風流の初めや奥の田植え唄

 今回は芭蕉の「奥の細道」を訪ねてみようと思う。今頃は芭蕉が歩いたのと殆ど同じ季節である。忘月忘日、国立府中から中央道に入り、首都高速から外環を通って東北道に向かった。月末の金曜日で雨とあってかなり渋滞していて、東北道に入るまでに約2時間かかった。東北道は沿線の緑が綺麗で清々しいが、いつものことながらベンツやBMW等は殆ど走っていない。
 1日目は那須一帯で芭蕉の足跡を辿ってみようと思うが、「那須」といえば那須与一と乃木将軍、というわけで、先ず乃木将軍に敬意を表して、西那須野塩原で東北道を出て東北線を越えた所にある乃木神社に寄り参拝した後、宝物館と旧乃木別邸を見学した。宝物館には将軍に縁のある品々が多数展示されていて興味深い。将軍の辞世の歌は
   うつし世を神去りましヽ大君の御後したひて我はゆくなり
であるが、パンフレットには「ヽ」が「、」として印刷されているのが可笑しかった。将軍は「神去る」という言葉を御存知であった。佐佐木信綱作詩の「水師営の会見」の歌は実に格調が高い。別邸へ向かって歩いて行くと、林の中に軍刀を突いて立っている将軍の銅像があり、その前で傘を軍刀代わりにして写真を撮った。そばにある案内板に将軍が友人に書き送った歌
   暇あらば君も一度来て見ませ那須野が原の雪の曙
があった。別邸は一度焼失し再建されたものである。神社を出たところにある割烹「錦」で鰻を食べた。
 次に大田原市にある玄性寺に行ってみた。ここには那須与一の墓がある。大田原市の街灯は与一の故事に因んで扇を逆さまにした形をしている。
 大田原市の隣の湯津上村に光丸山法輪寺という西行に縁のある寺があるので行ってみた。大きな枝垂れ桜で西行が訪れたときのものではなく2代目らしいが立派なものである。西行はここで
   盛りにはなどか若葉の今とても心ひかるる糸桜かな
と詠んだという。天狗堂に安置されている天狗面は、高さ210cm、横160cm、鼻の高さ130cm、重さ1トン、木彫りでは日本一といわれている。
 黒羽町の大雄寺・芭蕉の広場・芭蕉の館へ行ってみた。ここには
   今日も又朝日を拝む石の上
   山も庭もうごきいるるや夏座敷
   田や麦や中にも夏のほととぎす
等芭蕉の句碑がいくつかある。「山も庭も・・・」の句は意味が分からないと思ったら本来は「山も庭に・・・」だったとのこと、それなら分かり易いし名句だと思う。閉館寸前に芭蕉の館に滑り込むことができた。庭には芭蕉と曽良の銅像が立っている。
   木啄も庵は破らず夏木立
の雲厳寺に行きたいと思ったが、時間が遅くなったので残念ながら割愛した。
 いよいよ本日の本命である西行の歌で知られる「清水流るるの柳」を訪ねることになり、黒羽町の芦野へ向かう。走って行くと田圃の中にそれらしい柳の木が目に付いた。近付いて見ると、柳の木が2本あり、西行の歌碑
   道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ
と芭蕉の句碑
   田一枚植ゑて立去る柳かな
を見ながら暫しいにしえの歌聖・句聖の心境にひたる。柳の脇を清水が流れているがこれは如何にも最近の作という感を拭い得ない。この柳は別名「遊行柳」ともいわれている。よく見れば、この辺りの道には柳の並木が植えられている。丁度田植えが終わったばかりで「田一枚植ゑて・・・」の句にぴったりである。
   田一枚植ゑてしばしの柳陰
 既に5時をかなり過ぎているので宿へ急ぐことにした。今日の泊まりは那須温泉郷の一番奥にある大丸温泉である。途中黒田原を通った。大学の同級生に那須農業高等学校黒田原分校出身の男がいたが、物凄い“ド田舎”だと思っていた彼の産地黒田原は結構賑やかな所ではないか。当時の那須農業高等学校黒田原分校は現在では那須高校に昇格しているらしい。
 大丸温泉は海抜1300mというだけあって随分登ったところにあった。一風呂浴びて夕食にした。露天風呂「川の湯」は、最上流が女性専用でその下に幾つか混浴の風呂が作られている天然の湯の川である。高い所から落ちている湯を肩に受けてみたがなかなか快適であった。

