6時半頃に起きてみると寒かったのでストーブをつけた。起きあがってみると、布団の中にカメムシがいた。ここは「カメムシの宿」である。窓の外を見ると昨夜摘み出したカメムシが寒さのために凍え死んで屋根の上に転がっていた。朝食は玄関前の食堂で食べた。スナック・バー風の紅や青のランプが灯っている。洋風の洒落た部屋を作ったつもりらしい。外に出てみると玄関から庭にかけてカメムシの死骸が沢山散らばっていて「カメムシの宿」に相応しい。「カメムシの宿」の経営者押切六郎氏は平成10年に第11回岩切正太郎賞を受賞している。押切氏の功績は「最上川観光ホテルを設立したのをきっかけに、最上川の豊かな自然・歴史・文化を素材として、日本三大急流の一つ最上川の観光開発に関わり、最上峡芭蕉ライン観光株式会社を設立して舟下りの考案・推進に取り組み、これを山形県を代表する観光資源に発展させた。また「最上川舟歌」を広く紹介し、全国に先駆けて「雪見舟」を運行した。また、新庄観光協会会長や山形県最上地域八市町村観光連盟会長などとして、観光事業の振興はもとより、地域の伝統・文化の掘り起こしや各種イベントの開催などに情熱的に取り組み、新庄市をはじめ山形県の観光振興に寄与している」であるという。
最上川に沿って国道47号線を進むと、右手に「白糸の滝」が見えたので、停まって暫し見物した。ここにもカメムシが沢山いる。この辺り一帯が「カメムシの里」らしい。ここでは最上川の流れが少し速くなっている。芭蕉は船下りをしてこの辺りで「水みなぎつて舟危し」と思ったのだろうか。更に47号線を進んで立川町に入ると間もなく清川小学校があり「芭蕉上陸之地」の標柱が立っている。
五月雨を阿ツめて早し最上川
の句碑と芭蕉の像、芭蕉縁の古井戸がある。ここは「清川史跡 清川関所跡」であり、芭蕉達は書類不備のために役人からつれなくされ辛うじて上陸した地である。「清川関所跡の榎」があり樹齢10年程の小さな榎があった。何代目であろうか。
県道45号線を南下して羽黒山有料道路に入り、羽黒山の頂上に登った。案内板を見てもよく分からないので「山伏詰所」にいた禿頭の白装束のオジサンに芭蕉の句碑の場所を聞いたら、直ぐ先にある蜂子皇子の墓の隣だという。蜂子皇子は崇峻天皇の皇子であり、墓は杉の大木である。「杉の木皇子」の間違いではないのかしら。それにしてもこの山は杉の巨木が多い。
涼しさやほの三日月の羽黒山
加多羅礼努湯登廼仁奴良須当毛東加那
雲の峯いくつ崩れて月の山
を纏めた句碑がある。出羽神社・月山神社・湯殿山神社3社共同の朱塗りの鳥居をくぐった先に羽黒山鐘楼がある。鐘楼は元和4年(1618年)に山形城主最上源五郎家信が再建寄進したものであり、建治元年8月27日の銘がある鐘は鎌倉幕府より奉納されたもので、重量は9750kgあるという。本殿には出羽神社・月山神社・湯殿山神社の3枚の大きな縦書きの額が並んでいて、その奥に副島種臣書の「三神合祭殿」横書きの額が掛けられている。それぞれの神社の賽銭箱が置かれているから、独立会計制度を採っているらしい。賽銭箱の前にオロナミンCの瓶などが供えられている。神様の体力回復を祈念する信者が自分の分を供えたのだろうか。祭壇の前には50人以上が烏帽子を被った神官から祈祷を受けていた。厚さが2mもあろうかと思われる茅葺きの屋根の葺き替え工事をしていた。今回は、句碑の移設工事の現場に立ち会ったり、屋根の葺き替え工事を見物できたり、幸運に恵まれていたというべきである。本殿の前には鏡池がある。モリアオガエルの生息地として知られ、銅製の古鏡が多数発掘されたという。
