義仲の寝覚の山か月悲し

忘月忘日 高山から白川郷、五箇山を経て倶利伽羅峠まで行ってみようと思い、朝7時半に出発して中央道に入った。数日前まで北日本は大雪に見舞われていたので、アルプス越えが些か気懸かりである。
 初めのうちは霧だか靄だか分からないが薄ぼんやりとしていた空もだんだんに澄んできて、南アルプスの連山や八ヶ岳がきれいに見える。自然の招きに応じて八ヶ岳のサービスエリアに寄り、眠気防止に「スッキリ」を飲み、山葵煎餅を買った。諏訪湖を横目で見ながら快調に走り、松本で長野自動車道を下りて国道158号線に入った。真っ直ぐ高山へ向かう予定だったが、我が先祖の神社が直ぐ近くにあるので寄っていくことにして、国道からそれた。一日市場を過ぎて中萱の無人駅に出ると、駅前に「貞享義民社」の大きな看板が立っていて、駅から500m程西に神社がある。神社の前には記念碑が建ち、道路を挟んだ南には立派な記念館が建っている。驚いたことには、宮本屋という菓子屋が以前の店舗の横の広い敷地に立派な新店舗を建てていた。神社にお参りし、神社の脇にあるお墓にお参りして、宮本屋で「加助最中」と「義民の里」を買って、先を急ぐことにした。仲間の連中は「想像していたより遙かに立派な神社だ」と誉めてくれた。
 再び国道158号線に戻り、松本電鉄の新島々駅を過ぎると梓川沿いの山岳道路に入る。以前に比べればかなり改良されてはいるが、カーブが多い上に道幅が狭く、特に古いトンネルではすれ違う際に気を使う。その上、だんだん高くなるに従って道路脇にも雪が残っているようになり、この先が心配である。然し、昨年の12月9日に開通した4370mの安房トンネルのお陰で、海抜1790mで葛折の安房峠を越える苦労がなくなった。安房トンネルが開通するまでは11月中旬から約半年間は通行が出来なかったことを考えると、通行料金は750円と高いが十分に有り難いと思う。トンネルを出てみるとまるで冬景色であるが、幸いなことに今日はそれ程気温が低くないので、道路脇にはかなり雪が残っていたが凍結の心配はなさそうである。平湯トンネルを抜けて丹生川村を三十数キロ下って行けば高山市である。
 高山は金森氏6代によって発展し、以後幕府直轄領となった。高山別院近くの市営空町駐車場に車を停めて、街を歩いてみた。駐車場の直ぐ近くに当地を代表する料亭「角正」の本店がある。粋な黒塀見越しの松にきれいな紅葉が色を添えているが、看板はなく、一見したところでは個人の家のような佇まいである。これが丸谷才一が「食通知ったかぶり」で訪れた店である。入ってみたい気もするが、食べ終わった後でトンカツ屋に飛び込まなければならないのも困るし、第一まだ開店していない。坂を下りる途中に「久寿玉」を醸造している平瀬酒造がある。餓になったので先ず腹ごしらえをすることにした。一人が「飛騨ラーメンが食べたい」というので探したがそれらしい店が見当たらない。ひやかしに入った蝋燭立て屋の主人に聞いて行ってみたら確かに「飛騨ラーメン」の看板を掲げた店があったが、満席だった。“銀座通り”を一回りしてみたが他に適当な店が見当たらなかったので、戻ってみると店内は空になっていた。然し、味は論評の対象にはならないし、量も少なく丸谷才一の心境になった。古い街並みが復元されている下三之町を見ながら五平餅を食べて、高山陣屋へ行ってみた。幕府の郡代役所の建物の実物が残っているのは全国でここだけである。郡代として赴任した父についてきた山岡鉄舟が13才の時に作ったという句
   降る雪と力くらべや松の枝
がある。陣屋の中を見学して外に出たら鳩が群がってきた。下三之町や下二之町の古い街並みを見て、高山市郷土館へ行った。永田家の土蔵を転用した展示館を見学した。駐車場に戻ってみて驚いたことには駐車料金が1050円だった。