 朝目を覚まして風呂に入った。朝食後、山を下って殺生石を見に行く。硫化水素の臭いがするが、箱根の大涌谷程の迫力はない。芭蕉の句碑
   石の香や夏草赤く露暑し
があるが、
   飛ぶものは雲ばかりなり石の上
の句碑は「芭蕉」という字をセメントで埋めてあるのが可笑しい。この句は芭蕉の作と思われている向きが多いが実際は越中の俳人麻父の作である。殺生石に関する限り芭蕉の句よりこの方が遙かに優れていると思う。小さな石の地蔵がありポリバケツに賽銭が貯まっているが何故か首がない。
   飛ぶものは首ばかりなり石の上
温泉神社があり立派な五葉松と芭蕉の句碑
   湯をむすぶ誓ひも同じ石清水
がある。
 国道4号線から東北線の豊原駅を通って白河の関跡を訪ねた。ここは松平定信が「白河の関はここにあった」と“決定”した場所である。白河神社の境内には「源義家幌掛け楓」という小さい楓の木、「源義経旗立ての桜」という小さい桜の木、「源義経矢立ての松」の根、藤原家隆の手植えといわれる樹齢800年の「従二位の杉」等がある。「奥の細道」の碑の他に、後鳥羽天皇の歌碑
   雪にしく袖に夢路もたえぬべしまた白河の関の嵐に
白河川柳能因会建立の川柳碑
   関所から京へ昔の三千里 剣花坊
   白河を名どころにして関の跡 五花村
歌碑
   たよりあらばいかで都へつげやらむけふ白河の関はこえぬと 平兼盛
   都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関 能因法師
   秋風に草木の露を払はせてきみが越ゆれば関守もなし 梶原景季
がある。能因法師の歌は余りにも有名であるが、法師は京にいてこの歌を作ったらしく、それを皮肉る川柳が
   白河の関を窓から覗てる
   能因は川留めなどの嘘をつき
   能因は家で白河夜船なり
などたくさんある。神社の外の道路脇には芭蕉の句碑
   西か東か先早苗取る風の音
があった。
 白河の関は2箇所にあったので「二所の関」といわれている。片方だけ訪ねたのでは片手落ちになるので、そのもう一方といわれる栃木県との県境にある「境の明神」にも行ってみた。玉津島神社と住吉神社が並んでいるが、福島県側には「福島県側が玉津島神社、栃木県側が住吉神社」と書かれており栃木県側には「栃木県側が玉津島神社、福島県側が住吉神社」と書かれている。一体どうなっているのだろうか。どちらも小さな神社であるが、特に栃木県側の神社は影が薄い。福島県側の神社の境内には芭蕉の句碑
   風流の初めや奥の田植え唄
や大江丸の句碑
   能因にくさめさせたる関はここ
があり、小ベンツで来たカメラマン夫妻が写真を撮りまくっていた。
 国道294号線を北上して白河市街に向かう途中に「吉次の墓」があるので寄ってみた。金売り吉次は賊に襲われてこの地で死んだという。少し手前に「吉次食堂」というのがあったので引き返して寄ろうかとも思ったが、そのまま走って白河市街に入った。町の中が実に質素である。松平定信の倹約の精神がいまだに活きているらしい。レストラン等が殆ど見当たらないところを見ると、定信は「外食」も禁止したらしい。これでは
   白河の清き流れに魚住まず元の濁りの田沼恋しき
   それ見たか余り倹約なすゆえに思ひがけなき不時の退役
等と皮肉られたのも無理からぬことである。
 流石に餓極了になったので4号線に入って直ぐの所でラーメンを食べて、須賀川へ向かった。市役所に車を停めて、敷地内にある「芭蕉記念館」に入り、芭蕉に関するビデオを見て記念にテレホンカードを買った。歩いて十念寺まで行って
   風流の初めや奥の田植え唄
の句碑を見た。白河の関にもこの句の碑があって変だと思ったが、須賀川で「白河の関を越える時どんな句を詠んだか」と聞かれて答えたのがこの句だというから、両方にあって一向に差し支えない。
 4号線を走って二本松市安達が原にある「鬼婆伝説」の真弓山観世寺へ行く。境内には「鬼婆供養石」「蛇石」「笠石」「芭蕉休み石」「祈り石」「夜泣き石」「甲羅石」「安堵石」等と名付けられた巨石があり、子規の句碑
   涼しさや聞けば昔は鬼の家
がある。門を出て50m程行って杉の巨木がある所が鬼婆の墓といわれる黒塚で、平兼盛の歌碑
   みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか
等がある。“自然に呼ばれた”ので境内に戻って用を足そうと思ったら既に閉門されていた。
 「智恵子抄」を口ずさみながら高村智恵子の生家へ向かった。ここも時間外で入れなかったので外回りを見ただけであるが、なかなかに立派な家である。
 二本松から福島・飯坂まで東北道で行き、そこから国道13号線で板谷峠を越えて米沢へ向かった。列車で越えた印象では相当にきつい峠だろうと覚悟していたが、走ってみると実に快適である。東栗子トンネルが工事中のため片側交互通行で5分程待たされた後“模範的”な運転をする若い女性の軽自動車がいて、いくら合図をしても動じない。やっと追い抜いて難を免れたが我々の後には遂に車の影が見えなかった。米沢市をかすめて随分山道を登ったところに今日の宿泊地白布温泉がある。茅葺き屋根の宿が東屋、中屋、西屋と3軒並んでいる。今日の宿は西屋である。一風呂浴びてから食事にしようと思って「滝風呂」に入ったが、湯が2条の滝になって落ちていて湯舟が3つ洗い桶が2つと石鹸がある以外には全く何もない。食後、建物内を見学したが、300年以上経つというだけあって風格があり、廊下には籐茣蓙が敷き詰めてある。勿論スリッパ等というものは履かずに素足で歩く。廊下を歩く音等がかなりうるさい。

 朝起きて風呂に行き、少し熱かったのでホースで水を入れながら入った。湯ノ花がふわふわと水中に浮かんでいるのが面白い。今日は素晴らしい晴天である。山を下りて米沢に戻り、最初に旧米沢工業高校の校舎を見に行った。現在は山形大学工学部になっている。門前で何処に車を停めようかと迷っていたら、守衛のおじさんが中に入るようにと合図してくれている。守衛所で記帳して見学した。
 次に上杉家廟所へお参りに行った。謙信公を真ん中にして手前の左に偶数代、右に奇数代の当主の廟が一列に並んでいる。2代目と4代目、3代目と5代目の間が広く空いている理由を受付で聞いてみたら「30万石の時代の格式を表わしている」とのことであった。
 上杉神社に行って、先ず稽照殿という名前の宝物館に入って上杉家縁の文物を見学した。謙信公の仮名書きの手紙は「上杉謙信は女だった」という説を支持するような書体だった。庭にある立派な詩碑は「霜は軍営に満ちて秋気清・・・」という謙信公の漢詩である。
 米沢を後にして、13号線を福島まで戻り、瑠璃光山医王寺に寄った。ここは佐藤継信・忠信兄弟の墓のある寺であり、芭蕉の句碑
   笈も太刀も五月にかざれ紙幟
 がある。宝物殿には弁慶の笈、義経の直垂、弁慶筆の大般若経、二股の竹の旗竿等が展示されている。これらが本物ならば凄いと思うが、それにしては些か無造作に展示されている感じがする。芭蕉が訪れた時には太刀もあったのだろうか。継信の戒名は「吉祥院殿八過継信大禅定門」、忠信の戒名は「清水院殿劔勝忠信大禅定門」である。兄妹の墓の脇に大きな椿の木があり、蕾が一杯落ちている。この椿の木は佐藤兄弟に相応しく、花が咲かず蕾のまま落ちるという。駐車場の横にサクランボの木が数本あり赤い実をつけている。机が置いてありサクランボが並べられていたので1パック1000円というのを800円に値切って買った。駐車場の前にある「木鶏」という蕎麦屋に入って昼を食べたが、教科書にも出ているから有名な店らしい。
 飯坂温泉に行って芭蕉も入ったといわれている共同浴場「鯖湖湯」を見た。改築したばかりらしく新しい建物で、脇の高い櫓の上に巨大な配湯槽の桶が乗っている。
 今回の最後の見学地である「文知摺観音」へ行く。河原左大臣源融と虎女との悲恋の伝説にまつわる文知摺石がある。大きな文知摺石の周囲はもみじの木が何本もあるから秋にはさぞかし綺麗だろう。京都から分骨したという左大臣の墓と虎女の墓が並んでいる。左大臣の歌碑
   陸奥の忍ぶもぢ摺誰故に乱れ初めにし我ならなくに
芭蕉の句碑
   早苗取る手もとや昔しのぶ摺
子規の句碑
   涼しさの昔をかたれしのぶ摺
がある。
 福島南から東北道に入って帰路についたが途中かなり渋滞があった。今回走った沿道は「麦秋」に相応しく麦畑が黄金色に輝いていた。