翌朝は9時10分に出発して、四日市から東名阪道に入り、一路伊賀上野へ向かった。亀山までは有料道路であるが、亀山から先は国道25号線(名阪国道)となり無料である。有料高速道路並みの道を無料で走れるのは、実に素晴らしい。アメリカ並みである。車窓から見る伊勢や伊賀の国は、黒い瓦葺きの家が多い。頗る快適に走って、11時に上野市役所の駐車場に到着した。500円払って車を停め、芭蕉生家まで歩いた。実に暑い。途中に城のように石垣を積んだ上に建ててある家があった。芭蕉生家の門前には
古里や臍の緒に泣く年の暮
の句碑がある。玄関には「松尾」という表札が掛かっていて、受付にいるおばさんの顔は心なしか芭蕉に似ているような気がする。裏庭には「釣月軒」と呼ばれる6畳一間の建物がある。これは『貝おほひ』を執筆した若き日の芭蕉の書斎である。庭には芭蕉の木が茂っていて、
冬籠りまた寄りそはむ此のはしら
の句碑がある。投句箱があったので「尺玉を遠くに聞いて庭花火」「七夕の笹に重たき願ひ事」「海棠の眠り足らざる昼下がり」の3句を投じた。これが採択されれば蕉門未だ健在なり、採択されなければ蕉門既に滅びたりである。絵葉書を買って生家を後にした。
生家から直ぐの所に松尾家代々の菩提寺真言宗豊山派の愛染院があり、その境内に「故郷塚」がある。芭蕉は1694年10月12日に大阪で亡くなり、大津の義仲寺に葬られているが、駆けつけた門弟達が遺髪を持ち帰り愛染院の墓所に納めたという。本堂左手にある小さな門にある箱に200円入れ、生垣に沿って進んだ先に茅葺き屋根の小堂があり、中の石碑には「芭蕉桃青法師 元禄七甲戌年 十月十二日」と書かれているというが磨り減っていて字は殆ど読めない。
家はみな杖に白髪の墓参り
数ならぬ身となおもひそ玉祭
の句碑がある。お盆の直前だったので墓参りの人が大勢来ていた。「故郷塚」は一般の檀家の墓と同じ並びにあるので、200円払わなくても参拝することが出来たのだが・・・。
裏道を通って市役所に戻り、隣にある「桃青中学」に寄ってみた。校門には「上野市立桃青中学校」と書かれているが、「立」の字だけが小さい。校名には「立」を付けないのが正式であるが、現在では北海道、宮城県、長野県以外では「・・県立・・高等学校」という見識のない校名を用いるようになってしまった。ここでは「立」の字を小さく書くことによってささやかながら見識を保持しているらしい。出てきた女子生徒達に「桃青」の意味を聞いてみたら誰も知らない。おかしいと思ったら、ここの生徒ではなく緑が丘中学からバスケットの試合に来たという。一人が体育館の方に走っていってこの学校の先生に聞いてきて「松尾芭蕉のことだって」という。彼女たちは、上野の出身者としては芭蕉より椎名桔平のことを良く知っていて、市内に彼の生家の店があると言っていた。明るく元気のいい子供達だった。野球部の男子生徒達にも声を掛けてみた。彼等はこの学校の生徒だったので「桃青」の意味は知っていたが、余り俳句に興味を持ってはいないようだった。
上野公園では骨董市が開かれているのを横目で見ながら芭蕉記念館に入った。芭蕉と弟子達の書が多数展示されている。『奥の細道』の旅をする際に基本的な教科書とした久富哲雄著『奥の細道の旅ハンドブック』の改訂版があったので買った。前庭に「偲翁桜」がある。
公園内にある俳聖殿は、俳聖芭蕉を顕彰するために地元出身の代議士川崎克氏が建てたものだという。2階は円形で旅笠を表わし、1階は8角形で衣と脚を表わし、柱は杖を表わしているという。雷が鳴り始めた。
同じく公園内にある伊賀流忍者博物館に入った。700円の入場料を払って並んで待っている間にパラパラと雨が降ってきたが、本降りにはならなかった。約20人ほどで忍者屋敷に入り、どんでん返し、抜け道、覗き穴などの仕掛けをくノ一が説明してくれた。どんでん返しの実演に挑戦してみた。屋敷の茅葺きの屋根には鮑の貝殻が多数縛り付けられてあるが、何の意味があるのだろうか。隣の忍者伝承館には忍者の使った道具などが展示されている。随分色々な道具が使われていたのに驚いた。
