰り道で昨日見落とした世界遺産を訪ねようと思い、最初に五箇山の村上家の川向こうにある流刑小屋に寄った。2.77m×3.63mの合掌造りの小屋である。中に裃を着た人形が座っているのが可笑しい。餓になったので五平餅を食べようと思ったが「今年はもう終わりです」という。
菅沼集落の少し南に重要文化財で五箇山最大の合掌造り住宅岩瀬家があるので寄ってみた。間口26.4m、高さ14.4mで確かに大きいし、作りも立派な豪邸である。
もう一度白川郷にも寄ってみた。天気が良いせいか昨日より人出が多い。荻町集落を一回りして、昨日と同じ店で飛騨牛の串焼きとみたらし団子を買って食べた。昨日は行かなかった西側にも回ってみた。本覚寺の境内にはオオタザクラという花弁が90枚以上もある珍しい桜の木があった。
遠山家にも立ち寄ってみたが、岩瀬家の方が大分大きい。これで世界遺産は完璧に把握したといっていいだろう。
御母衣ダムに寄ってロックフィル式ダムの構造を間近に眺めた。現在は随分水量が少なくなっているが、それにしてもよくこれで水圧に耐えられるものだと感心する。庄川には大小いくつものダムが造られていて電源開発はし尽くしたという感じがする。
飛騨路は木曽路に勝るとも劣らない山の中である。木曽路は一つの谷であるが、飛騨は至るところ山また山であり「信州も山国だが飛騨からみれば開けた下界である」と物の本に書かれている。飛騨からは島崎藤村のような文士が出なかったために「飛騨路はすべて山の中である」と紹介されなかったのが残念である。
荘川村を回って高山を通り抜け、丹生川村を登り始めると、夕陽に映えて真っ白に輝く北アルプスの連峰が素晴らしく美しい。長年眺めた山々ではあるけれど、真っ向から夕陽を浴びる姿を見るのは初めてである。峠にかかる頃にはかなり暗くなり、気温も1度まで下がったので凍結を心配しながら安房トンネルを走り抜け、無事に松本平に下りることができた。
諏訪のサービスエリアで牛肉弁当を食べて、走り続けたが幸いなことに全く渋滞がなく思ったより早く帰宅できた。今回は石川、富山、岐阜、長野、山梨、神奈川、東京を950km位走ったことになる。