名栗ぞ春の錦なりける

忘月忘日 東京近郊で昔の街並みが見られる所としては川越が代表的であるが、今回は秩父地方を訪ねてみようと思う。「秩父には良い日帰り温泉があります」と教えられたので、ついでに寄ってみることにした。天気予報によれば、寒気を伴った低気圧が東進中で夕方から雷雨、所によっては雹が降るかも知れないという。秩父地方は“所による”恐れがありそうで気懸かりであるが、寒気が消滅することを念じて楽天的に出掛けることにした。入間、飯能を経由して行く積もりで漠然とルートを頭に描いていたが、ナビゲーターは拝島から奥多摩街道を進むように指示しているので、素直にそれに従った。青梅線に沿って福生から羽村へと進む。初めて通る道であるがなかなか快適である。羽村は今は市であるが昔は「羽」村だったとみえて、「羽」「羽東」「羽西」「羽中」等という地名がある。何故か「羽南」や「羽北」はないらしいが、「東」「西」「中」「白」でも字一色の可能性は高い。
 青梅に入ると道がごみごみしてきた。青梅東高校はあるけれど青梅高校がないのは、もし青梅高校が甲子園に行けば「フレーフレーおーめーこー」とやることになって具合が悪いからかしら。
 青梅の市街を過ぎ、成木という集落を抜けて少し行くと山道に入った。ナビゲーターが指示しているから大丈夫だろうとは思うけれど些か心細い。やがてトンネルを抜けて埼玉県の名栗村に入った。「なぐり村」とは随分物騒な名前である。ところがこの村は文字通り「花いっぱい」の村である。桜は殆ど散っていたが、三つ葉躑躅、桃、椿、花水木、雪柳、レンギョウ、山吹、アッツ桜、藤、チューリップ、すみれ、・・・、その他名前が分からないが色とりどりの春の花が咲き乱れている。新緑と山桜が混じった山も素晴らしい。
   見渡せば柳桜をこきまぜて名栗ぞ春の錦なりける
花を眺めながら走っていたらナビゲーターが脇道に入るように指示している。500m程先で再び元の道に戻るように見えるから何故わざわざ寄り道をさせるのか不思議に思ったが、指示通りに走ったら、その道沿いは一段と花が綺麗に咲き乱れている。このナビゲーターのこの地域の担当者はここの出身で、自慢の花を見せるために寄り道を指示するようなプログラムを作ったに違いない。それにしても見事な“花盛り村”である。
 名栗村の次は横瀬町である。「なぐり」の次が「よこせ」ではまるで山賊街道ではないかと思ったが、「よこぜ」と読むらしい。横瀬町に入って暫く行くと国道299号線の正丸トンネルの出口に合流した。秩父市に入って少し渋滞があったが、秩父銀座を避けるために「上野町」を右折して国道140号線を通り「聖地公園前」を左折して再び299号線に戻るルートを選んだ。これはこれから行くことになっている小鹿野の本陣寿旅館の女将から教わった“抜け道”である。299号線にぶつかる交差点は地図には「相生町」と書かれているし現場の標識も「相生町」であるがナビゲーターには「わかされ」と出ている。おかしいなと思って辺りを見回したら、何と交差点の直ぐそばにある小さなラーメン屋の名前ではないか!!!!!! このナビゲーターの担当者はこのラーメン屋の知り合いらしい。それにしても、綺麗な花を見せるために寄り道をさせたり、知り合いのラーメン屋の名前を交差点の名前にしたり随分悪戯をしている。但し、「わかされ」は「別去れ」又は「分去れ」で「追分」と似たような意味をもつ言葉らしいから、ここは昔「わかされ」と呼ばれていたのかも知れない。
 299号線を進み荒川を渡った。流石に荒川はここまで来ても水量が豊かで立派な川である。「信濃石」という所から旧街道に入り、少し進むと小鹿野町の中心街で本陣寿旅館は直ぐに分かった。玄関に入って靴を脱いで上がろうとしたら太鼓を叩いて歓迎されたのには驚いた。ロビーには享保時代の作といわれる雛人形や古陶器等が飾られていた。「代官の間」の前を通って奥まったところにある「勘定奉行の間」と書かれた部屋に通された。随分天井が低いが「槍や刀が使えないように天井を低くしてある」と説明書きがしてあった。