上野公園の登り口には
やまざとはまんざい遅し梅花
の句碑がある。町には俳聖堂の形をした電話ボックスがある。流石は俳聖の町である。三重交通の「忍者号」と書かれた面白いミニバスが走っている。流石は忍者の町というべきか。公園の隣にある西小学校は木造の校舎である。市役所には
升かふて分別かわる月見かな
の句碑と「自然」の碑があり、
夏来てもただ一つ葉の一葉哉
の垂れ幕が掛けられている。流石は芭蕉の生誕地である。市立図書館の前には中曽根康弘書の
草いろいろおのおの花の手柄かな
の句碑がある。そういえば、中曽根首相は駄句をひねっていましたね。
近鉄伊賀線は建物と建物の僅かな隙間を縫って町のど真ん中を走っている。その上野市駅の前には大きな芭蕉像が立っている。駅の近くに、芭蕉が処女句集『貝おほひ』を奉納したという菅原神社上野天神宮がある。この神社には何故か山門と鐘楼がある。境内には筆塚と松尾神社があり
初ざくら折志もけふはよき日奈里
の句碑がある。
駅前の不二家に寄ってソフトクリームを食べて一休みした。次は鍵屋の辻と伊賀越資料館である。「伊賀越仇討」が行われた鍵屋の辻は町の西の外れにあり、「ひだりならへ みぎいせみち」と書かれた石柱が立っている。資料館は我々が200円払って入館したら、天井に付いている2機の扇風機が回り出した。ここ鍵屋の辻は、渡辺数馬が荒木又右衛門の助太刀により河合又五郎を討った所謂「鍵屋の辻の決闘」の現場であり、関係する資料が展示されている。仇討ちの発端は「衆道の恨み」だという。庭には河合又五郎首洗供養地蔵池がある。怪しかった空から土砂降りの雨が降ってきたが、見学している間に殆ど上がった。数馬達が又五郎一行を待ち伏せしたといわれる数馬茶屋で草団子とわらび餅を食べた。茶屋の柱には刀傷がある。
400m程歩いて崇廣堂を訪れた。伊賀、大和、山城の領地に住む藩士の子弟を教育するために、1821年に伊勢津藩の藩校有造館の支校として建てられたというが、「支校」というにしては非常に大きく立派なものである。西隣には石垣造りの塀を巡らした市立崇廣中学校がある。かつてはここに崇廣堂の武道場が置かれていたというから、巨大な藩校だった。
2km程離れた所にある蓑虫庵に行ってみた。町の南の外れである。伊賀上野には芭蕉に縁のある草庵が5つあったというが、現存するのは蓑虫庵だけである。芭蕉の門弟服部土芳が1688年3月4日に開き、「些中庵」と名づけたが、一週間後に訪れた芭蕉が庵開きの祝に贈った句が
みの虫乃音を聞に来よ草の庵
であったため、この庵を「蓑虫庵」と改名したという。庵にはこの句の額が掛けられている。敷地内には
古池塚 古池や蛙飛こむ水の音
なづな塚 よくみればなつな花さく垣ねかな
みの虫塚 蓑虫の音を聞ばやとこの庵 黄子園
若菜塚 卒度往て若菜摘はや鶴の傍 土芳
等の句碑がある。また、「わらじ塚」は芭蕉が故郷に帰った折に脱ぎ捨てた草鞋を土芳がもらいうけて作ったという。芭蕉堂には芭蕉の像と土芳の位牌が祀られている。入るときに渡された蚊取り線香の入った缶を下げて歩いたが、それでもあちこち蚊に刺された。蝉が賑やかに合唱していた。
蓑虫の庵に響く蝉の声
上野公園の裏手にある旧小田小学校の本館を見に行った。明治14年に建てられた洋風の木造2階建てで現存する小学校校舎としては県内最古であるという。校舎の前に
雁来ればすぐ初霜や伊賀盆地 橋本鶏二
の駄句碑がある。開智学校、中込学校などの明治初期の学校を県内に有する信州人にとってはこの学校は特に感激するほどのものではないが、先程訪れた崇廣堂には恐れ入谷の鬼子母神である。
横光利一を生んだ上野高校は「自彊不息」を校訓とし、明治時代からある校舎は県の文化財に指定されている。