 高山屋台会館を見ようと近くまで行ってみたが、時間が遅くなっていたので省略して古川へ向かった。飛騨の匠文化館へ行こうとしたが道路工事で通行止めになっている。整理をしている人にどう行けばいいのか聞いてもさっぱり要領を得ないので、適当に走り出したらナビゲーターが指示してくれて直ぐに行き着くことができたが、駐車場がない。よく見ると「町役場に駐車して下さい」と書かれているので、それに従った。5時までとなっていたが、入ったのは4時40分を過ぎていた。館長が「15分程しかありませんがどうぞ」といって案内してくれた。「左甚五郎はこの辺りの出身ですか」と質問したら我が意を得たりと「あれは架空の人物らしいです」と答え、我々のことを気に入ってくれたらしく時間を大分超過して丁寧に説明してくれた。「飛騨の匠」は大和朝廷に税を物の代わりに「技術」で納めたことに起源を発し、やがて優れた技術をもった匠達が全国に広がっていったという。実態は、最下位の労働者だったから労苦に耐えかねて逃散したのだろう。館内には千鳥格子、四方鎌継等興味深い展示品が並べられていた。同じ敷地内にある「起こし太鼓の里」の大きな太鼓を見て本日の見学を終了した。
 すっかり暗くなった通りを走って荒城川沿いにある八ツ三館に着いた。駐車場は裏にあると書かれているので、裏に回って車を停めると、直ぐ目の前が料亭「味処 観月」の玄関で、八ツ三館の玄関は建物の間を抜けた表側にある。荷物を持って表へ回って大きく立派な玄関に立つと、寺男のような着物を着たお兄さんが出迎えてくれた。「八ツ三館」と書かれた大きな欅の一枚板が飾られている。受付の脇にある応接間で茶菓の接待を受け、宿帳に記入して畳敷きの廊下を通って部屋に案内された。本館の2階には七福神の名前を付けた客室が7室あるが、今夜の泊まり客は我々だけらしい。部屋は予め予約しておいた「恵比須」の間であり、部屋の入口には小さな恵比須の面が飾られている。8畳と6畳の2間続きで、8畳間の鴨居にも恵比須の面が3個飾られているし、床の間には大小の刀が置かれている。襖や屏風には数多くの書が貼られていて、なかなかに風格のある部屋である。140余年前に八尾の三五郎がこの地に来て旅館を始めたので「八ツ三館」といい、信州の製糸工場へ女工として雇われていく娘達が集められた宿として知られている。明治時代の玄関のロビーに映画「ああ野麦峠」の撮影の折の写真が飾られているし、館内のあちこちに古い大きな時計が掛けられている。この本館は明治時代の建物であるが、設備は近代化されていて、洗面所には混合栓が付いているしトイレにはウオッシュレットが設置されているから安心である。
 夕食は「観月」の「すすき」の間に案内されて食べた。明治時代に建てられた本館とは対照的に、新館と「観月」はごく最近に建てられたものらしい。料理は金森家3代目の金森宗和が始めた茶道の茶懐石で宗和流本膳くずしといわれる本格的な懐石料理であった。食前酒、富山湾でしかとれない白海老の剥き身、蛍烏賊のキムチ風塩辛、紋甲烏賊・子持ち鮎の粕漬・春菊と菊の花の白合・鮭寿司・赤梅、刺身(平目・雲丹・鮪・鳥貝)、鮭のパイ包、鹿児島産の紫芋で穴子・蟹・銀杏を包んだものの葛あんかけ、飛騨牛のステーキ、シシトウと南瓜の天麩羅と海老と紫蘇の葉と蓮根のフライ、牛たんの粕漬を焼いたもの、河ふぐ(河合村で養殖しているミシシッピー川原産の鯰で、水質の良いダム湖で育てられる河合村の鯰は泥臭さが全くなく、雪のように白い身、淡泊な味、歯ざわりの良さは河豚にまさるとも劣らないと宣伝されている)の蒸し物、蕎麦、胡麻豆腐の吸物、御飯、漬物、デザートはコーヒーゼリーとメロン。よく吟味した材料を使って丁寧に調理された料理が一品ずつ運ばれてきて、どれもこれも実に美味しかった。箸袋に「霜月」と書かれているから、料理も月替わりなのだろう。月末のせいかも知れないが、年輩の仲居さんは「これは何ですか」等という質問にてきぱきと答えてくれた。

