命なりけり小夜の中山

 忘月忘日に小夜の中山を訪れたが夕方だったので扇屋の31代目当主で街道名物の川島ちとせ婆さんと話をすることができなかった。調べてみたらこの婆さん何と100才ではないか。「存命中に会っておかなければ悔いが残るから一日も早く再訪しよう」と思った。然し、高齢のことだから毎日店を開けているとは限らない。1996年の「VISA」の紹介記事には「営業は10時頃から適時、休みは不定」と書かれている。念のため前日に電話してみた。2回かけて応答がなかったので「もしや・・・」と不安がよぎったが3回目に「扇屋です、どなた」とはっきりした声が返ってきた。「明日行こうと思いますがお店開けてますか」「お待ちしています」ということで、安心して出掛けることにした。
 9時30分頃出発して厚木から東名高速に入った。この季節にしては暖かいが、雪化粧した富士山が美しい。
   三国一の富士の山甲斐で見るより駿河良い
 小夜の中山に行く前に、宇津谷峠の「蔦の細道」に寄って行こうと思う。宇津谷峠は東海道の難所で、蔦の細道、東海道、旧国道1号線、新国道1号線と4本の道がある。前回は新旧の国道1号線を通り東海道を見たので、今回は「蔦の細道」を見に行くことにした。在原業平が通った道だから是非とも歩いてみたい。
 東名高速を静岡で下りて「蔦の細道」へ行く手前の丸子の「丁子屋」に寄ってとろろ汁で腹ごしらえをした。平日というのにほぼ満席である。床の間に「鍾馗様」らしい大きな人形が3体飾られている。売店で婆さんへの土産に甘納豆を買った。
 新国道1号線のトンネルを抜けて「蔦の細道」公園に行ってみた。国道から公園に入るところが急なヘアピンで曲がれないのでバックで入った。ここで「東海道」と「蔦の細道」が分かれているが、「蔦の細道」の方は綺麗に整備されていて在原業平の面影などかけらも見られない。がっかりしながら川に沿って更に行ってみると「蔦の細道」と書かれた小さな石があり、川を渡る小さな橋を架け替える工事をしていて仮の橋が架けられている。橋を渡ったところから山に登る細く険しい道があったが、色男が通った道とは思えないほど急峻である。頂上に業平の
   駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
の歌碑があるはずだが、きれいに咲いている椿の木の所まで行って引き返した。
   業平は高位高官下女小女
といわれ、生涯に数千人と伝えられる強者である。最近の学説では「強者は前立腺癌に罹りやすい」といわれているから、業平の死因は前立腺癌だったに違いない。
 この辺りは山の斜面を有効に活用して茶畑や蜜柑畑にしていて、山の蜜柑畑から蜜柑を下ろすケーブルがあちこちに架設されている。
 国道1号線を走って小夜の中山へ向かった。勝手知ったる道を登りつめると扇屋のシャッターが半分開いている。婆さんが店先にいたので「お婆ちゃん、今日は」と声をかけたが聞こえないらしい。大きな声で「今日は、昨日電話した・・・」といったら「ああ、貴方ですか、なかなかおいでにならないので・・・」といわれた。鶴首して待っていてくれたらしい。「どちらからおいでですか」「お子さんは大きいですか」「今年は雨が多くて・・・」「神経痛で・・・」「この飴は息子と嫁が造っている」「明治天皇がお泊まりになった・・・」等色々な話をしてくれた。多少耳が遠いけれども一語一語はっきりした口調で喋る。商品の説明も実にきちんとしていて分かり易い。一緒に写真を撮り、「子育飴」を大小2個と小冊子を買った。今日はカメラの調子が悪くとうとうシャッターが切れなくなってしまったが、用心のために買ってきた「写るんです」が役に立った。お土産を持っていったのを喜んでくれて、飴を1箸サービスしてもらった。甘味が自然で実に美味しい。
 そろそろ店じまいをするのか、飴の入った重いアルミニウムの容器を持って奥に入ろうとして転んだので、驚いて「大丈夫ですか」と駆け寄った。暫くして起きあがって「足が悪くて・・・、医者は神経痛といいます」といったが、大丈夫らしい。「桜の咲く頃又おいで下さい」「ワラビの頃にもどうぞ」と何度も繰り返していた。私がカメラを忘れかけたのを見て「それを忘れないように」と注意してくれた。実にしっかりしている。100才のお婆さんが元気であるのみならず、一人で商売をしているというのは驚異的である。
   春のうちにまた来るべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
この分では後数年は大丈夫だと思われるが、今日は婆さんに会えて本当に良かった。
 久延寺に寄ってから公園の一番高い所へ登ってみた。桜の木が沢山あり、その向こうに富士山がきれいに見える。西行の歌碑
   風になびく富士のけむりの空に消えて行方も知らぬ我が思ひかな
が建っている。
 山を下りて、日坂宿の事任八幡宮へ行ってみる。「願い事がそのまま叶えられる」神社といわれ、坂上田村麻呂に縁があり、枕草子の225段に
   ことのままの明神いと頼もし
   「さのみ聞きけむ」とも言はれたまへと思ふぞ、いとをかしき

と記されている。「さのみ聞きけむ」は古今集巻19俳諧歌にある讃岐の歌
   ねぎ言をさのみ聞きけむ社こそ果ては嘆きの森となるらめ
である。遠江国一宮というにしては、金比羅様やお稲荷様が同居していたりしてたいしたことがなさそうにも見えるが、境内にある橘の巨木は立派である。
 「金谷の石畳」へ向かうことにした。芭蕉の句碑を目標にして行ったら
   馬に寝て残夢月遠し茶の烟
の句碑があり、道を挟んだ反対側が「石畳」の終点だった。ここは「石畳」の一番上に当たる金谷坂上で、ここまでの約430mの金谷坂の石畳が復元されていると書かれている。通常は坂の下から途中の石畳茶屋の辺りを見物するらしい。この辺りは牧の原台地で一面の茶畑であるが、それにしても見渡す限りの綺麗に刈り込まれた茶畑と林立する霜除けの扇風機の柱が壮観である。ここは、明治維新で路頭に迷った幕臣と大井川の川越し人足達が開墾したそうである。
 「問はれて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に離れ、身の生業も白浪の、沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情けを掛川から、金谷へかけて宿々で、・・・」で知られる白浪五人男の一人である日本左衛門の首塚を見に行こうと思い、大井川鉄道の新金谷駅に行ってみたら、線路越しに見える墓地がそうらしいが、道が分からないので駅の案内所で聞くと、静岡弁で丁寧に教えてくれた。静岡弁は信州弁に近いので私にはよく分かるし懐かしい。教わった通りに行った積もりだったが全然違う所に出てしまった。どうやらベンツの通れないような小路を入らなければならないらしいので、節を曲げて路上駐車をして歩いて行くことにした。首塚は墓地の一角にあり、真新しい看板が立てられていた。
 薄暗くなってきたが、川向こうの島田にある「大井川の渡し跡」を見に行くことにして、大井川橋を渡った。博物館に車を停めて河川敷に下りてみたが、新しく作られた公園で「連台」がある以外は古そうなものは見当たらない。後で調べたら「大井川川越遺跡」は河川敷ではなく博物館の隣だった。それにしても、自分で渡ることを認めずに「川越制度」を強制したのは恐れ入谷の鬼子母神である。