伊賀上野に来たからには丸谷才一の「食通知ったかぶり」に登場する「金谷」に登楼しなければならない。伊賀牛の元祖「金谷」は農人町芭蕉街の中程にある。予め予約しておいた時間に行ってみたが、駐車場が一杯だったので、電話したら店の前に出てきて案内してくれた。間口4間、奥行き50間と思われる店構えである。店頭は牛肉店であり、ガラスケースに牛肉を並べて売っている。見れば、高価な方から売り切れている。我々と同時に入ってきた3人組が「予約してありませんが・・・」と言ったら「相部屋で良ければどうぞ」といって案内していたところをみると、当日でも登楼可能らしい。長ーい廊下に沿って部屋が並んでいる2階の一番表の道路寄りにある「桐本」という部屋に通された。6畳間で、丸いテーブルが2つ置いてある。「バター焼」と「すき焼」と「肉刺し」を注文したら「ほんならこちらのテーブルを使います」といって、片方を端に寄せた。「網焼き」はテーブルが違うらしい。先ず「肉刺し」が運ばれてきた。生姜醤油につけて食べるのであるが、とろけるような美味さである。直ぐに「バター焼」が用意された。丸谷才一によれば年増女を思わせる最上等のヒレ肉が、鍋であっさりと焼かれたのを、大きな小鉢に一杯に盛られた大根おろしに浸して口に運ぶ。この素晴らしい味を丸谷才一は「柔媚」と表現している。次は「すき焼」である。4枚のロース肉のうち先ず2枚を肉だけで焼き、残りの2枚は玉葱、白菜、三つ葉、豆腐、白滝などと一緒に煮る。実に美味しいが文豪でない私にはこの味を適切に表現する言葉を見つけることが出来ない。要するに、言葉では表現できないほど美味しいのである。飽極了になり十分満足した。「バター焼」6500円、「すき焼」6000円、「肉刺し」2300円でこれだけの味が楽しめるのだから、伊賀の文化は素晴らしい。農人町の各家の軒先には芭蕉の句を書いた短冊を付けた風鈴が下げられている。流石は芭蕉街である。
伊賀上野で「食通知ったかぶり」に登場する「わかや」という田楽の店にも行ってみたいと思った。鍵屋の辻の近くにあるので、先程店のたたずまいや開店時間などを下見しておいたのだが、どう叩いてみてもこれ以上入る隙間は全くないほどに飽極了である。「次回の楽しみ」ということにした。
翌朝は8時半に出発し、名阪国道を東進して9時に関宿に着いた。「関」の地名は、愛発、不破と共に、日本三関と呼ばれた鈴鹿関が置かれていたことによる。江戸幕府の宿駅制度化により、東海道に53の宿場が設けられ、関の宿場が整備された。関の宿の「東の追分け」で東海道から伊勢別街道が、「西の追分け」で大和街道が分岐していたため、これらの街道を往来する人々で賑わったという。宿場町としての面影が今も残る町並みが続いており、1.8kmが国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。観光駐車場に車を停めて東海道47番目の宿場町を見学することにした。先ず町の中程にある「関の地蔵院」を訪れた。「関の地蔵に振袖着せて奈良の大佛婿に取ろ」の俗謡で知られ、741年行基菩薩の開創と伝えられている。境内の本堂・鐘楼・愛染堂の3棟は国の重要文化財に指定されている。鐘楼は朱と紺の派手な色彩である。
町を歩いていると「東亜足袋商会」の御主人から声を掛けられた。「どちらから」「東京から来ました」「息子が東京の多摩にいます」・・・。履き物、傘、衣類などを商っている老舗で、店内には「勤倹ゴム底地下足袋代理店」の金文字の看板や「御大典記念大売り出し」のポスターなどが飾られている。間口5間奥行き25間の家には明かり取りの天窓が付いている。細長い通り土間の作りは涼風が吹き抜けて結構涼しいことが分った。海軍一等水兵としてシンガポールまで行ったという87才の駒田尚氏はこの町のことをあれこれと語ってくれた。耳が遠いので残念ながら双方向の会話にはならなかったが、随分色々なことを教えてもらうことが出来た。駒田氏自身が書いた「鈴鹿馬子唄について」と「関の山車について」の資料をもらって東へ向かって歩き始めたら追いかけてきて、「鈴鹿馬子唄」が書いてある団扇をくれた。関宿訪問の良き想い出として大切にしよう。