羽黒山の本来の参道は細く長ーーい石段の道である。芭蕉縁の南谷へ行くにはこの参道を下りて行かなければならない。案内板には約15分とあるからたいしたことはないだろうと高をくくって下り始めたが、行けども行けどもそれらしいものは見当たらない。ガイドに引率されて下りて来た一行は「ガイドさん、これは違うらしいよ」「私も分からなくなりました」と心細いことをいっていた。やっとのことで「三の坂」に辿り着くと「県指定史跡 南谷」の説明板があった。そこから入る横道はぬかるんでいるところもあって大変だったが、靴跡が付いているところを見ると私が最初の訪問者でないことは確かである。かなり入ったところに“追分け”があったので、取り敢えず右に進んでみた。「県指定史跡 羽黒山南谷」と書かれた標柱があり、暫く行くと小さな池のある平らな所に出た。
有難や雪をかほらす南谷
の句碑がある。草深い道をかき分けてここまで来なければ真の芭蕉愛好家とはいえない。四阿があり、礎石らしく上が平になった直径1m程の石が数個散らばっている。ここが南谷別院跡である。芭蕉はここに泊まって蕎麦切りを振る舞われたという。代わりに昨日宿で出された煎餅を食べた。袋に「五月雨を集めて早し最上川」と書かれている。山形県は隅々まで芭蕉文化が浸透している。追分けまで引き返し、念のため左の道を進んでみた。こちらは“坊主の墓”で、一番位の高いのが権僧正だった。この辺りは杉に混じって栃の木が多い。落葉が始まり、実が落ちている。形のいい実を幾つか拾ってきた。三の坂に戻る直前に別院に向かう二人連れとすれ違った。彼等も真の愛好家に違いない。急な石段道を汗をかきながら登って山頂に戻った。石段の幅が足に合わなくて苦労したせいもあるが、南谷は遠かった。
有難や足を鍛へる南谷
翌日から暫くは
有難や痛みが残る南谷
という羽目になった。山頂に戻ると、鐘楼の辺りで山伏が法螺を吹きながら威勢良く十人程の人を案内して歩いている。よく見れば先程山伏詰所にいた禿頭ではないか。何のことはない、観光ガイドの山伏である。修行が足りず出世の道から外れて山伏になったのかも知れない。禿山伏は私のことを覚えていて「芭蕉を調べているのですか」と聞いた。大きな串団子を食べて腹ごしらえをして、禿山伏と一緒に写真を撮った。
県道47号線を通って鶴岡に行き、市役所に車を停めた。尾花沢や新庄と違ってここは車が多い。市役所前にある藩校旧致道館を見て、鶴岡公園の一角にある高山樗牛の像と墓石に敬意を表した。高山樗牛は鶴岡の出身である。致道博物館に芭蕉句碑があるというので行って見たが入館料が700円だったので省略した。同じ句の碑が日枝神社にもあるというので行って見た。こちらは無料で、弁天の隣に
珍しや山をいで羽の初茄子び
の句碑がある。300m程離れたところに「奥の細道 芭蕉滞留の地 長山重行宅跡」がある。4畳半程の敷地であるが、句碑
めづらしや山をいで羽の初なすび
がある。更に300m程先の川縁に「奥の細道 内川乗船地跡」がある。芭蕉はここから船に乗って内川、赤川、最上川と下って酒田へ出たという。芭蕉の行く先々が全て史跡になっている。これ程の人物は歴史上希であろう。市内には「東北公益文科大学」のポスターが貼ってある。
高速道路山形道に入った。入るときに「250円頂きます」というから「随分安いな」と思ったが、酒田で料金所を通過したら係員が「うおー!おおい、200円払え!」と大声で叫びながら追いかけてきたので驚いた。どういうシステムになっているのか知らないが、私の車がどこから入ったかがどうして分かるのか不思議である。酒田市街に入り、先ず山居倉庫に行ってみた。形と大きさが同じ米倉が11棟並んでいる。換気のために2重屋根になっていて、南側には日除けのために大きな欅が一列に植えられている。米どころ庄内の港町、酒田を代表する景観である。
市役所の前を少し入ったところに「不玉宅跡」の碑が立っている。不玉は医師伊東玄順の俳号で、芭蕉はここに9泊したという。芭蕉はここに滞在中に
暑き日を海に入たり最上川
温海山や吹浦かけて夕涼