 夜半から雨になり、夜が明けても降っている。「観月」の「はぎ」の間に案内されて朝食を食べた。朴葉焼きねぶか味噌、納豆のなめたけ添え、卵焼きと蒟蒻の煮しめ細切り、ししゃもと大根の細切り、湯葉とひじき、海苔、漬物、御飯と味噌汁。 明治時代の玄関には恵比須・大黒が飾ってあり、囲炉裏に自在鍵が提げられている。先程まで降っていた雨があがって晴れ間が広がったかと思ったら又降り出したり止んだりめまぐるしく天気が変わる。玄関で女将に写真を写してもらい、車を回してもらって出発した。
 荒城川の対岸にある本光寺に寄ってみた。親鸞聖人の大きな像や「ああ野麦峠」の碑があり、信州の製糸工場へ行った女工達の名を刻んだ玉垣がある。寺の前には標高493.6263mの一等水準点がある。
 寺に車を置いて古い街並みを見て歩いた。「蓬莱」の渡辺酒造、「白真弓」の蒲酒造、三嶋蝋燭店等がある。渡辺酒造の前には杜氏の像があり、原料の米が堆く積まれていて仕込み作業が行われていた。三嶋蝋燭店には1mを越す道鏡蝋燭が飾られていた。
 古川の視察を終わりにして次の目的地白川郷へ向かうことにした。町外れに出ると山々の黄葉が美しい。一人が思わず「錦秋の秋」と叫んだ。山に大きな虹が懸かっていたので、車を停めて写真を撮った。
 河合村に入るとあまごの養殖池があちこちに見られる。沿道の電柱には「久寿玉」「蓬莱」「白真弓」の看板が掲げられているが、「久寿玉」圏、「蓬莱」圏、「白真弓」圏がはっきりと区分けされているのが面白い。この辺りでは「蓬莱」の勢力が強いように見える。
 白川郷まで後20kmばかりの所に来たら「天生峠通行止 白川方面は回り道」と表示されている。冗談ではない、回り道をすれば細長いUの字を描くことになり80km以上ある! 然し、他に道がないのだから如何ともし難い。小鳥川沿いに南下する道は実に寂しい間道(寒道というべきか)で、東海北陸自動車道建設工事の車以外は殆ど走っていないが、工事の車が落とした泥のお陰で車が泥だらけになってしまった。夏厩から国道に入りほっとしたが、それにしても長い道のりである。荘川村役場から庄川沿いに北上して白川方面に向かい、やっと御母衣湖に出た。御母衣ダムは昭和36年に完成した高さ131m幅405mのロックフィル式ダムである。ロックフィル式ダムというのは岩石を積み上げて粘土や砂で固めるとのことだが、よく水圧に絶えられるものだと思う。湖岸に水没記念碑が建っている。このダムの建設によって学校が3校水没し1206人が移住したとのことで、水没した照蓮寺と光輪寺から移植した荘川桜の巨木2本が天然記念物に指定されている。1本が土もろとも40トンだったという。巨木の脇に2代目が植えられているのが面白い。この地に来て浄土真宗を広めた嘉念坊善俊上人(後鳥羽天皇の第12皇子で親鸞の弟子)の像や佐佐木信綱の歌碑がある。
 御母衣湖沿いに走る国道156号線は至る所に現代版「木曾の桟」が設置されている。ダムを過ぎて少し行った所に重要文化財旧遠山家民俗館がある。160年程前に建てられたもので高さが15m程あり内部は5階になっている。中に入って上まで登ってみたが、囲炉裏の煙で真っ黒になっているが何とも寒そうである。
 遠山家から少し行くと平瀬という集落があり、近郷が「蓬莱」圏か「白真弓」圏である中でここだけは「久寿玉」圏である。平瀬酒造はここの出身かも知れない。
 庄川沿いに更に北上しやっと白川郷に辿り着くことができた。荻町の合掌集落に行き、農協に車を停めて先ず最古といわれている和田家を見た。合掌造りの家は現在白川郷全体で112棟あり、荻町には59棟あるとのことだが、歩いてみた感じでは合掌造りでない家の方が多く雑然とした印象を禁じ得ない。集落の外れにある明善寺の本堂と庫裏は白川郷最大の合掌造りである。然し、合掌造りの家は漠然と想像していたより小さかったし、集落が雑然としているのも「世界遺産」に相応しくない。飛騨牛の串焼きとみたらし団子を食べて昼食の代わりにした。飛騨牛の串焼きは大変美味しかった。白山の山頂は既に真っ白に雪を冠っているし、殆どの家は冬囲いを済ませている。もうすぐ白川郷は雪景色になることだろう。