街並は、所々に「時代錯誤」な建物があるだけで、郵便局や銀行までも江戸時代を偲ばせる造りである。これ程見事に保存されている街並は他にはないだろう。現在は4基だけになったが、最盛期には16基もの山車があり、互いに華美を競い、また狭い関宿を練ったことから、「関の山」という言葉が生まれたといわれている。寛永年間より営業しているという深川屋菓子店は餅菓子「関の戸」で知られている。殿様に献上する際に用いる紋章入りの菓子容器が店に飾ってあった。「東の追分け」には20年に一度伊勢神宮から移されてくるという大鳥居がある。
10時半に関宿を出て、国道1号線を東進し井田川で左折して、亀山市にある日本武尊の能褒野墓に参拝した。ここが宮内庁が認定している日本武尊の墓である。全長90m、後円部の直径が54m、高さ9mであり、この地域最大の前方後円墳である。「塩、米等をまかない事 宮内庁」と書かれている。日本武尊の墓といわれるものはあちこちにあるが、宮内庁はここ能褒野と大和の琴引原(御所市)、河内の旧市邑(羽曳野市)の3箇所を「認定」している。能褒野以外は、御名御璽となった日本武尊が白鳥と化して飛び去り舞い降りた場所といわれていて、「白鳥陵」と呼ばれている。伊吹山の荒ぶる神を征伐に向かった日本武尊は、策略にあい、手負いの体で杖衝坂を越え、能褒野に辿り着いた。
倭は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる倭しうるはし
と国を偲んで詠い、やがて御名御璽となった。『古事記』では秀逸の歌物語である。しかし、『日本書紀』ではこの歌は景行天皇が九州遠征の折に凱旋の歌として日向で歌ったことになっている。実際は、倭国即ち九州王朝の史実を近畿天皇家に「移植」したのであろう。隣には日本武尊を祀る能褒野神社があり、境内には「連理の榊」と称する木があり、3m程の所で枝が繋がっている。
次に、鈴鹿市の加佐登調整池(白鳥湖)と鈴鹿フラワーパークの隣にある荒神山観音寺を訪ねた。言わずと知れた「荒神山の決闘」の現場である。1087年の建立というからかなり古くからある寺である。1866年4月8日に行われた荒神山の決闘は映画や浪曲で広く知られている。神戸の長吉の賭場を乗っ取ろうと企む安濃徳次郎、長吉に加勢する吉良の仁吉と清水一家、「♪吉良の仁吉は男じゃないか・・・」「♪嫁と呼ばれてまだ三月・・・」・・・、私の教養の重要な一角を成している。本殿には三度笠と回し合羽が飾られている。広沢虎三書の「吉良仁吉之碑」が建っている。小さい堂に長ーい草鞋が掛けられている。お札やお守りを売っている寺の「売店」で清水28人衆の手拭いが主力商品らしい。何とも節操のない寺である。荒神山といえば「決闘の場」として知られているが、この寺は春日局の信仰が厚く、局が寄進した釣鐘や仏像があり、歌碑
さと遠きかうじが山乃紅葉に観音大悲ひかりとどまる
がある。
白鳥湖の反対側にある白鳥塚に寄ってみた。東西78m、南北59m、高さ13mの県内最大の円墳であり、日本武尊の墓といわれているが、宮内庁認定ではなく加佐登神社が管理している。加佐登神社は日本武尊を祭神とするが、御名御璽の間際に持っていた笠と杖を祀ったのが名前の起こりであるという。日本武尊はこの地で御名御璽になり白鳥になって大和へ飛び去ったという伝説から「白鳥」の名が付けられている。正面に細長い石の角柱が多数並んでいる。加佐登神社は社殿の改修工事中だった。
国道1号線に戻った所に石薬師小学校があり、その隣に佐佐木信綱資料館と生家がある。信綱先生は万葉集の研究で知られる国文学者、歌人であり、文化勲章第1号受章者である。「水師営の会見」「勇敢なる水兵」「夏は来ぬ」などの作詞者としても知られている。資料館は残念ながら休館日だった。連子格子の生家の隣には信綱が寄贈した石薬師文庫があり、
これのふぐらよき文庫たれ故郷のさと人のために若人のために