「お風呂とお食事とどちらを先になさいますか」と聞かれ、餓極了だったので反射的に「食事をお願いします」と答えた。ここの料理は「代官料理」といわれていて、漆塗りの大名膳が用意されている。食前酒は隣の両神村で造られている源作さん原作の「源作印」ワイン。2段重ねの器の上の段には筍・蒟蒻・人参・昆布・蕗・がんもどき・莢豌豆・ひじき・豆等の煮物、下の段には蒟蒻の刺身が入っている。この辺りは蒟蒻の産地とのこと。大名駕籠の様な形の入れ物の中に小皿が2つあり、岩茸と胡瓜の酢味噌和えと山芋の梅肉和えが入っている。後から、岩魚の塩焼き、天麩羅(舞茸・蓮根・薇)、鍋(春雨・野菜・餅)が運ばれ、最後は蕎麦だった。蕎麦を運んでくる前に「蕎麦が最後ですが直ぐにお持ちして良いですか」と随分念入りに確認していた。
 食事が終わって飽極了になったので、風呂に入ることにした。風呂場に行ってみると誰も入っていないし、本日の口開けらしい。男湯は「殿の湯」と「控の湯」となっていて、一段高い「殿の湯」から「控の湯」に湯が流れ落ちている。ジェットバスであるが「殿」になったり「控」になったりして、ふやける程になった。戻ったら、隣の部屋に3人連れの客が入って賑やかに食事を始めていた。
 小鹿野の街を歩いてみた。本陣寿旅館の隣の由緒ありそうな酒屋には「だんべえ」という看板が掛かっていて「源作印」のワインの他に「だんべえ」という焼酎を売っていた。北海道の人が見たら驚くだろう。横町に入ると簓子のある黒板塀の家があるが、壊れかかったままになっているのが気になる。通りから少し入った所に随分立派な不動尊の堂があるが、殆ど無視され放置されているように見える。道端に真新しい銅像が建っているので寄ってみたら、元小鹿野町長加藤彰久夫妻で、町長の方は町で建て、夫人の方は息子で衆議院議員の加藤卓二氏が建てたと書かれている。加藤彰久氏は「清廉潔白温厚篤実」と称えられている。「清廉潔白温厚篤実」というのは「何もしなかった」というのに近いのではないだろうか。
 帰り道で「信濃石」に寄ってみた。随分大きな石である。この街道は佐久に通じる街道、つまり“抜け佐久街道”で信州との交易の歴史を物語るものらしい。
 秩父市に戻って先程の「わかされ」の交差点を過ぎて次の交差点に来たら、標識は「上宮地町」でナビゲーターの表示は「桜湯前」である。見れば交差点の脇に「桜湯」という風呂屋があるではないか。いやはや恐れ入谷の鬼子母神である。
 車を置く所を探しているうちに今宮神社があったので寄ってみた。樹齢1000年を越す欅の超大木がある。本殿を改築中で小さな仮本殿が造られていた。「一粒万倍」を基本教義として八大竜王を祀ってあるらしい。
 「秩父錦」の矢尾酒造は今では矢尾百貨店の陰に隠れている。“銀座四丁目”の角にある加藤近代美術館はかなり古い建物だが、織物問屋だったものを加藤卓二が買い取って自分のコレクションを展示する美術館にしたらしい。玄関には小鹿野にあったのと同じ銅像が飾られていた。秩父神社はこの地方の総社で2000年の歴史をもち、現在の社殿は徳川家康が再建したものであるが、朱塗りの派手な造りで余り有り難みが感じられない。
 通りには幾つか“古い”建物が残ってはいるが、単に古いだけでたいして価値があるようにも見えないし、板壁や土壁等壊れかかったままになっているものが多いのが気になった。恐らく保存する意志が無く壊れるのを待って現代風に改築する積もりなのだろう。最後に武甲酒造に寄った。
 帰りは正丸トンネルを抜けて299号線を通ったが、やはりかなりの山越えをした。いずれにしても秩父は相当な山奥にあるということが分かった。寒気を伴った低気圧は消滅してしまったらしく雨に降られずに済んだ。