初真桑四にや断ン輪に切ン
の句を作った。市役所に車を停めて歩いてみた。国指定史跡旧鐙屋、玉志近江屋三郎兵衛宅跡、本間家旧本邸等がある。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」といわれた豪商本間家の旧本邸は思った程の大きさではなかった。入場料が600円と高いので省略して、玄関前にある立派な松を眺め、部屋を覗き込んで済ました。こういう精神だから本間様には遠く及ばないのだろう。安種亭令道寺島彦助宅跡は今は進学ゼミになっている。NTTの向かいに東北公益文科大学の開設準備室があった。六角灯台のミニチュのような公衆電話に英・朝・中・露4か国語の表示がある。酒田は国際都市らしい。
酒田港が一望できる日和山公園に登った。芭蕉の像と句碑
暑き日を海に入たりもがみ川
温海山や吹浦かけて夕涼
及び歌仙碑がある。斎藤茂吉の歌碑、与謝野蕪村の句碑等々数え切れない程の碑があり、酒田の灯台、千石船の1/2模型、陸蒸気等も展示されている。酒田港の父ともいうべき河村瑞賢の像もある。因みに瑞賢は“伊勢の人”である。直ぐ隣に即身仏で有名な海向寺がある。拝観時間は17時までとなっているが、既に10分程過ぎている。「先にこちらに寄れば良かった」と後悔したが、住職の娘らしい若い女性が明かりを消したりつけたりしているので聞いてみたら「いいですよ」という。拝観料は400円である。「南無大師遍照金剛」と唱えながら、歯切れのいい口調ですらすらと説明してくれた。「五穀断ち、十穀断ちと次第に食べ物を減らしていき、最後は木の実だけで生命をつなぎます。お風呂に入っても体が沈まず、浮き上がるようになったら地面に深く穴を掘ってそこに入り、竹筒で送られてくる空気で息をつぎ、結跏趺坐してお経を唱えながら鈴をちりんちりんと鳴らします。この鈴の音が聞こえているうちは生きているというしるし、聞こえなくなったら亡くなられた合図とみなして直ぐに掘りあげます。もし御遺体の形が崩れていたら形を整え、また埋め直して千日。千日経って掘りあげたときに腐っていたら失敗、忘れられて掘りあげられなかったらそれも失敗。この庄内地方には、掘りあげられなかった御遺体があちこちにたくさん埋まっているということです」云々。湯殿山に籠もり土中で断食をして即身仏になった初代忠海上人と9代円明海上人の2体が緋の衣を纏って座っている姿を拝観することが出来た。私も幸運だったが、彼女も小遣い稼ぎになって喜んでいるに違いない。南無大師遍照金剛。
駅に寄ってレンタカーを返して、直ぐ近くの東急インに行った。チェックインして直ぐにこのビルの3階にあるフランス料理店ル・ポットフーに電話したら、石曽根貞一郎支配人が出た。支配人は私の高校の同級生である。彼は永年勤めた西友を5年程前に退社して、夫人の実家が経営していた事業の一つであるこのレストランの支配人になった。丸谷才一の「食通知ったかぶり」によって、酒田に裏日本随一のフランス料理店があることは知っていたが、まさか我が同級生がそこの支配人になろうとは夢にも想わなかった。店に入ってみると、想像していたより大きく立派である。60席プラス10名程度の個室が2室あるという。席がゆったりと配置されているのが高級レストランに相応しい。用意されていた席について暫し支配人と四方山話に花を咲かせた。一通り料理の説明を聞いたところで、ワインが注がれた。上山にある武田ワイナリーが当店のために作っている特製の白ワインである。今夜は日曜日の夜ということで客は少ない。奥の席に初老の夫妻がいて、その手前に4人組の客がいる。その他に2組程いるだけである。料理が運ばれてきた。最初は飛島沖のハタの洋風刺身、サラダ添え。刺身に小さく切ったトマトが添えてあり、サラダには紫色の「もってのほか」と黄色の「寿」という2種類の菊の花が付いている。