の歌碑がある。文庫は小学校の敷地と一体になっていて、学校の門内には二宮金次郎の像が立っている。
石薬師寺には
春なれや名もなき山の薄霞
の句碑や
しばの庵に夜よる梅の匂ひ来てやさしき方もある住ゐかな 西行
名も高きおぢひも重き石薬師瑠璃の光はあらたなりけり 一休
などの歌碑がある。
直ぐ近くに蒲冠者範頼之社という小さい神社があり、その近くに源範頼が鞭を逆さにして差したところ、根付いたと伝えられる「蒲桜」という桜がある。根元から多数の枝が広がっている。
旧東海道の四日市宿と石薬師宿の間に「杖衝坂」がある。国道1号線から近いのであるが、探すのに苦労した。『古事記』によれば、日本武尊は東国を平定した後尾張に入り、宮簀媛を妃とし、草薙剣を姫に預けたまま伊吹山に住む荒ぶる神を退治しに出掛けたが敗れ、大和へ帰る途中でここに差しかかった際に大変疲れていたので杖をついて歩いたといわれる事から、その名が付けられたという。但し、『古事記』の記述では、当芸(岐阜県養老郡養老町)から尾津の前(三重県桑名郡多度町)に至る間に「杖衝坂」を登っているので、この場所では不自然かと思われるが、今後の研究に俟つことにしよう。更に、『古事記』によれば、尾津の前から能褒野に至る途中で「吾が足三重の勾の如くして甚疲れたり」といった、というのが三重県の名前の由来であるという。この坂はそれに相応しい。急な坂の途中に「史跡 杖衝坂」と書かれた碑が建っていて、日本武尊が疲れを癒したという2つの井戸(弘法の井戸と大日の井戸)と、
歩行ならば杖つき坂を落馬かな
という季語の入っていない芭蕉の句碑がある。また、杖衝坂を登り切ったところに、日本武尊の血を封じたという「日本武尊御血塚」がある。日本武尊のDNAが検出できるかも知れない。それにしても昔の街道は何故わざわざこんな急な坂を選んだのだろうか。勿来の関や小夜の中山や宇津ノ谷峠でも同じ疑問を抱いた。
国道1号線から23号線に入って北上し、長島町に寄って、長良川河口堰を再訪した。今度は時間が早かったので魚道観察室に入って魚の活動を見ることが出来た。引き潮の時間らしく堰を挟んで上流側と下流側の水位差がかなり大きかった。アクアプラザも開いていたので寄ってみた。夕立の後で気温が下がっていて、外を歩くのが楽だった。
芭蕉は「奥の細道」の長旅の後、大垣から伊勢参りに向かう途中長島に寄り、大智院に3泊している。また、曽良は信州諏訪の出身であるが大智院の住職をしていた伯父を頼って長島に来て、藩主に仕えたという。「曽良」という名前は木曽川と長良川に因んで付けたといわれる。その大智院を訪れた。門前に曽良の句碑
ゆきゆきて倒れ伏すとも萩の原
があり、境内には
うき我をさびしがらせよ秋の寺
の句碑がある。門前には「蕉翁信宿処」の碑があるが、3泊したのに「信宿」とはこれ如何に。
「長島一向一揆殉教之碑」がある願證寺 に行ってみようと思ったが、地図にも載っていないし、ナビゲーターも知らない。偶々大智院に荷物の配達に来ていた宅配便のお兄さん親切に調べてくれて、国道の反対側だということは分ったが、とても辿り着けそうもない。困り果てて願證寺に電話してみたら詳しく教えてくれた。「1号線を北上してパチンコ屋の角を右折すればいい」というので、それに従って進んだ。田圃の中に寺が見えているのだが、道は恐ろしく狭い。どうにか辿り着くことが出来た。浄土真宗本願寺派の寺であるが、門扉に付いている紋が左が菊、右が五三の桐である。境内にある「長島一向一揆殉教之碑」を見ることが出来、苦労して辿り着いた甲斐があった。先程電話で話をした住職がでてきて「おお」というので遠くから挨拶をした。
今回も行く先々で様々な人々に出会ったが、総じて尾張、伊勢、伊賀の人々は礼儀正しく親切であった。
これで今回の訪問予定を全て回ったことになる。日本武尊から荒神山の決闘まで大きな格差があるけれど、芭蕉の出身地を存分に訪ねることが出来て、収穫の多い旅であった。暑い盛りの旅ではあったが、行く先々で満開の夾竹桃と百日紅が歓迎してくれた。