 遠回りさせられたお陰で大分時間が遅くなったので先を急ぐことにして、五箇山へ向かった。先ず上平村の菅沼集落を訪れた。ここは9棟の合掌造りの家があるだけでこじんまりとしていて如何にも合掌集落らしい。集落の入口に「五箇山民俗館」と「塩硝の館」が並んでいる。この辺りでは養蚕が盛んで、蓬、麻、蚕糞等を原料として塩硝を作っていた。明治の中頃まで米が穫れなかったので、粟や稗、栗や栃の実等が常食であり、年貢は塩硝で納めたという。
 平村に入ったところにある村上家に寄って、もう一つの合掌集落である相倉へ急いだ。相倉集落は国道から少し入ったところにあり、荻町集落と菅沼集落の中間の規模である。集落にある地主神社には「森」の題で作った皇太子の歌
   五箇山をおとづれし日の夕餉時森に響かふこきりこの唄
の碑がある。
 国道に戻って、入口が合掌の形をしている五箇山トンネルを抜けると礪波平野が見えてきた。道路脇の展望台にある松村謙三の碑に敬意を表して、暮れかかった道を急ぎ、城端町を過ぎ福光町の銀座を抜けて山に入りかけた所に今日の宿法林寺温泉があった。
 近くの華山温泉や川合田温泉が一杯で、一番安い法林寺温泉しかなかったので予約した。「一泊二食で6050円〜9100円」という値段からオンボロな湯治場を想像していたが、着いてみると3階建てのしっかりした建物である。駐車場に車を停めて荷物を取り出していると「鮮魚 仕出し 中川」と書かれた自動車が入ってきて玄関前で停まった。小一時間経ってから「お食事をお持ちしました」といって大きな重ね箱を持って仲居さんが入ってきた。見ると箱に「中川」と書かれているから、先程我々と同時に着いた車で運んできたに違いない。料理は仕出し屋から取り、御飯と味噌汁だけここで用意して各部屋に配膳しているのだろう。料理は、刺身(ハマチ・鮪・甘海老)、蟹と水母、鮎の塩焼、海老フライ・ハム・サラダ、茶碗蒸、粽・海老・大つぶ貝・泥鰌の串焼・メロン、煮物(椎茸・蕗・筍・鶏肉・卵豆腐)、寄せ鍋、漬物、御飯、味噌汁であるが、御飯と味噌汁以外はすっかり冷え切っている。然し、十分に飽極了になった。風呂に入って、大広間の騒々しいカラオケの音を聞きながら、ぐっすり寝た。

 7時半に「朝食の用意ができましたので1階の中広間へおいで下さい」という放送が入ったので、降りて行った。玄関には「中川」の車が昨夜の食器を引き取りに来ていた。食卓の上に部屋番号を書いた札が置かれている。食事は、半熟卵、カワハギの一夜干、菜の花の胡麻和、海苔、漬物、御飯と味噌汁。
 チェックアウトが9時で早いと思ったら、もう入浴客が来始めている。勘定書を見たら1人8550円で確かに安い。これなら仕出し屋の冷えた御馳走でも文句はいえない。
 国道304号線から県道42号線を通って小矢部市に入り、北陸自動車道を横切って、源平ラインを登って行くと、道路から少し入った林の中に巴塚と葵塚があった。巴塚の碑には「巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる 晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」と書かれているが、一行目が削られている。塚の直ぐそばの木に栗鼠が遊んでいた。葵塚の碑には「葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す 屍をこの地に埋め墳を築かしむ」と書かれているが、碑文は殆ど削られている。
 更に源平ラインを登って行くと源氏が峰に物見櫓のようなものが作られていたので登って義仲の気分で辺りを睥睨した。その先が倶利伽羅峠の猿が馬場源平古戦場跡である。芭蕉の句碑
   あかあかと日は難面もあきの風
の裏面には
   くりからのほととぎすなく夢の跡
の句が記されているが、作者不明である。
   冬枯れや兵どもが夢の跡
木下順庵の詩碑
    砺並山
   聞昔源平氏
   角雄各屈強