ハタの歯触りが何ともいえないが、残念ながら丸谷才一のような文章力がないのでうまく表現できない。とにかく美味い。次は、少し南にある鼠ヶ関産の大越中バイ貝のパイ包み焼き。大越中バイ貝の身を茸と煮て貝殻に戻しパイで蓋をしたもの。その次は、ハタハタの一夜干し燻製。人参、レタス、赤と黄色のピーマンのマリネ添え。頭の硬い骨だけを残して食べた。ハタハタがこんなに美味しく食べられるとは知らなかった。次が、赤エイのヒレの焦がしバターソース。軟骨がコリコリして実に美味しい。これは「食通知ったかぶり」に紹介されている料理である。ここでパンが出てきた。次は、ガサエビの漁師風スープ。スープを飲み、エビを手掴みで食べる。豪快な味である。これも「食通知ったかぶり」に登場する料理である。その次は、天然の車エビの海藻包み焼き。細切りの昆布に包んで焼いて来た。ズイキ芋グラタンが2切れ添えてある。流石に天然の車エビは素晴らしい。ここで、口直しに庄内柿のシャーベットが出された。最後は、creme brulee 即ちカスタードプリンを焼いて冷やしてザラメを振りかけて焼き鏝を当てた物。女性に大人気のメニューだという。食生活文化賞銀賞受賞のシェフ小野寺正悦氏が腕を振るって作る料理を堪能することができた。食べることに集中してもらうためにBGMをかけないのも、料理に自信がなければできないことだろう。紅茶でお開きにした。グラスの水も水道水ではなく、酒の仕込みに使われているものと同じ鳥海山の伏流水である。奥の席にいた初老の夫妻は大阪から来た食通らしい。私がメモを取りながら食べているのが気になったらしく、支配人に「あの人は料理評論家か」と聞いたそうである。彼等は私より先に食べ終わって、満足そうに帰っていった。店内を隈無く見学して、いったん部屋に戻り、9時にロビーで支配人と待ち合わせして、夜の町に繰り出した。「食通知ったかぶり」に登場する相馬屋が数年前に料理屋をやめて商売替えしている様子を見てから、支配人行きつけの酒田倶楽部に寄った。米兵を相手にした倶楽部だったというが、ママはそれに相応しい白髪の御老女である。現在のチーフはインターハイに陸上競技の選手として出場したという大柄な娘で、かつて陸上部でならした支配人と記録を比べていたが、どうやら支配人が負けているらしい。杯を傾けながら、我らが長野県松本深志高等学校が如何に素晴らしい学校であったかを確認し合い、ル・ポットフーが裏日本随一いや日本一のフランス料理であり続けることを期待して固い握手を交わした。
朝起きてみると鳥海山がきれいに見える。設置審査のため東北公益文科大学へ向かった。途中最上川を渡るときにもの凄い数の鴨が集まっているのが見えた。もう暫くすると無数の白鳥が飛来するという。
酒田では倉庫白鳥ルポットフー
仕事を済ませて、大学の隣にある土門拳記念館に寄ってみた。池には水面が見えなくなる程多数の鴨がいた。ゆっくり見物して16時37分発の汽車で帰る予定だったが、雨が降り始めたので14時35分発の「快速もがみ川6号」3136Dで帰ることにした。タクシーを呼んで駅に行き、新庄15時30分発「つばさ144号」の座席を確保した。一昨日と同じ11号車1Aである。最上川沿いに走る快速は1両編成の気動車であったが、極めて快速らしい走りであった。新庄から乗った「つばさ」の11号車は山形まで貸し切りだった。トランベールの10月号には今回訪問した場所の写真が3枚載っていた。羽黒山南谷にある芭蕉の句碑、尾花沢の養泉寺の門及び門前からの眺めである。米沢を過ぎたところで牛肉弁当を買って食べた。
今回は山形県内の芭蕉の足跡をかなり丁寧に訪ねた。今や、芭蕉に関しては滅多な人には引けを取らない積もりであるが、途中から快速に乗ってきた2人連れも関西弁で「芭蕉さん」のことを話していたから、相当な芭蕉ファンかも知れない。