   白旗翻鷲瀬
   赤幟立猿場
   光兜甲兵勇
   火牛策最良
   越山一奇捷
   宇内播芬芬

大伴家持の歌碑
   雲公鳥夜喧をしつつわが夫子を安宿な寝しめゆめ情あれ
宗祇の句碑
   もる月にあくるや関のとなみ山
その裏面には
   名月や法螺の音も無し砺波山
十返舎一九の歌碑
   商ひに利生ぞあらん倶利伽羅の不動の前の茶屋の賑はひ
芭蕉の句碑
   義仲の寝覚の山か月かなし
源平盛衰記と平家物語の大きな碑もあり、倶利伽羅峠は文学に満ちている。一昨日、昨日とさっぱり文学らしいものに接しなかっただけに、実に豊かな心地がする。火牛の像が2頭ある。
 平家の本陣には軍議に使われたという大きな石のテーブルがあり、維盛、忠度等の配置がまことしやかに図示されている。それにしても立派なテーブルがお誂え向きの場所にあったものである。大きな源平供養塔があり、その前に「平清盛縁の松」という高さ1mばかりの松の木が植えられているのは何としたことだろう。後ろには為盛塚、「蟹谷次郎由緒之地」の碑、源氏太鼓の由来記等があった。倶利伽羅峠は標高200mそこそこであるが、谷は急峻で一万八千の死者で埋まったという話は頷ける。
 これで、木曾義仲については、産湯の井戸から始まって旗挙げの地、戦勝の地、最期の地、お墓まで全て訪れたことになる。
 峠の石川県側にある倶利伽羅不動寺に寄ってみた。元正天皇の時にインドの高僧が来て云々、「倶利伽羅」はサンスクリットで「黒い龍」を意味する云々と説明があった。倶利伽羅不動明王は剣に黒い龍を巻いているそうである。
 朝来た道をそのまま引き返すことにして走り出した。小矢部市には変わった建築の学校が多いと聞いていたが、北陸自動車道の近くには東大の安田講堂そっくりの学校があった。
 帰り道で昨日見落とした世界遺産を訪ねようと思い、最初に五箇山の村上家の川向こうにある流刑小屋に寄った。2.77m×3.63mの合掌造りの小屋である。中に裃を着た人形が座っているのが可笑しい。餓になったので五平餅を食べようと思ったが「今年はもう終わりです」という。
 菅沼集落の少し南に重要文化財で五箇山最大の合掌造り住宅岩瀬家があるので寄ってみた。間口26.4m、高さ14.4mで確かに大きいし、作りも立派な豪邸である。
 もう一度白川郷にも寄ってみた。天気が良いせいか昨日より人出が多い。荻町集落を一回りして、昨日と同じ店で飛騨牛の串焼きとみたらし団子を買って食べた。昨日は行かなかった西側にも回ってみた。本覚寺の境内にはオオタザクラという花弁が90枚以上もある珍しい桜の木があった。
 遠山家にも立ち寄ってみたが、岩瀬家の方が大分大きい。これで世界遺産は完璧に把握したといっていいだろう。
 御母衣ダムに寄ってロックフィル式ダムの構造を間近に眺めた。現在は随分水量が少なくなっているが、それにしてもよくこれで水圧に耐えられるものだと感心する。庄川には大小いくつものダムが造られていて電源開発はし尽くしたという感じがする。
 飛騨路は木曽路に勝るとも劣らない山の中である。木曽路は一つの谷であるが、飛騨は至るところ山また山であり「信州も山国だが飛騨からみれば開けた下界である」と物の本に書かれている。飛騨からは島崎藤村のような文士が出なかったために「飛騨路はすべて山の中である」と紹介されなかったのが残念である。
 荘川村を回って高山を通り抜け、丹生川村を登り始めると、夕陽に映えて真っ白に輝く北アルプスの連峰が素晴らしく美しい。長年眺めた山々ではあるけれど、真っ向から夕陽を浴びる姿を見るのは初めてである。峠にかかる頃にはかなり暗くなり、気温も1度まで下がったので凍結を心配しながら安房トンネルを走り抜け、無事に松本平に下りることができた。
 諏訪のサービスエリアで牛肉弁当を食べて、走り続けたが幸いなことに全く渋滞がなく思ったより早く帰宅できた。今回は石川、富山、岐阜、長野、山梨、神奈川、東京を950km位走ったことになる。